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第26話
月曜十時前。ノートパソコンを片手に、階段をのぼる。情報共有アプリに刻みこまれた「Nプロ会議」の文字はまるで指示書のように、俺を従順なまでに五階のミーティングルームへと向かわせる。階段を一段、また一段と踏みしめるたびに体の奥から軋む音がするせいで、随分ひどい顔をしていたんだろう。
「田所ちゃん。今日の安心チェック、不合格かもよ」
ミーティングルームに入ると、真っ先に声をかけてきたのは高橋だ。すでに着席している高橋は、開始時間まであまりに手持ち無沙汰なのか、億劫そうに手を振ってくる。
「不合格なんてあるのか」
「あるあるー。さすがに安心できない、っていうか会議のために相当気合い入れてきたんでしょ」
真面目だね。そう言っていたずらっぽく笑う高橋の奥に、我関せずといった態度の人間が一人いる。
吉澤だった。
毎度会議の進行役を務める吉澤は、プロジェクターの準備の真っ最中だ。視線を感じたんだろう、リモコンで画面の調整をしつつ、こちらを見ては軽く会釈するだけだった。
そんな俺たちを見てなにを思ったのか、高橋が「へえ」と心底物珍しそうな声をあげた。
「なあに、ケンカでもした?」
「そんなわけないだろ。変な勘繰りすんな」
吉澤が見向きもせず、鋭く言い放つ。もともと高橋の前ではどうにもそっけない対応をしがちではあるが、今日の吉澤からは苛立ちが明らかに透けて見えた。
鼻を鳴らすように、高橋が笑う。
「……ねえ、吉澤くん。人間ってさ、怖い生き物だと思わない?」
俺たち、仕事をしてるフリをしてるだけで、本当は別のことを考えてるんだから。
俺の背筋を走るのは、寒気とも電流とも似つかない衝撃だった。
吉澤は操作の手を止め、高橋を無言で睨みつける。プロジェクターで映し出された「豊洲Nタワーマンションプロジェクト」の文字が、俺たちの空気を白々しいまでにラベリングしていた。
「わかってやってるなら、まだいいほう。でももっと怖いのは、仕事と私情の境界がわからなくなったとき。私情が正当化されていいなら、俺たちをルールで縛る必要なんてないんだよ」
酸素を根こそぎ奪うような、重い沈黙が部屋を包みこむ。腕に抱えたノートパソコンが汗ばんでいく。冬だというのに。俺の体を打ち破る勢いで、心臓が暴れ続けているせいか、嫌な汗が止まらない。
あれは、警告だった。冗談でもなんでもない。吉澤の顔を見ることすらできなかった。
高橋は確実に、今の俺たちを危ぶんでいる。ひとつでも間違えば谷底に落ちていきそうな、そんな危険な綱渡りをし続けている俺たちに。
「あの、田所さん。ちょっとだけ避けてくれませんか」
突然聞こえてきた淡々とした声に驚きながら、視線を移す。出入口をふさぐように突っ立っていた俺のすぐ近くで、いつもの冷静さを保った設計課の野木さんが立っていた。
「……すみません」
「いえ、べつに。通れたらそれでいいので」
ありがとうございます、と野木さんが軽く頭を下げ、颯爽と席につく。着々とノートパソコンをセッティングし、会議が始まるのを待っている。そして高橋もまた、お疲れっす、となに食わぬ顔で野木さんにあいさつをした。
「ああ、今日は高橋さんも出席されるんでしたね」
「そうそう。どうぞよろしくお願いしまーす」
「それで、あとは北村課長待ちですか? 開始一分前なんですが」
野木さんが名前を出したタイミングで「ごめん、遅くなった」と北村課長が慌てながら滑り込んできた。
課長がギリギリとか珍しいですね、とすかさず高橋が言う。
「部長に捕まっちゃった。一度捕まると話が長いから、あの人。ってほら、そんなところで立ってないで、田所くんも座って。会議を始めよう」
促されるままに、吉澤と向い合せの席に座る。俺たちの間にあるスペースに置かれたプロジェクターが、ひと際強く光を放っている。
十時ぴったりに始まった会議は、想像通りにスムーズに進んでいく。
多少のトラブルはあっても、納期変更や製造工場に特急対応を頼むこともないまま、工事はすでに終盤戦に差しかかっている。
過不足のない吉澤の進行に反して、ミーティングルームの利用時間を一時間と申告してあるためか、今日の会議は比較的雑談を交えながら和気藹々と進んでいく。
