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第21話

 厳戒態勢とも呼べるほど、Nプロの現場は緊張感に満ちていた。関係者以外立ち入り禁止の文字も、エンジンオイルの鼻を刺すような臭いも、重機の騒音なども、今の俺にとっては気を引き締めるためのスパイスにしかならない。  しかし、過ぎた緊張は、心身を極端に蝕むばかりだ。 「ほら、田所。これやる」  俺にとって馴染み深い缶コーヒーを手渡してきたのは、佐々木さんだ。  周囲とのタイミングを慎重に合わせるため、と束の間の休憩を取ることにしたが、どうにも最上階の持ち場から離れる気になれない俺とは違い、佐々木さんはわざわざ下のプレハブ小屋にまで戻っていたのだろう。地上から遥か離れたこのエリアに、自販機はない。  秋といっても、外作業の最中にはまだまだ汗の滲む日もあるぐらいで、冷たい缶コーヒーがしみるようにありがたかった。 「佐々木さんの奢りですか」 「そうそう、って格好つけてやりたいとこだけど、これは吉澤から」 「吉澤?」  当然、ここに吉澤の姿はない。事前に申請があったならまだしも、今から行われる作業の危険性の高さから、突然の来訪者を最上階に迎え入れることは不可能だ。 「現場、本当に来てたんですか?」 「来てたぞ。なんかいろいろ察したらしくて、プレハブ小屋覗いて、すぐ帰っていった」  それにしても声ぐらい、かけていけばいい。休憩中なら俺だって地上に降りることができるし、気持ちを切り替えるひとつのきっかけにはなったかもしれない。  軽く息を吐き出したつもりが、どうにも深刻に聞こえたのか、佐々木さんは「まあまあ」とフォローを入れてくる。 「おまえがピリピリしてんのは本当のことだろ。今日は巻上機を機械室まで吊り上げんだから」  佐々木さんの言うとおりだ。  今日はエレベーターの心臓部、巻上機をタワマンの上層に設置された機械室へと搬入する日だった。巻上機があることで、かごは上下に動き出す。モーターの役目を担うそれを高層用のクレーンで一気に吊り上げた後、最上階の開口部から機械室の中へ、慎重に下ろしていく。 「あと吉澤のメンツのために言っとくが、ちゃんとおまえのために遠慮したんだ。巻上機の搬入日は、絶対田所に近づかないって決めてるんで、だとさ」  佐々木さんはそう言うと、緑茶の入ったペットボトルの栓をひねり、いつもの調子で口から勢いよく流し込んだ。  普段となにも変わらず、気負いすらない佐々木さんを見ていると、羨望が募るばかりだった。俺はまだ缶コーヒーの栓さえ開けられない。  数百キロもある巻上機を搬入するのは、神経を摩耗させるには十分だった。  搬入経路を入念に調べ、建築中の建物に傷がつかないように養生するところから始まり、実際の作業中に落下や人身事故が起こることのないよう、トランシーバーを使いながら連携を取っていく。  万が一落下でもしたら、現場責任者である俺一人のクビだけでは絶対に終われない。だからこそ、ミスを背負う責任やその覚悟すら重機のモーター音に巻き取られそうになりながら、なんとしてでも完了させなければならなかった。   「佐々木さんは怖くないんですか」 「まあ、怖いと言えば怖いわな。一歩間違えば大惨事なんだから。でも怖いって思った瞬間、頭ん中が萎縮して、判断力が鈍るほうがよっぽど怖い」  腰につけたホルダーに、佐々木さんはペットボトルを突っ込んだ。動作に固さは見当たらず、余裕すら垣間見える。 「それは、自分の選択を信じてるからですか?」 「そう。それで、自分の選択を信じるためには、とにかく嫌でも経験値を稼ぐしかないってこと」  だからおまえには、どんなにしんどくても現場に顔出せ、って教えたろ。  