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第20話
空いた腹を誘う匂いが、炊飯器の蒸気に乗って流れてくる。その匂いに気をよくしながら、豆腐を刻み、出汁の入った鍋の中に投入する。
火を止めて、みそを溶かす。その鍋の横で暖めていた玉子焼き用の、年季が入ったフライパンへ、作っておいた卵液を流していく。じゅわ、っと油の弾ける音がして、やがて現れた気泡たちを菜箸でやさしく潰した。
あとは漬け物があれば足りるだろうか。固まってきた玉子焼きをフライパンの上でひっくり返しながら、冷蔵庫の中身を頭の中に思い浮かべる。
料理を始めたのは、一人暮らしがきっかけだった。所詮、独身のための料理だ。別にプロ並みに作れるわけでもなく、バリエーションが豊富なわけでもない。
ただ、野菜や魚、肉における下ごしらえも、完成に導いていくためのその過程すら大切にしなければいけないのは、日ごろの現場作業とそう大差がない。だからこそ、習慣として自炊が続いているんだろう。
玉子焼きを皿に移したタイミングで、ふと、開け放った窓から風が吹きこんだ。首筋をなぞるそれに誘われて視線が自然と外へ向かう。
バルコニー越しに見る空は、驚くほど澄んでいた。昨日の雨が嘘みたいだ。あまりの眩しさに目が眩みそうになったところで、リビングに隣接した寝室から現れた、臆すことのない視線に気づく。
「起きてたなら、声をかけろ」
「言ったら構えるくせに。楽しそうにしてる田所が見たかったんだよ」
吉澤は「おはよう」と軽く添えて、俺が貸した部屋着のまま屈託なく笑う。寝起きは悪くないタイプらしい。長い付き合いになってきたが、吉澤について知らないことがまだ残っていたとは。
「二日酔いにはなってないのか。昨日、いつもより飲んでただろ」
「平気。食欲もある」
「……作りがいがあってよかった」
もうすぐできる、と言うと吉澤は軽くうなづき、洗面所に向かっていく。その後ろ髪にはぴょんと跳ねた寝癖があって、口の端がゆるんでしまった。
「田所は何時に出る?」
昨夜濡らしたスーツは、なんとか着られる状態になっていたらしい。身支度を整えて戻ってきた吉澤が、茶碗やコップを運んでからテーブルにつく。
「八時前には」
「じゃあ、あと一時間もないな」
いただきます、と丁寧に手を合わせる吉澤を前にして、視界が大きく歪んだ気がした。
タイムリミットを明確に宣言された瞬間、さみしい、と強く思った。誤魔化しながらここまで来ただけで、本当はずっと、この気持ちを消化する方法も知らずに生きてきたのだと思い知る。
いまさらだ。本当に。気づいたばかりに、重力に潰されかけた体は、自分のものじゃないようで、あまりに重すぎた。
「うまっ」
吉澤が玉子焼きを頬張り、ヒーロー映画を観る子どもみたいにテンションを上げる。この味つけ、好き。うますぎる。賛辞を並べる吉澤に、好きなだけ食べろ、と皿を差し出す。吉澤は目を丸くして、だがすぐに「ありがとう」と箸を伸ばした。
朝ご飯を終えると、家を出る時間がすぐそこに迫っていた。二人して動きが慌ただしくなる。どうせ家に帰るだけだから、と寝癖を直すだけに留めた吉澤の髪が、動きに合わせてふわふわと揺れていた。
作業用の手袋や工具が欠かすことなく入っているか、ひととおりチェックを施してから、リュックサックを背負う。その間に、吉澤は玄関でビジネスシューズに足を通したようで、わ、と小さく声をあげた。
「ちょっと湿ってた」
「靴の乾燥、すっかり忘れてたな。悪い」
「田所が謝ることじゃないって。むしろ、泊めてくれて感謝してるのに」
吉澤がうれしそうに目を細める。だがすぐに口を閉ざし、目線を床へ落とした。
昨夜から幾度となく、吉澤は言葉を選ぶように押し黙ってきた。
本来ならそれは、ひどく珍しいことだ。今、ここでなにをどう話すべきなのか。頭の中で常に先読みし続けながら話す吉澤だからこそ、仕事の場では絶妙に盛り上がり、会話は途切れることを知らない。
それを尊敬する反面、吉澤の本音は、放たれた言葉たちのどこに潜んでいるのか、いつも判断に迷った。
しかし今の吉澤は、前よりずっとわかりやすい。
「……俺は、さみしいよ」
おまえが帰っていくのは、すごく、さみしい。
おまえはどうなんだ。そう訊ねる間もなく、吉澤が俺の目を捉える。いろんなことを考え続けるこいつのことだ、感情を詰めこみすぎたせいで、瞳が薄く膜を張って揺らめいている。
「帰りたくない、って言ったら、田所は笑う?」
靴音を鳴らして、どこかの住人が廊下を通っていく気配がある。時間は着実に流れているらしい。
「……笑うわけないだろ」
「って言っても、俺、帰るけどさ。でも」
また、来てもいい?
吉澤の声が震えている。なのに、その表情は青い炎のような決意を宿していて、目が離せなくなる。
この日がまた訪れるのなら、俺は。
「待ってる」
いつまでも、待ってる。
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