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第25話

 それから俺たちは、大した目的もないまま東京の街をうろついて時間を潰してから、日が暮れるころに東京タワーへと向かった。 「ちょっとだけ買おうか迷ったんだけどさ。一番上のデッキまで行けるツアーチケット」  田所は、上まで行きたかった? そう聞かれて、俺は曖昧に笑って場を濁した。  下車した赤羽橋駅から東京タワーまでは、ゆるやかな坂道が続いている。息が上がるほどの勾配ではないが、繰り出す足はしっかりとした重力を感じ取る。  いつしか足元ばかり見ていた重い頭を上げ、前を行く背中を見つめる。まるでたばこをふかすように、吉澤から白い吐息が流れてきた。  暖を取ろうと赤羽橋駅を降りてすぐに飲んだコンビニのコーヒーも、もう体の中で冷めてしまったことだろう。 「この坂、こんなに長かったっけ」  吉澤がぽつりと言った。過去を懐かしむように投げ出されたそれは、俺の記憶の底を遠慮も知らずにひっくり返す。  あのころ、俺たちは中等部の一年だった。  俺はクラスの列を乱すことなく黙々と歩き、となりのクラスだった吉澤は、誰彼構わず話しながら歩くせいで随分と後方まで下がってきていた。校外学習とは名ばかりで、クラスメイトたちは絶えずそわそわとして、小波のような雑談が止まない。  吉澤とは知り合ってそう間もなかった時期だ。自ら話しかけるなんていう意識すらなく、ただ知り合いがそこにいる、程度の認識だったように思う。  そんな吉澤の転がり跳ねる声を聞きながら上る坂道は、随分と長く感じたものだった。  なあ、田所。ほら、見えてきた。  ハッとして、再び顔を上げる。あのころより背丈も顔つきも大人びた吉澤が、幻想的なまでにライトアップされた赤と白の鉄塔を指差して、こちらを見ている。  驚いた。  そうだ、あのころも。吉澤はこの場所で俺にそう言って、朗らかに話しかけてきた。  話しかけられるなんて思ってもなかった。たいして仲良くもないのに、なぜ、俺に。  だが、何気ないそのひと言でおまえはあっという間に、完結していたはずの俺の世界に入ってきたんだ。  凍てついた夜を溶かすように、タワーのふもとはクリスマス仕様のイルミネーションを施し、多種多様な光にあふれていた。写真スポットとして、多くの人々がスマホを片手にはしゃいでいる。  情緒なんてものはなかったことにして、俺たちは言葉少なに、当日券を求める列を追い越した。  タワー内のエレベーターへ乗りこむ。向かうは地上百五十メートルに位置する、メインデッキだ。  音声アナウンスが流れ、扉がゆっくりと閉まる。  隣に立つ吉澤を横目で見るが、目は合わない。  上昇が始まった。滑り出しのスムーズさ、浮遊感の少なさ、そして恐怖心を感じさせることのない安全性も。この業界に携わっているからこそ、わかる。  自分たちが作る、あの技術の結晶が、ここにある。  二度目となった今日でさえ、思わず感嘆の息が漏れそうだった。  たったの約四十五秒。垂直の旅にかかる所要時間。ショッピングモールや、よくあるマンションに設置されたエレベーターとは異なるスピード。  下から見上げたときは、あんなに遠く思えたのに。  今まで味わったことのない特別な体験に、かつての俺は一人、生徒たちでぎゅうぎゅう詰めになったかごの中で、打ち震えていたのを覚えている。  到着を知らせるアナウンスが流れ、やがてドアが開いた。  ガラスに囲われ、開放感のあるメインデッキの下にあるのは、光の絵具を贅沢にばらまいたような、東京の夜の街並みだ。  懐かしい、と思う。  碁盤の目状に走る道路、大小様々なビル群の重なり、運河のように流れる太い川。  高校三年、美術部最後の作品として彫ったのは、ここから見下ろした風景だった。  でも、あのころとは確かに違うものもある。街は今もどこかで再開発が行われ、誰かの命が地球の体液のように巡り続ける限り、停滞は訪れない。  そして今が夜であることも、自分が大人になったことも。俺の隣にいる吉澤との関係も、全部。  どこかが少しずつ、変わっていく。 「……きれいだな」  手すりによりかかりながら、ぽつりと漏れた吉澤の声は掠れている。 「そういう感想も持てたんだな」  苦笑すると、吉澤がふてくされながらも、再び前へと向き直った。  きっともう、おまえは覚えていないのかもしれない。  田所、なあ、すごかったよな。