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第17話

 俺たちは吉澤の宣言どおり、一杯だけ飲んで会計を済ませた。たばこを買いたい、と言う吉澤に付き合い、駅まで向かう道の途中でコンビニに立ち寄る。  まるで異世界に飛び込んだようなLEDの光をガラス越しに浴びながら、吉澤を待つ。その間にも、ぽつりと頬を濡らす感触があった。  星のない空を見る。限界まで膨れ上がった雨雲が、泣かせてほしい、と俺を見下ろしている。  泣いてすっきりするなら、いくらでも泣いてやるのに、と強く思う。大人になった今、泣いても逃げても、現実はなにも変わらないことを知っている。 「降ってきた」  吉澤が戻ってきたのと同時に、雨の兆しを伝える。うわ、まじか。吉澤は露骨に嫌そうな顔をして、真新しいたばこをスラックスのポケットに深く突っこんだ。  会話も弾むことなく、二人で歩く。酒に浸かって火照る体に、秋風の冷たさはひどく堪えた。暖をとるように自分の腕を抱える吉澤が、視界の端にこびりつく。  横断歩道の前で立ち止まる。どんどん雨脚が強まってくる。飲み屋帰りだろうか、雨だなんだと騒ぎながら、駆けていくスーツ姿の集団がいた。 「俺たちも走る?」  吉澤の問いかけに、黙ってうなずいた。  雨がアスファルトを打つ。駆けるための地面が、どんどんと黒く塗りつぶされていく。車が水たまりを跳ねながら、脇をすり抜けていった。  背後の足音が、途切れることなく聞こえてくる。そんなことに安堵しながらも、俺は後ろを振り返らずにはいられなかった。  わずかに後ろを走る吉澤は、まだら模様になってしまったジャケットを傘代わりにして、頭から深くかぶっている。  視線に、気づいたらしい。うつむきがちだった吉澤が、不意に顔をあげた。均整のとれた頬から顎のラインを脅かすように、吉澤の顔から雨粒が滴り落ちていく。  目が合う。吸い寄せられる。その瞳はまるで、迷子になった子どものように、ひどく怯えているように見えた。  気づけば俺は、吉澤の腕を引き、雨の街を駆け抜けていた。  駅にたどり着く。濡れた視界の中、惨状を嘆く人たちの間をすり抜け、ホームの片隅にあるベンチに腰かけた。 「……ははっ、たばこだけは死守した」  ほら見て。未開封の箱を俺に掲げてみせる吉澤は、場違いなほど笑っていた。毛先から雨粒を滴らせ、唇の色を失いながらも、吉澤は気丈に笑おうとする。つられて俺も苦笑して、だけどすぐに上手く笑えなくなった。  ああ、そうか。こうやって戦うことで、危なっかしい綱渡りをいくつもこなしてきたのか。  本音を隠しながら、それでも誰かの期待に応えるために。上手な頼りかたも知らないまま、おまえは。 「なあ、吉澤」  俺の家に、来るか?  訊ねた途端、吉澤が息を飲むのがわかった。  一粒の水滴を落とした水面のように、目の前の瞳がゆらめいている。笑顔が消える。一度は開きかけた唇をきつく噛みしめるその姿は勇ましいようで、あまりに痛々しかった。 「……無理にとは言わない。ここからだと俺の家のほうが近いから」  風邪ひかないといいな、お互い。そう告げて、吉澤から顔を背けた。  ホームに、不釣り合いなほど軽快なメロディーが流れ、俺だけが立ち上がった。  ホームへと進入してきた電車が、ごうごうと唸り声をあげている。濡れた服の冷たさが体の奥深くまで染みた。  ほどなくして、電車が停まる。転落防止用のホームドアがゆっくりと開く。  地面から脚を引き剥がすように、前へと進む。だが、進めたのは最初の一歩分だけだった。 「……行く。田所の家に、行きたい」  俺の手をつかむ吉澤のそれは、息が詰まるほどに冷たい。  そんな手を、握り返すことも、強く引くこともできないままだった。ただ確かに、つかまれた感覚だけはいつまでもそこにあった。  遠くで、ドアの閉まる音が鳴った気がした。  車両のガラスに映る吉澤の姿だけが、俺をこの場に繋ぎ止めている。

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