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第27話
玄関のインターフォンが鳴ったのは、夜の八時ごろだった。
深呼吸を何度も行ってから、いつもより重いドアを開く。
「……お疲れ」
声をかける。寒さのせいで鼻を赤くした吉澤が、ドアの向こう側で迷子のように立っていた。
ひとまず入れ、と促してやる。すると吉澤は玄関でコートを脱ぎながら「今日、雪降るんだって」と場違いなほどはしゃいだ調子で言う。
「朝、ニュースアプリで雪マークついてるの見たけど、まだ降る感じなくて。でも外、すっげえ寒いよ」
「吉澤」
「ん?」
「なにか、飲むか」
訊ねると、たちまち吉澤は感情すら見失ったようなぎこちない顔をし、黙りこんでしまった。
そのままリビングに移動し、畳んだコートとマフラーを椅子の背もたれにかけてようやく、吉澤がまともに俺の顔を見る。いつもはすぐに緩めるはずのネクタイは、まだ首に巻きついたままだ。
「あったかいコーヒー、とか、ある?」
「わかった。淹れてやるから、手、洗ってこい」
「……うん」
洗面所のある方向から遠慮がちな水音が聞こえてくるのを確認し、俺はキッチンに立った。
目線を手元に落とす。そこに投げ出されていたのは、気を紛らわせるために何度も眺めていたスマホだ。メッセージアプリを立ち上げると、すぐさま吉澤とのトークルームが開く。
やり取りをさかのぼっていく。数はそう多くない。
今日のNプロ会議のあと「今日、俺の部屋に来るか?」と俺は衝動的に文字を打ち込んでいた。
吉澤の返事があったのは、そこから一時間後のことだ。
「わかった」と簡素な一文。昼休みに入って、すぐのことだった。
再びリビングへと戻ってきた吉澤が、おとなしく椅子に座った。時間をかけて豆を挽いてやる気力もなく、マグカップにインスタンコーヒーを注ぐ。
吉澤、そして自分に湯気の立つコーヒーを置いてから、俺はテーブルを挟んで吉澤と向き合った。
「飲んでもいい?」
軽く頭を上下に動かす。吉澤は恐る恐るといった様子でマグカップを口元に寄せる。
「毒なんか入ってない」
思わず口走った冗談に、吉澤は眉すら動かさない。
「……そんなこと、わかってる」
ふう、と自分の吐息で湯気を散らし、たくさんの時間をかけて吉澤はコーヒーを口に含んだ。俺もまた縋るように口付ける。たばこの代わりにもならない苦味が、口内いっぱいに押し寄せた。
それからどれほどの時間が過ぎたんだろう。言葉をかわすこともなく、ただ無闇にコーヒーを消費するだけの重い沈黙が部屋を包んだ。
「行くのか。大阪」
からっぽのマグカップが二つ、テーブルに並ぶころ。ようやく俺は意を決して、苦い喉を震わせた。マグカップを未だ包む吉澤の両手までなぜか震えているように見えて、言ったことを心底後悔しそうになる。
もう後悔する段階なんてとっくに過ぎているというのに。
やがて吉澤の口がゆっくりと動き始めた。
「……うん」
行く。
そう答えた瞬間、吉澤の顔がにわかに歪んだ。
ひゅっと吸った息はあまりに重く、どこにも行き場が見当たらない。喉の奥で、乱高下しながらも停滞し続けている。苦しさのあまり奥歯をきつく噛み締めたが、なんの解決にもならない。
ただただ、痛い。どこもかしこも。
事実を確認し合うだけなのに、どうしてこうも消えない傷が増えていくんだろうか。
どうしてなにも言わずに行こうとするんだ。
まるであの後夜祭の日のように。吉澤はまた俺から離れていくらしい。
「あ、あのさ!」
突如、驚くほど明るい声が上がった。
「大阪の支店長ってさ、結構俺のこと買ってくれてるんだって」
あれほど好んでいたはずの吉澤の声が、脳内で不協和音のように響く。頭が痛くなる。やめろ。そう思うのに、うまく声にならない。
「それでさ、向こうでもいい営業成績残せたら、早期の出世にも繋がると思うんだよな。期間も一年っていうし、永遠にあっちってわけでもないし」
「……吉澤」
「そうだ! 田所、聞いて。俺、大阪行ったことなくて。なにから食べたらいいと思う? お好み焼きとか、たこ焼きとかは安直すぎ?」
「なあ」
「大阪城とか道頓堀は絶対として、ネットで検索したら行ってみたいなあって思えるところ結構あるんだよな。なんか一年ぐらい割と楽しめる気がして……」
「吉澤!」
子どもみたいだ。大声を出せばどうにかなるなんて、愚直で世間知らずな子どもとなにも変わらない。
大人なのに。暴力ではなく、言葉を尽くす大切さを散々教えられたはずなのに。
俺たちはまたおなじ過ちを、バカみたいに繰り返している。
吉澤が俺を見ていた。驚きで見開いていた瞳は俺を遠ざけるように、形を次第に鋭く変えていく。
「なあ。どうして言わなかった」
唸るように告げると、吉澤は「なにを」と苦々しそうに問いただしてきた。
「出向のこと。もっと早く、俺に言えただろ」