そう言って、佐々木さんはヘルメットをかぶり直し、はつらつと笑ってみせた。  俺が今より若かったころ。佐々木さんについてまわり、実際の現場のこともそうだが「現場責任者」としての在り方をこの人から学んだ。  事務的な作業も多いポジションだ。実際、他の界隈では責任者を日毎の交代制にして、マンパワーに頼りすぎない方針のところもあるらしい。  ただ、佐々木さんは違った。とにかく現場主義で、動画でカリキュラムなんか学べるか、とありとあらゆる現場に連れ回されては、多くの指導をリアルタイムで受けたものだった。 「おっ、そろそろ始まるか?」  ジ、ジジッ、とトランシーバーが反応する。応答して、合図を出す。佐々木さんが軽く肩慣らしをして、にやっと笑みを浮かべた。 「佐々木さん。今日は応援頼んですみません」 「いまごろ言うかあ、それ」 「余裕ないんです」 「まあいいって、田所に頼られるのは悪い気しない。ちゃんと口出ししてやるから、鬱陶しいって思うなよ」  横風吹いてるな、と不穏なことを言う佐々木さんの隣で、顔をしかめる。風が強いということは、吊り上げた巻上機もまた、風に煽られて揺れるということだ。  最悪なコンディションだろ。  武者震いをする。俺は缶コーヒーのふちを一度だけなぞり、ポーチの中へと収めた。 *  吉澤からメッセージが届いたのは、その日の作業を終え、自宅でくつろいでいたころだった。  ――今から行ってもいい?  その簡素なメッセージを目でゆっくりとなぞりながら、キッチンの換気扇の下でたばこをふかす。俺の返事は定型文のようにいつもおなじだ。  しかし、いいよ、と打ち返すよりも早く、吉澤から追加のメッセージが入ってくる。  ――実はもう、家の近くまで来てる。  苦笑するしかなかった。俺が断ったらどうするつもりなんだろうか。  それでも、答えは変わらない。いいよ、の三文字を打ちこむ指先がいつもとおなじく、軽快に動いた。  最後のひと息を楽しんでから、たばこを灰皿の中で押しつぶす。部屋を見回し、出しっぱなしになっていたジオラマ用の工具箱を片づける。目についたのはそれぐらいで、自分の日ごろの行いに感謝するしかない。  視線を巡らせるうちに、インターフォンが鳴った。 「よ。お疲れさま」  玄関の扉を開けると、そこには吉澤が立っていた。いつもどおりの髪型に、清潔なスーツとチェスターコート、そしてわずかなたばこの匂いをともなって、吉澤は片手を挙げる。  それだけのことで、ふっと肩の力が抜け落ちた。  吉澤がこの家に初めて訪れて以降、今日みたいにふらりと遊びにくることが増えた。  こうして仕事帰りに立ち寄る日もあれば、そのまま泊まっていく日もある。特別二人でなにかをするわけでもない。当たり障りのない話をして、ご飯を食べて、酒を飲む。泊まる日にはいつもよりゆっくり会話をして、沈黙の時間とともに眠った。  昔みたいに、吉澤がなにかを抱えていることだけは薄々気がついていた。必要以上に俺を見つめてくるのに、肝心なことはなにも話さないまま、吉澤はいつも帰っていく。  逃げていかないだけまだマシだ、と割り切りながら、そんな生やさしくて痛みのない日々を、近ごろの俺たちは繰り返している。 「はい、田所。これ」  朝からずっと張りつめていた。そのせいでどうにも顔が強張っている自覚はあったが、構うことなく吉澤がビニール袋を押しつけてくる。  中身はビールとつまみ。吉澤自身も飲むつもりで来たんだろう。きっちりと二人分が詰めこまれている。 「外、寒くなかったか?」  袋を受け取る瞬間、吉澤の手が冷えていたことを思い出す。コートの裾を揺らしながらリビングに入ってきた吉澤は、めちゃくちゃ寒かった、と首をすくめた。 「昼間はコートいらなかったのに」 「冷たい缶コーヒーは大正解だった」 「……だろ?」  