エレベーター、めちゃくちゃ速いし静かだし、やばかったよな!  メインデッキに広がる生徒の波をかき分け、俺の腕を突然掴んできたかと思いきや、吉澤は早口でそうまくし立ててきた。吐息や制服がわずかに乱れていたことさえ、昨日のことのように思い出せる。  おまえにとって、聞かせる相手は誰でもよかったのかもしれない。  しかし俺にとっては、そうじゃなかった。  ほかの生徒はとっくに興味を景色に移す中、二人でエレベーターのすごさについて語り合う。景色のよさなんてそっちのけで。吉澤だけが、俺と繋がっていた。  興奮の余韻を乗せた吉澤の瞳が、ちかちかと瞬いているようにも見えたが、本当に瞬いていたのは俺のほうだったのかもしれない。  あの日。ふと語り合うことをやめて、外を見た。  ガラス越しに見えた空の青さに、どうしようもなく泣きたくなったのを覚えている。 * 「今日は、俺の家に寄るのか?」  なんとか声にした問いかけは、ひどく乾いた音になる。駅に向かい、坂道を下っているときだった。  冬の風のせいで喉が凍りついてしまったのか、東京タワーを後にした俺たちからは、ますます多くの会話が失われていた。そんな俺たちをからかうように、向かい風がひゅうと吹き抜けていく。  沈黙を怖いと思ったことはない。空白の間を埋めようと思ったこともない。  ただ、夜の下で歩く吉澤の横顔がどうにも思い詰めているように見えたせいで、変な焦りが生まれていく。  こんなとき。目の前の吉澤ならなんて言うんだろうか。気の利いた言葉で、夜道を淡く照らすぐらいは難なくこなしてしまうんだろう。俺がいても、いなくても。  今日は家に寄るのか、なんて。結局言葉にできたのは未練がましい選択肢だけで、あまりの情けなさに笑えてくる。  再び、強い風が吹く。寒さに目を細めながら、首をすくめる。下り坂だというのに、俺たちの足取りはずっと重い。  夜のタワーを楽しみに向かう集団とすれ違いながら「今日はやめておく」と吉澤が小さく首を振った。 「明日、仕事だしさ。朝からNプロの会議だろ」 「……ああ。それにしても珍しいな。おまえの補助に入った高橋ならまだしも、また北村課長が会議に参加するなんて」  通常プロジェクト会議は、いわゆる三者会議と呼ばれるもので、主に営業課、施工課、設計課の主要メンバーだけで行われる。進捗状況に応じて他の課の人間が参加することもあれば、節目には北村課長のような課長クラスが参加することもあるが、どちらかといえば後者のほうが珍しい。  据え付けは至って順調だった。大きなトラブルもなく、一日遅れだった工期はうまく巻き返せている。  なにか他の。それこそ課長クラスが動くほどの特別な理由があることは明白だった。  無言を貫く吉澤を、盗み見る。  坂道を完全に下りきるころには、永遠に訪れない、途切れた会話の続きを諦めた。  駅につき、改札をくぐる。タイミングよく、電車はあまり待たずに来た。  暖房の効いた車内はがらんと空いていて、まばらに乗客が座り、その誰もがスマホの世界に没頭している。  そんな中で、わずかに互いの腕を触れ合わせて座席に座る俺たちは、どうにも不自然極まりなかった。乗客が皆スマホに夢中で、よかったと思う。 「……あのさ」  吉澤が坂道から続く沈黙を、再度破った。  俺は、待った。自分でかけた呪いのような言葉に囚われながら、言葉をひたすら待った。  だが、いくら待っても続きが聞こえてこない。吉澤の足の上で作られた拳が、強く握りすぎて白くなっている。  とうとう電車が駅に着く。俺はこの駅で乗り換えだ。  またな、と告げて席を立った。ずっと腕にあった重みが消えた途端、鼻の奥で冬の匂いを感じ取った気がした。  セーフティゲートが開く。コンクリートの無機質な硬さが、ホームに降り立った俺に、なぜだかもの寂しさを運んでくる。 「田所!」  跳ねるように振り返った。視界にたちまち飛びこんできたのは、俺を急いで追いかけてきた吉澤の姿だ。  車両のドアの向こうで立ち止まり、泣き笑うような顔で吉澤が口を開く。  「……今日は、楽しかった」  発車のベルが鳴り響く。ドアが目の前でゆっくりと閉じていく。吉澤を乗せた電車は、あっという間に夜へと飲みこまれて見えなくなった。  俺も、楽しかった。  もう誰にも届くことのない言葉を、白い吐息だけが知っている。  

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