そんな会議も北村課長の「さて」のひとことで、まとめに入った。
「来週にはもう試運転か」
北村課長の目を見てうなずき、俺はパソコンの画面上にあるスケジュールにざっと目を通す。
「はい。本当は今週にでも動かせるんですが、どうしても現場所長が立ち合いたいとのことだったので。スケジュール調整の上、来週の月曜日に」
「ここまであっという間でしたね」
野木さんの言葉に、本当に、と北村課長が相づちを打った。
人員に余裕があるため、今日の書記を勤めている高橋が、カチカチとキーボードをリズムよく叩く。自分で持ちこんでいたお茶を飲んでから、再び北村課長が口を開いた。なんかさ、花火みたいだよね、私たちの仕事って。
「どうしたんですか、課長。突然ロマンチックなこと言い出して」
高橋が笑いながら手を動かしているのを、北村課長は見逃さない。
「……高橋くん。今の私の発言、議事録に打ち込んだね?」
「書記ですから」
「書かなくていいって。ただのおじさんの与太話なんだから」
でも、花火みたい、って思ってるのは本当だよ。北村課長の耳触りのいい語りは続いていく。
「豊洲に新たなタワマン建設の話が流れてきたのが、もう二年前。TSEにも落札権があるとわかって、誰よりも真っ先に、担当させてほしいと手をあげたのがここにいる吉澤くんだった」
ね、と北村課長が隣に座る吉澤に目配せをすれば、皆の視線が一斉に吉澤へ注がれた。吉澤はその視線に根負けし、肺に残った空気を押し出すようにして言った。
「……あのころはひどく野心的だったというか。同期たちの活躍が目覚ましく、置いていかれまいという思いで名乗り出たのを覚えています」
「そう。そこから私がサポートに入る形でなんとか契約にこぎつけるまで、それはもう苦労の連続だったよ」
なんせここまでの大型案件は、皆も知っているとおり初めてだったから。北村課長が苦笑し、伝染するようにほかの人間からも静かな笑いが広がった。
「工程期間以上の時間を下準備に割くのは、営業も技術部もおなじこと。最高のエレベーターを作り上げたい思いがあったからこそ、花火みたいに、完成があっという間の出来事のように感じられるんだよね」
いいこと言いますね、と高橋がキーボードを鳴らす。記録しない、と釘を刺し、ざわつきかけた空気が凪いだのを感じ取ってから再び北村課長が口を開いた。
「そしてこの結果は、大阪出向の決まった吉澤くんにとっても大きな手土産、また、自信につながっていくと思います」
その言葉が落ちるまでの、ほんのわずな時間。誰もが口を閉ざしていた。
出向。
突然、夜が訪れたような気がした。状況を噛み砕いて、さっさと腹の中に収めてしまいたいのに、ずっと喉元で魚の骨みたいに引っかかる。
誰が、どこに。なにを。
思わず、救いを求めるように吉澤を見た。
目が、合う。吉澤もまた、なにかを願い、求めるように俺を見ている。
「吉澤くんは年始から一年間、大阪支店への出向が決まりました。業務量の増加に伴い、人員不足解消のため、実力も経験も備わっている吉澤くんに、とのことで来週正式に辞令が出ます」
「あの、北村課長」
几帳面そうな手をあげたのは野木さんだった。はい、野木くん。北村課長が発言を促す。
「Nプロはまだ途中ですが、その後は誰に引き継ぐんですか」
「すでに私の代わりに営業補助として入ってくれてるから、皆も薄々気づいていたかな。これからはここにいる高橋くんに。吉澤くんの業務も順次引き継いではいるけど、まだ全部ではないよね?」
吉澤は首を縦に降り、事務的な調子で話し始める。
「私が出向するまでには、全て引き継げるように動いてはいます。ただ出向とはいえ支店勤務ですから……なにかあれば私のほうにすぐ連絡をください。って言っても、つい私も手を出しすぎるかもしれませんけど」
どうぞよろしくお願いします、高橋さん。
普段の二人なら絶対口にしないような形式上のあいさつを、高橋は静かにほほ笑んで受け止めている。
その不気味なほどの異質さが、全てを真実へと塗り替えた。
吉澤は、大阪へ行く。
まぎれもなく、それは真実だ。
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