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第22話

「あともう一本だけ飲みたい気分なんだよなあ」  買ってきた酒がなくなっても、吉澤はどうにも飲み足りなさそうだった。空になった缶を、名残惜しげに指先で転がした。残念ながら俺の冷蔵庫にも、買い置きがない。  吉澤はうーんと唸りながら、酒の代わりにピーナッツを口の中へと送りこんだ。 「明日は仕事だからってきっぱり線引きするのは、吉澤の得意分野だろ」 「……それはそう、なんだけど」  ほんのりと赤みのさした顔で、吉澤が肘をつく。その仕草は少し前、偶然立ち寄った営業課のフロアで見たそれとおなじだ。  身軽にフロアや現場を渡り歩く吉澤が、デスクにかじりつき、重苦しい溜め息をディスプレイにぶつける。そんな姿に余裕など感じられるはずもない。  あるのは苛立ちと、焦り、というところか。普段はクリーンデスクを保っているのに、その日は角の潰れた箱が放り出されていたのを覚えている。    同期会での高橋の指摘が、今になって腑に落ちた。  Nプロの進行を俺たち実働部隊に移管したのに、吉澤はいまだに現場に現れる。ほかにも抱えた案件がある中、責務を放棄しないのは吉澤らしいと思うが、それにしても気負いすぎている。  ほかのメンバー、それこそ営業課の高橋なんかは、現場に顔を見せることはあっても、エレベーターの据え付けが始まればしっかりと一線を引くスタンスだ。  だからこそ余計に、吉澤の不自然な不器用さが目についた。 「それで、どうしたいんだ」  言葉の出どころを探るように、吉澤がゆるりと俺を見た。残りのビールを一気に煽る。ひと足先に空になっていた吉澤のそれに、自分の空き缶を隣に並べる。 「付き合ってやるから。どうしたいか決めろ」 「コンビニ、行きたいかも」 「わかった」 「……あと、今日もまた、泊まってもいい?」  頼まれているはずなのに、こちらを試すような声だった。  以前は黙って全部抱えこんでいたくせに、いざ吉澤がぶつけてくる気になったわずかなものたちは、まるで精密機械のようなものばかりだ。  おまえに頼まれたら、拒めるはずもない。なのに、ひとつの間違いすら許されないような恐れを、じりじりと背中で感じてしまう。  用心深く、俺はうなずいた。たちまち、ほっとしたように吉澤が息を吐く。そして「着替えてくる」と吉澤は慣れた動きで、寝室のクローゼットへ向かっていく。  いつしかそこには、吉澤用の衣装ケースが増えている。 * 「うわ、寒っ」 「大丈夫か?」 「うん、多分へーき」 「上着貸すって言っただろ」 「だって田所のやつ、大きすぎるんだよ」  私服に着替えた吉澤と、コンビニに向けて夜の住宅街を歩く。突如吹く風は、冬の気配を連れていた。  昼夜の気温差に体のバランスが狂ってもおかしくないが、酒を飲んでいるせいか、この冷たさを気持ちいいとすら思う。 「そういえば、今日の昼間も結構風が強かっただろ?」  通りがかった散歩中の小型犬と飼い主に手を振りながら、吉澤がなめらかに言う。 「無事終わったの。巻上機の搬入」 「風のせいで延期になってたら、多分、おまえを部屋に入れてない」 「それもそうか」 「まあ、あとは固定作業と電装課への引き継ぎがあるが、ひとまずピークは超えた」  あらためて、お疲れさま。吉澤からの労いの言葉に、誰かさんのおかげで休めてないけどな、と嫌味を織り交ぜて返す。横断歩道が点滅していることに気づき、二人とも自然と駆け足になった。 「ごめんってば。でも田所のほうだからな、付き合うって言ったの!」 「……っはは、そうだな、俺が言った」  無事に渡り終える。足並みをそろえながら歩いていると、吉澤がひどく熱心に俺を見つめてきた。  首をかしげて意図を探ってみれば、吉澤はやけに落ち着いた声で答える。 「田所って、そんなに笑うやつだった?」 「そんなにって、そんなにか?」 「うん、わりと。最近おまえに会うと、よく笑うなあって思う」  ああ、だったら思い当たる理由なんてひとつしかない。自然と視線が吉澤に向かう。教えてやろうか、と言えば、吉澤は興味津々と言わんばかりに目を丸めた。 「なに、理由あるの?」 「本当に、知りたいんだな?」 「……その念押し、怖いって。なあ、それ本当に俺が聞いてもいいやつ?」 「いいよ、吉澤なら」  ふと立ち止まって、断言してやる。途端、俺につられて足を止めた吉澤が、後ろ足を引いた。  あからさまにたじろぐその様子に、俺もまた曖昧に笑って、その場をしのぐことしかできなくなる。  ああ。大概、臆病だ。俺も、おまえも。 「っていうか、なんで田所も高橋みたいに、俺を試すようなこと言うんだよ!」  歩き出した俺の背中に、軽い衝撃が走る。ずるいだろ、と痛くもかゆくもないパンチを喰らったようだ。堪えきれずに吹き出せば、通行人の何人かに訝しげな視線を送られた。  もう一度飛んできたパンチは、離れる前につかみにかかる。ぎゅっと、その手を自分の手で包みこめば、吉澤の手が一度だけ跳ねた。  予想していたよりも、冷たい手だった。まるで氷を溶かすように、俺の手の中で吉澤の拳がほどけていく。このまま溶け合って体がひとつになっていくような、そんな錯覚さえ覚えた。 「ああ、もう」  拘束をほどき、吉澤が手を慌ただしく引っこめる。そして俺と目を合わせることなく、眉間のしわを一段と深くした。 「せっかく搬入が無事終わった記念に、なんか奢ってやろうと思ってたのに」 「酒なら、俺は今日はもう飲まないぞ」  コンビニにたどり着く。人工的な光を浴びながら、違う、と珍しく吉澤は苛立ちをのぞかせる。 「そうじゃなくてさ。どこか、行きたい場所とかないの」  どこか行こうよ、二人で。  吉澤の顔はあまりに切実だった。声には甘さのかけらもない。これが世界の終わりの日に聞く祈りだ、と言われても遜色がないほど重く放たれたそれは、俺の心臓を無遠慮に揺さぶった。 「ごめん。別に無理にとは言わないから。じゃあ、また今度ってことで」  会話を強引に終わらせて、店に入ろうとする吉澤の肩をつかむ。 「……なんだよ」  吉澤の態度はそっけない。 「行こう」  気丈に告げて、逃げ場を明確に塞いでやった。  だってそうだろ。そうでもしなければ、いつだっておまえは逃げるようにいなくなる。 「行くぞ、二人で」  危険を知らせるようにガンガンと頭の中で鳴り響くのは、俺の心臓の音だった。  なのに俺はもう、立ち止まれないところまで来てしまったのかもしれない。

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