おまえが選んだのか、と問えば吉澤は、うん、と気恥ずかしそうに目線を落としてうなづいた。田所の好きなやつぐらい、覚えてるし。 「ごめん。先に手、洗ってくる」  脱いだコートを椅子の背もたれにかけて、吉澤の気配が遠ざかる。  その間に俺は袋の中から中身を取り出し、テーブルの上に並べていく。ふと、机上のラインナップに違和感を覚えて、水音にかき消されないよう声を張り上げた。 「吉澤、ご飯は。もう食べたのか?」 「食べてきたよ、会社で。って言っても、カロリーバーとエナジードリンクだけど」  仕事なかなか終わんなくて。自嘲気味に笑う気配が廊下の奥から流れてくる。 「体壊すぞ」 「それ、たばこ吸ってるやつには言われたくないかも」  戻ってきた吉澤がおどけた調子で言った。 「お互いにな」 「じゃあ、健康のために禁煙してみる?」 「無理だろ」 「無理かなあ」  ワイシャツの袖を深く巻き上げて、吉澤が席についた。意識させておきながら、当の本人はすでにビールの缶を握っている。  酒だって、飲み過ぎれば健康に響くだろう、と内心思う。だが酒に強くないはずの吉澤は、ここに来るといつもそうすることしかできないように、必ずビールを嗜んだ。 「なんか作ってやろうか」 「いいって。ほら、乾杯しよ」 「空きっ腹で酒飲むと悪酔いするだろ」 「……強引」  どっちがだよ。いつも突然押しかけてくるくせに。鼻で笑い返せば吉澤も曖昧に笑って、未開封の缶をテーブルの上に戻した。  夜に食べた残りものと、和えるだけの簡単なつまみをテーブルに並べ終えるころ、吉澤はジオラマの前に座りこみ、熱心にカタログを眺めていた。ジオラマ制作をしている人間にとっては馴染みのある、資材やパーツ用の通販カタログだ。 「そんなに面白いか?」  つまみ、できたぞ。興味を引きそうな言葉を告げても、吉澤の視線はカタログに注がれたままだ。 「……なあ、田所」 「ん?」 「ジオラマ作り、楽しい?」  吉澤の間近に俺もしゃがみこむ。その手からカタログを取り上げては、ぱらぱらとページをめくっていく。 「正直なところ、俺はこれに楽しさを求めたことがない」  カタログを閉じる。その音に混ざって、吉澤の息づかいが聞こえてきた。目が合う。吉澤の目に、きっと俺だけが映っている。その距離の近さを意識した途端、肺の位置がわずかにズレたように呼吸が浅くなった。 「……手を動かすと、余計なことを考えずに済むから。動かせるならなんでもいいんだ。美術部に入った理由も、そうだった」 「へえ、知らなかった、それ」 「教えたことないからな。誰にも」  吉澤が小さく笑う。それからゆっくりと立ち上がって、ジオラマを真剣に覗きこんだ。  前来たときと、ここの風景が違う。そうやって目ざとく変化を見つけ出されるのも、もう何度目になるだろう。無意味だったはずの俺のジオラマに、存在する意味を持たせてくるせいでどうしようもなく胸を打つ。 「俺からすると、吉澤のほうが向いてるんじゃないか、と思う」  だって楽しそうだ。ジオラマを見ているときのおまえは。  しかし指摘された本人は意外だったのか、驚きを顔に張りつけている。 「見るのは楽しいよ、もちろん。でも俺、あんまり手先が器用じゃないっていうか、さ」  そんなもの、とっくに知ってる。おまえに貼ってもらったばんそうこうは、ひどく不恰好だった。懐かしい記憶を、ひとり静かに頭の中で転がした。 「だったら弟子入りでもするか?」 「ははっ……いいなそれ。めちゃくちゃ憧れる」  それならまずは腹ごしらえな。わかった、とうなずく吉澤の横顔は、子どもみたいにあどけない。

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