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第18話

「お邪魔、します」  背後からぽつりと聞こえてきた吉澤の呟きが、急に真実味を帯びて、肩に重くのしかかる。期待と、少しの怖さが混ざり合う、そんな胸のざわつきに知らないふりをして、吉澤を淡々と招き入れた。  そういえば俺が、一人暮らしを営むこの部屋に誰かを招くのは初めてのことだった。  吉澤は終始落ち着かない様子で、最初はきょろきょろと室内を見回してばかりいた。警戒する野生動物のそれというより、見知らぬ土地に訪れた旅行客のそれと同じだ。    趣味のDIYで作った、飾り棚や収納スペースをまじまじと眺めた後、今は部屋の一角に広げたジオラマに、目が釘づけになっている。  最初は、俺の見知った街並みを模したジオラマだった。高層の商業ビル群、交差点に信号、行き交う車に、歩道を歩く人々。アイデアを思いつけば気ままに手を加え、いつしかそれはオリジナルの街となった。  これを誰かに見せるつもりなんて、到底なかった。手慰みに、と高校卒業と同時に始めただけで、今でも趣味の域を出ない。誇れるほどの技術もない。工具も使いこみすぎて、みすぼらくさえある。  だが、もしもこれを片づける時間があったなら、俺はこうして吉澤に見せることもなかったんだろうか。  違う気がする。誰かに見せるなら、その相手は吉澤がいい、って。ずっと心の中で思っていたはずだ。 「……風呂。お湯、溜まったぞ」  俺が声をかけるまで、熱心に見入っていた吉澤は、あ、と驚いた様子でこちらを見た。タオルは貸したものの、吉澤の服はまだ濡れている。 「このジオラマ、全部おまえが作ったの?」  目線は俺に向けるのに、その声はジオラマへと未練たっぷりに引きずられたままだった。 「ああ。全部、俺ひとりで仕上げてる」 「……細かいところまで、すげえ凝ってる。パーツも配置も、田所が作るもの全部にちゃんと意味がありそうでさ。初めて見たのに、なんか懐かしい街並みな気もして」  ずっと見ていたい。そう吐露する吉澤の顔は、あまりにあどけない。昔の記憶が交差して、迫りくる苦しさに肺が押し潰されそうだった。 「いいから、先に入ってこい。本当に風邪をひいたらどうする」 「……でも、さ」 「着替えは俺のものを使え。下着は未開封のやつがある。サイズが合わなければすまない。スーツは、あとで浴室乾燥を使えばいい」  吉澤は虚をつかれたのか、まばたきを素早く繰り返す。どうしたのか訊ねると、吉澤は鼻から抜けるような甘やかな声でふっと笑った。 「なんか俺が気にしてたこと、全部先回りされちゃったな、って」 「当然だろ。何年いっしょにいると思ってる」 「……うん」  返事をしながらも、吉澤はしばらくジオラマの小さな街並みを熱心に眺めていた。気が済んだのか、吉澤は「借りる」と言い残し、脱衣所へと消えていく。  吉澤の後に風呂に入るつもりで、着替えだけを先に済ませ、ソファーに体を預ける。  この部屋に足を踏み入れた人間は、家族ぐらいなものだった。俺が誘ったくせに、他人がいるこの状況はどうにも俺の内側を変に浮つかせる。  それにしても、静寂に満ちていた。風呂場が離れているせいか、室内に届けられるのはガラスをぱちぱちと打つ、微かな雨音だけだった。  もしかして俺が連れて帰ってきたのは、夢とかまぼろしとか、そういった類いのものなのか。あまりの気配のなさに焦りを覚えたタイミングで「ありがと」と吉澤がリビングに入ってくる。  吉澤が現れた途端、世界からくっきりと浮かび上がるその輪郭に、ほっと胸をなでおろした。 「すげえ、すっきりした。湯船に浸かったの、結構久しぶり」  吉澤が頭をタオルで拭いながら、しみじみと言う。そこまで体格の差はないように思っていたが、着慣れた部屋着を吉澤が身につけると、袖丈がわずかに余っている。不思議な感覚だ。目を離したくはないのに、見ているだけでどうにも居た堪れない気持ちになる。 「シャワーだけだと疲れが取れないだろ」  落ち着きなく冷蔵庫に向かい、ミネラルウォーターを取り出した。吉澤に手渡しながら、毎日入れ、と言葉を返す。 「だって毎日掃除するのも面倒じゃん。家に帰るのも遅いし、ご飯食べてシャワー浴びて寝る、ぐらいしかできない」 「残業のしすぎだ」  俺も風呂、入ってくる。そう言い残して歩き出した途端、田所、と消え入りそうな声量で呼び止められた。  しばらく経っても、吉澤は不安そうに俺を見つめるばかりだ。 「待ってろ。戻ってくるから」  吉澤の背中を軽く叩く。吉澤は、うん、と意思を持ってうなずいた。 *  俺が風呂から出た後も、吉澤はきちんとそこにいた。いつもより雑にシャワーを浴びたことも、タオルで拭いきれず、水滴が残る体も、全部些細なことに思えてくる。 「髪、まだ濡れてるな」  静寂の中、再び熱心にジオラマを眺めていた吉澤へ歩み寄る。少し茶色がかった吉澤の髪はいまだに湿っていて、こっちに来い、と吉澤を半ば強引に、ソファーの近く、床の上に座らせた。 「え、なに。なにすんの?」 「乾かしてやるから、大人しく座ってろ」  吉澤の背後に回りこみ、ソファーに腰を落とす。洗面所から持ってきたドライヤーのスイッチを入れ、吉澤の髪に風を当てた。 「……なあ、くすぐったいって」 「美容院でいつもされてることだろ」  手櫛と称した指で、吉澤の髪をとく。  いつもはセットしているから気づけずにいた。さらさらとして細い髪質は、昔とそう変わっていないようだ。 「大丈夫なのになあ」  それは吉澤なりの、ささやかな抵抗だったんだろう。しかし逃げ出そうとはしなかった。  まるで船を漕ぐように、俺の動きにつられて吉澤の頭も揺れる。あれだけ湿っていた髪も、次第に根元からふわりと立ち上がり始めた。 「こういうことってさ」  風の音にかき消されないように、と吉澤が声を張り上げる。 「どうした?」 「こういうことって、今までしたことある? たとえば、その、昔付き合ってた人とかに」

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