20 / 40

第19話

「いや、ない。おまえが初めてだ」  だから仕上がりが悪くても、文句言うなよ。鼻で笑う。言わないって、と吉澤も小さく笑ったようだった。 「ほら、できたぞ」  電源をオフにする。ちゃんと乾いたことに納得をして、吉澤の髪から手を下す。  それにしても、さっきからまったく満ち足りることがない。体のどこかに穴が空いてしまったのか、吉澤がここに来てから俺はずっと飢えている。  後を追うように、まだ暖かいだろう自分の髪に吉澤が触れた。ありがとう、とお礼の言葉まで真面目にそえてくるから、自分の欲深さが恥ずかしいとさえ思う。 「髪型、鏡でチェックしてくるか?」 「いいよ。どうせ田所しか見ないんだし」 「……まあ、おまえがいいならそれでいいが」 「え、もしかして、髪の毛、そんなにひどいことになってんの?」  慌てて振り返る吉澤に、冗談、と返す。吉澤は大げさなほどに眉をひそめ、しかしそれはゆるやかに苦笑へと変わった。 「スーツって、どれぐらいで乾く?」  それから俺たちは、一緒にビールを飲んだ。居酒屋のときほどの勢いはないが、それでも吉澤はいつもと変わらず、おいしそうに喉を鳴らした。 「三時間もあれば、着られるぐらいにはなるだろ」 「……あと二時間、か」  それじゃあ、それぐらいの時間にタクシー手配しておけばいいよな。  缶から口を離し、吉澤がスマホを操作し始める。もう終電の時間は過ぎている。俺の家から吉澤の家まで、しかも雨の中を歩くのは無謀とも思える距離だ。タクシーを呼ぶのは、当然すぎる結論だろう。 「帰るのか」  思わず、声に出ていた。いつもなら体の内側に縫い止めているはずのものが、今日ばかりはなぜか止められない。ブレーキが、変だ。自制がうまくできない。 「……うん。帰る」  吉澤はスマホから視線を外すことなく言った。 「明日は休みだろ」 「でも田所は違う。Nプロの現場は土曜も動いてる」 「俺のことなら気にしなくていい」 「気にするって」  田所のことだから、気にするんだよ。  スマホの上を器用に泳いでいた吉澤の指が止まる。お互いの重い呼吸だけが、存在を確かなものにしている。 「なあ、吉澤」  返事はない。それでも今言わなければ、いつかのあの日のように、きっと後悔するんだろう。 「俺がおまえに、いてほしいんだ」  吉澤がスマホをテーブルの上に置いた。その画面は、真夜中の海のような深い黒を映し出している。  長い沈黙が訪れる。ビールを口に含む。力加減がうまくできずに、硬質な音を立てて缶がへこんだ。  ずるいよ。田所って、ほんとうに、ずるい。脱力したように吉澤の笑う気配があった。 「……帰る理由、なくなっちゃった」  バカみたいだよな、俺って。  ふっ、と笑い返す。吉澤はたくさんの無言を紡ぎ、やがて「泊まりたい」と小さな願いを口にする。  なんでもない夜を迎えたはずが、嘘へと塗り替わる予感がした。 * 「客用の布団がある一人暮らしの部屋、初めて来たかも」  寝支度を整えた吉澤が、寝室に足を踏み入れた途端、驚きながらそう言った。掛け布団をていねいに広げながら、母親がな、と呟く。 「あの人、心配性すぎて、俺になにかと持たせたがるから。ここに引っ越すタイミングで、これでもいろいろと減らしたほうだ」  会ったことあるだろ、吉澤も。問いかけると、ちゃんと覚えてるよ、と吉澤はほんの少しの照れを滲ませた。  心配性な母は、吉澤のこともよく気にかけていた。  学生時代、傘を忘れて制服を濡らしてしまう吉澤を実家に招くと、そのたびにあれやこれやと世話を焼いていた。あのころはそんな母親を見るたびに、恥ずかしいとさえ思っていたが、しかし今となっては、当時の母親の気持ちを渋々ながら理解し始めている自分がいる。 「俺、田所の実家に行くの、結構好きだったんだ。何度かご飯までご馳走になったことあるけど、皆で囲んだ鍋のこととか今でもたまに思い出すし」 「あったな。そんなことも」 「おいしかったというか、俺がいるのを当たり前みたいに鍋を囲んでさ。なんかそれがすごく、うれしかったなあ、って」  部屋の出入り口で突っ立ったままの吉澤に、入ってこい、と手招きする。吉澤はためらいがちに、客用の敷布団の上に俺と並んで座った。 「どっちがいい?」と吉澤に訊ねる。 「なにが?」 「客用の布団でもいいし、俺が使ってるベッドで寝てくれてもいい」  吉澤はしばらく悩んでいたが、こっちかな、とベッドのほうを指差した。 「……別に客用でもいいけど、選べるなら」  今年の夏のボーナスで、思いきってマットレスを新調したばかりだった。寝心地のよさを伝えてみたが、ふうん、と気のなさそうな返事しか返ってこなかった。  互いに布団に潜り、灯りを落とす。目が夜に慣れてくると、視界の中で天井の凹凸が浮かび上がった。もう随分と弱まったらしく、雨音は響いてこない。  すぐに眠れるはずもなく、修学旅行中のホテル泊のような高揚感を乗せて、吉澤が話しかけてくる。 「田所の家族、元気にしてる?」 「……ああ。帰省するとうるさいぐらいだ」  俺の顔を見ると、必ずおまえのことを聞いてくる。そう言うと吉澤は、そっか、と小さく笑って、話を続ける。 「俺、中等部のころはよく保健室に通ってたんだよ。下校が近づくと、いつも急にお腹が痛くなってさ」  覚えてる。吉澤と初めて会ったのも保健室だ。  あれから何度か保健室に出入りするところを見かけたが、吉澤はいつも「大丈夫」と平気な顔をして笑うばかりだった。  変わらないな、と思う。あのころからずっと、保健室に理由もなく通うようなやつじゃないことをわかっていながらも、当時の俺はそれ以上踏みこむことができなかった。 「親に言われて、めちゃくちゃ頑張ってあの学校に合格して。でもすぐに大学の進路の話になって、なんだかなあ、って。嫌いなわけじゃなかったけど、あのころは、家に帰るのがなんか苦手だった」  そうか、と呟くように答える。気の利いた言葉なんて、俺から生まれてくるはずもなかった。 「けど、高等部からは割と平気になったんだ。まあ放送部とか? いろいろ楽しいことも、その、あったし」  変なこと聞かせて、ごめん。  しばらくの間、吉澤は黙っていた。  布団の擦れる音だけが、ベッドの上から聞こえてくる。寝返りを打ったのかもしれない。  吉澤が眠れるのならそれでいい、と俺もまぶたを閉ざしたときだった。 「……また会いたいなあ、田所の家族に」  深い静けさを縫うように差し出されたそれは、胸が痛むほどに慎ましかった。  おやすみ。返事を拒むように流れてきた声は、夜にひとり俺だけを置き去りにした。

ともだちにシェアしよう!