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第23話
昼休憩を前にして、俺は本社のセキュリティーゲートをくぐった。Nプロの現場が本格的に稼働してから、ほぼほぼ直行直帰を繰り返していた俺にとって、久しぶりのオフィスだ。
ロッカールームで身支度を整え、いつもの四階を素通りし、その足で二階に向かう。二階には、昼休憩になると賑わいをみせる食堂兼カフェテリアのほか、自販機沿いに併設されたラウンジもあった。
「田所ちゃん」
ラウンジに着くと、自販機の前に立つ営業二課の高橋、そして北村課長の姿がある。いの一番に俺を見つけた高橋が声をかけてきた。
「お久しぶりです」
会釈をすると北村課長はたちまち破顔して、きみはあいかわらずだね、とおだやかな声で言う。
「ねえ。せっかくだし、田所ちゃんも課長にジュース奢ってもらおうよ」
「あのね、私はまだひとことも奢るって言ってないから」
「北村課長ってば、まさか冗談でしょ。偶然、部下と自販機の前で会ったなら、上司はさらっと奢るものですよ」
「……いつも年功序列を嫌がるくせに、そういうところは抜け目ないよね、高橋くんって」
半ば嫌味も混じっていたように思うが、高橋は「ありがとうございまーす」と毅然とした態度を貫く。
いいよ、奢るから。好きなの選びなよ、田所くんも。北村課長の言葉に、不敵に笑う高橋と目が合った。
ああ、と脱力する。仕事の面では目を見張るところがあるし、根本的にイイヤツであることは間違いない。だが自分の核を見失うと、たちまち手のひらの上で転がされてしまうから、気は抜けない。
内心、北村課長の日ごろの苦労に思い馳せながら、ありがとうございます、とミネラルウォーターのボタンを押した。
「今日は現場じゃないんだね」
ペットボトルのキャップをひねりながら、北村課長が俺に訊ねてくる。年相応に落ち着いた印象を受ける北村課長が選んだのはコーラで、案外炭酸を好むのか、と少し驚く。
「先日巻上機の搬入が終わったので、その報告書を出しに」
「あー、重要工程だもんね。特別報告書として上長のサインがいるんでしょ、しかも紙ベースに」
ペールカラーで統一されたラウンジの椅子にそれぞれ腰かけ、長い足を組んだ高橋が、俺の後に続いた。
「今どき紙ってどうなんですか、課長。そろそろうちも全部電子化しません?」
「ゼネコン側が紙を求めてくる場合も、まだまだあるからなあ。まあ今度議案で出しておくけど、うちも大概古い会社だから」
もうちょっと現場が楽になるように頑張るから、田所くんも待っててね。北村課長の労いに、礼を返す。
「それで午後は? 田所ちゃん、現場戻るの?」
カフェラテの入ったボトルを振りながら、高橋が言う。その間にもラウンジには他の部署の人間がひっきりなしに出入りして、いくつか置かれたテーブル席では社内の女性陣たちのランチタイムが始まっていた。
「いや、今日はもうこのまま事務処理だ。現場は佐々木さんが入ってくれてる」
「待って。そういえば気になったんだけど、その、田所ちゃん、っていう呼びかたはなに? 君たち、そんなに親密そうには見えないんだけど」
「あー、課長まで吉澤くんみたいなこと言います?」
「高橋くん、コンプラ研修受けてるでしょ? 田所くんがもし嫌がってるならそれは立派なモラハラだ」
「嫌がってません。ね、田所ちゃん」
二人の視線を一斉に浴びながら「嫌がってないです」ときっぱり答える。ほらー、と北村課長に高橋が勝ち誇った途端、ラウンジから女性たちのくすくすとした笑い声がいくつも上がった。俺たちの会話は筒抜けだ。
「別に高橋からなんと呼ばれても、俺自身は気にしないので」
「むしろ吉澤くんのほうが嫌がってるよね」
そんな高橋の発言を受けて、温和な顔を曇らせた北村課長が声を潜めて言った。
