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第16話
夜の十時を回ったころ、高橋はいつものように早々に帰っていった。だって、彼女が待ってるから。それが、口癖のような毎度の理由だ。結婚祝いとして高橋の分は俺たちで奢り、一次会でお開きになった。
飲み始める前より、随分と夜空の雲は分厚くなっている。その下で帰路につく高橋の背中を、二人で店の前から見送った。
「……飲み直す?」
このまま解散するつもりだった。だが吉澤の「たばこも吸いたいし」のひとことで、俺の意思は脆く崩れ落ちていく。たばこの匂いが苦手らしい高橋の前では、俺たちは吸わないと決めていた。
「あ、忘れてた」
入り直した居酒屋で一杯目を注文した後、吉澤がため息をつき、たばこの箱をくしゃりと握る。どうやらストックもないらしい。テーブルに投げ出された空箱の音が、やけに耳に残った。
ほら、と自分のたばこを吉澤に差し出す。
「俺のやつでいいなら」
「これさ、結構重いというか、吸いごたえあるよな」
クレームか、と身構えたが、吉澤は慣れた手つきでとん、と箱を叩き、そのまま一本取り出した。
「試したことがあるのか」
「田所が吸うと美味しそうに見えるから」
本来は自分を労るために吸うものなのに、今日ばかりはただの理想として終わっていきそうだった。
吉澤の手で心臓を鷲掴みにされているようで、どうにも居心地が悪い。それでも、たばこに火をつけ、やがて空間に煙を吐き出すその瞬間まで。昔の面影を探すように、吉澤の横顔から目が離せない。
「やっぱり重かった」
苦笑しながら、吉澤が言う。だったら返せ。手を伸ばせば、ヤダよ、と軽やかに避けられた。
「せっかくもらったのに、返せるわけないだろ」
たばこを深く吸いこむその仕草は、あまりに愛おしげだった。先端に灯るオレンジ色の火が、瞬くように光る。いつも吸っているはずのそれが、なぜだか全くの別物のように思えた。
「今日は随分わがままなんだな」
「……田所も、高橋みたいに説教すんの?」
今日のあれは説教だったんだろうか。どちらかといえば、あれは高橋なりに心配していたように思えるが。それほど今日の高橋の言葉が、核心を突いていたということなんだろう。
俺がたばこを吸いこむ間も、吉澤はこちらから目を離さなかった。律儀にも、こちらの出方を辛抱強く待っているらしい。
ふう、と肺を空っぽにし、ようやく俺は喉を震わせる。
「……吉澤が望むなら、説教ぐらいしてやる。けど、おまえが望まないことはしたくない」
あのころからずっと、そう思ってた。
ひと息にそう告げて、まっすぐ過ぎる視線を遮るように再びたばこを咥える。
あのころから、俺を見る吉澤の視線はまっすぐだ。どれだけ鬱屈した思いを抱いていても、いつだっておまえは意に介すことなく俺を見ていた。
その視線から、逃げ出したいと思ったこともある。だけど、しなかった。
美術部にふらりと来る吉澤を受け入れたのも、あのころの吉澤の呼び出しに駆けつけたのも、全部。
全部、応えてやりたかった。不甲斐のない、子どものくせに。
今更そんな昔の感傷に浸ってしまうのは、慣れない日本酒を飲みすぎたせいだろうか。
ようやく、注文していた酒とつまみが来る。乾杯をしようとグラスを軽く持ち上げてみたが、吉澤は動かない。
「……田所は、いつもそうだ」
俺の手の中で、氷たちが涼しげに鳴く。
「そうやって俺が欲しい言葉をくれるから、甘やかされてるんじゃないか、って」
甘えてもいいんじゃないかって、勘違いしそうになる。
そう言って、吉澤は痛みを耐えるように眉をひそめた。レモンサワーの入ったグラスを、こちらのグラスにぶつけてくる。無言のままの、身勝手な乾杯。重く、グラスが鳴った。
酒を減らして、再び吉澤が口を開く。社内でよく見る、外向きの笑顔を乗せて。
「一杯だけ飲んだら、帰ろっか」
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