「彼、年始にかけてデリケートな時期だから。高橋くんはもうちょっと、彼にやさしくできないの」
北村課長へ向けた、高橋の乾いた笑い声も。確かにあるはずのラウンジの賑やかさも。いまだ繰り広げられている目の前の二人の会話も、なぜだか全部、水の底へ沈んだようにくぐもって聞こえてくる。
「……あの。吉澤は、そんなに仕事が立てこんでるんですか? 近ごろ大変そうなのは、見てわかるんですが」
ふと、高橋が俺を見た。こちらの動向を見据えてくるそれは、わずかな機微も拾われてしまいそうで、なにも言えなくなる。いつしかペットボトルを握った手が、じわじわと汗ばんでいた。
俺の知らないところで、間違いなく、きっとなにかが動いているんだろう。
このまま聞き出して、楽になるのなら。そう思いはするのに、言葉は喉に張りついたまま、音にはならない。
バカみたいだ。なにを今更、わけのわからないものを相手に怯える必要がある。
ああ、そうか。結局、俺はあのころからずっと。自分が一番可愛くて仕方がなかったのか。
「本当にあいつは、しょうがないね」
口元に添えていたボトルをゆっくりと離すと、高橋は呆れたように重苦しく息を吐く。あいつ、が吉澤を指していることは明白だった。
声のない息が漏れる。拳の中で爪を立てる。
吉澤のことをわかったように言うその顔が、今日ばかりはどうにも気に障った。
「ごめんね、田所くん。私の口からはまだ教えてあげられなくて」
北村課長が言う。そんなふうに困ったように微笑む意図も、言葉の意味も、全てが頭の中で上滑りしていくばかりだ。
「さて。そろそろ解散しようか。私はまだお昼も食べてないんだ」
「……引き留めてしまって、すみません」
私が引き留めたんだよ。北村課長の手が俺の肩をやんわりと叩き、春の風のようにラウンジから離れていく。
そのやさしい背中に、ご馳走様でした、と頭を下げる俺の横に、高橋が並び立った。
「俺ね、来月のNプロ会議に出るよ。北村課長も」
「……そうか」
「うん。だから、またね」
「ああ、また」
物言いだけに開きかけた口を、笑顔の形へと片づけてから、高橋が歩き出す。
高橋を見送る。そんな今の俺を見たなら、あいつはきっと、硬い顔だと笑うだろう。
*
その日の午後、施工課内に与えられた自分のデスクで報告書の整理をしていると、吉澤が社内用の笑顔で近づいてきた。
「お疲れさまです、田所さん」
「……ああ、お疲れ」
「事務処理、進んでます?」
普段と打って変わって丁寧な言葉遣いも、敬称をつけるのも。吉澤にとってそれは、仕事という戦場で自分を保つための一種の鎧のようなものなんだろう。むしろ、身につけていたほうが楽だとすら思っているかもしれない。社内チャットや会議の場では、徹底して「同級生」の顔をのぞかせることはなかった。
「高橋に教えてもらったんですよ。田所さんが今日は本社にいらしてるって」
「それで、施工課にまで来たのか?」
キーボードから手を離し、軽く体を吉澤のほうへ向ける。
「隣の設計課に用事です。どうしても今月中に仕上げてほしい図面があって。でも野木さん、今いないんですよね」
「チャットでも送っておけばいいんじゃないか」
おまえがウロウロすると、妙に目立つせいで足止め食らうしな。
言った途端、吉澤の眉がぴく、と動いた。
咄嗟に口を手で覆う。多分、想像していた以上に、苦々しく吐き捨てたそれは、棘のある響きを生んでいた。
案の定だ。薄目でとらえた吉澤は、困惑した様子で俺を見つめている。
本当はとっくに気づいていた。吉澤がこのフロアに顔を出したときから、こいつの存在に神経が振り回されていたから。
野木さん不在の設計課からそのまま立ち去るのかと思いきや、吉澤はすぐに、うちの課の若手である中田から声をかけられていた。なにも悪いことじゃない。中田はいつからか吉澤に懐いていて、吉澤もそんな中田を邪険に扱うことはしない。
昔からだ。吉澤のネットワークは、俺が知らない間にも途方もなく広がり続けている。
ただ、慣れてしまったと思っていたはずのことが、なぜか今になって俺をひどく脆くする。
後悔の念に後押しされるように、吉澤をうかがう。謝罪を絞り出すよりも早く、気を取り直したように吉澤がセキュリティードアを指差した。
「ちょっと、吸いに行きませんか」
喫煙タイム、そんなに長く取れないですけど。自身の腕につけたスマートウォッチに視線を落とし、吉澤が苦笑する。
黙ったまま、ポケットの中身を確認して席を立つ。
わずかに遅れて歩いてくる吉澤をドアの前で待つ間にも、吉澤に話しかける事務員がいた。きちんと背筋を伸ばし、だけどはにかむような表情で。
また後で寄ります。業務的で形式的なやり取りのはずなのに、眠らせていたはずの優越感を呼び起こす。
階段を下り、三階のフロアから喫煙室に入るまで、俺たちはひとことも話さなかった。
ほかの喫煙者たちに遠慮してか、吉澤は室内の角に立ったまま煙を吐き出す。俺もまた、空いていたベンチの一番端に座り、先端を炙った。
とん、と灰を落とす。また少し短くなったたばこはまるで、白い導火線のようだった。このたばこが焼き消えたなら最後、俺の中でくすぶるものは、どう引火するんだろうか。
早く。たばこが、燃え尽きる前に。そんな苛立ちにも似たじれったさを覚えながら、俺は煙の向こう側にいる吉澤の存在を求め続けた。
やがて、俺たち以外の社員が喫煙室から出ていった。社員に向ける吉澤のいつものあいさつが、俺の頭上を滑っていくことさえわずらわしい。
「吉澤」
フィルター近くになったたばこは、俺の灰皿の中で役目を終えていた。互いに吐いた煙はとっくに消えたのに、振り返るあいつは今も消えず、そこにいる。
「ごめん」
たったこれだけの言葉がすぐに言えないなんて、正気の沙汰じゃない。それでも吉澤は、いいよ、と受け入れて、俺の隣に腰をおろす。
「田所にだって、機嫌が悪い日ぐらいあるだろ」
「……本当に悪かった」
「いいって。気にしてない。世話になってるし、いつも」
吉澤はそれ以上踏みこむことなく、再び煙を吐く。
俺もまた、なにも言えなかった。今、口を開いたら、その言葉全てで吉澤を傷つける。そんな妄想じみた考えが、いつまでも止まらなかった。
頭の上で静かに稼働する換気扇の音だけが、俺たちの沈黙を埋め続けた。
ほどなくして、会社で定められた喫煙時間の終了が迫り、俺たちも喫煙室を出る。
先ほどの事務員に用がある、と吉澤が言い、二人でゆっくりと階段をのぼった。
四階のフロアにたどり着く。そろそろ吉澤は鎧をまとうころだろう。
無闇に気を遣わせただけだった。気の利いたことがなにひとつ言えずに、逃避行にも似た時間が終わっていく。
もしも。今、素直に伝えられるものがあるとしたらならそれは、俺のささやかな、わがままだけだ。
「……東京タワーがいい」
数段下にいる吉澤へと、振り返る形で視線を落とした。意表を突かれたのか、吉澤の目が素早く瞬いている。
「え、なに」
「まだ言ってなかったな。行きたい場所」
先日、二人で出かける約束をした。しかしその日は保留にして、吉澤を今日まで待たせてきた。
待たせる必要なんてなかったと思う。なのに慎重にならざるを得ないのは、離れていったあの日の手の残像が、今も俺に巣食っているからなんだろう。
「東京タワーってあの東京タワー、だよな?」
「それ以外ないだろ」
「……いや、ないけど。でもなんか、すごく懐かしくて」
中等部の校外学習で行ったきりだ。
俺もだよ。まぶたを伏せて懐かしむ吉澤に、心の中で答えた。
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