吉澤が鼻を鳴らす。ありえない、と言いたげに首を振ってテーブルをひたすら睨みつけている。血の気を失った手は、マグカップを掴んで離さない。
あまりに長い沈黙だった。
時間が刻々と流れていく。そうやって過ぎ去った多くの時間を覚えている。吉澤の手が離れたあの日からずっと、忘れられずにいた未練がましい俺のことを、動き続ける心臓だけはずっと覚えてくれている。
おまえとこうして再会するまで、ひとときでも吉澤のことを忘れられた日があったんだろうか。
俺はそれでよかった。忘れられなくても、よかった。一年でも、何十年でも。おまえがそばにいなくても。
たとえ、あまりにひどいエゴイズムだとしても。
おまえになら、俺に残された限りある時間をいくらでもくれてやるつもりだった。
でも俺は言わせたかった。言わせたくなったんだ。吉澤と、再び出会ってしまったから。
言ってほしかった。
「待っててくれ」って。たったそれだけでいい。俺の時間を差し出す覚悟を、おまえに受け止めてほしかった。
それなのにおまえは、俺の家にのこのこと現れておきながら、この期に及んでまたなにも言わない。
なあ。ここまで来ておいて、逃げるなよ。
頭の奥で熱が昂っていく。ふつふつと全身を巡る血が沸き立ち、出口を求めてうごめいている。
「また言わないのか」
吉澤の髪がさらりと揺れた。
「そうやってまたなにも言わずに逃げるのか、あの日みたいに!」
はっきりと声にした途端、吉澤が激しい物音とともに勢いよく立ち上がった。視界の中、椅子が後ろへとスローモーションのように倒れていくのが見えた。
「……言えるわけ、ないだろ。なにかが変わるわけでもないのに」
吉澤の手から離れたマグカップは転がり落ち、ぱりん、と乾いた音を床の上で奏でた。ひとつの季節があっけなく終わりを迎えたような、そんな侘しさだけを部屋に残す。
「ずるいよな。いつだっておまえは、俺の一番痛いところを突いていく……」
吉澤の言葉を受けて憤る。苛立ちが止まらない。
ずるいのはどっちだ。自己完結して諦めて、なにひとつ伝えようとしないのはおまえのくせに。
「だったらなんでも、なにもかも言えばいい。そうやって一人で勝手に腹立てるぐらいなら」
「言えない……言えないんだって」
腹の中のものを吐き出した途端、星ひとつが滅亡するわけでもないのに、吉澤はひたすら言い淀む。
「吐き出せよ」
「俺が……どれだけ……」
「いいから言え」
「なあ、もう……俺は……」
「思ってること全部、今すぐ!」
「言えねえんだよ! 言えるわけない!」
悲痛な叫びが、鼓膜を劈く。
「こんなぐちゃぐちゃになって汚いもん、おまえにだけは言いたくない!」
心臓が止まった気がした。止まってもいいと思った。悲鳴にも似たその声が、痛いほどにまっすぐなその瞳が、俺を求めていることに気づいてしまった。
床に散った荷物を脇に抱え、出ていこうとする吉澤の腕を咄嗟につかむ。本能に近い反応だった。
「離せよ」
冷徹なまでに、吉澤が低く唸る。首筋を刺すような冬の刃にも似た冷たさだった。
言われたところで、離せるはずがない。離せない。ますます手に力がこもっていく。
「なあ、離せって!」
吉澤が振り返る。
世界中の苦しみを背負ったような顔で俺と対峙する吉澤は、あまりにやさしすぎる生き物に思えた。やさしすぎるがゆえに抱えた生きづらさを、長い間、笑顔で誤魔化し続けてきたんだろうとすら思った。
だが俺が一生かけて気づいてやれるものなんて、こいつがぐちゃぐちゃになるまで抱えこんだものたちの、ほんの一部でしかない。
そういうものだ、人間なんて。全てを分かちあえるなんて考えるのは、理想論の最果てにあるものだ。
わかりあえなくてもいい。たとえわからなくても、限界まで張りつめた表情をもう包み隠すことのできない吉澤を、もう手放せるはずがなかった。
「帰さない」
凍りついた空間に、俺の声がじわりと染み渡った。
しばらくの間、吉澤はきつく唇を噛みしめたまま俺を見据えていた。乱れていた呼吸が、少しずつ平常を取り戻していく。次第に吉澤の肩が下がる。もう戻れないことを悟ったのか、手の中にある吉澤の腕の強張りが静かに解けていった。
一抹の不安を抱きながらも、吉澤から手を離す。
すると吉澤は荷物を床に置いて、割れたマグカップの破片を、黙って拾い始めた。
その行為は許しでも、和解の宣言でもない。こうやって吉澤は、自分の手で壊したものを自分で片づけながら、ずっと生きてきた。それだけのことだった。
キッチンから持ってきたビニール袋を片手に、俺もまた吉澤の傍で破片を集める。吉澤の視線が刹那的に注がれて、またすぐに自分の手元へと向かっていく。
袋に入れていくたびに、溜まっていく破片が弾けた音を奏でた。
「……ごめん」
最後の大きな破片を袋へ落としたとき、吉澤がぽつりと言葉をこぼした。謝らなくていい、と頭を振る。吉澤は膝を抱えたまま、今度は少しだけ顔を上げて「ごめん」と凜とした声で言った。
「俺、田所に甘えてた。もうずっと、甘えてたんだと思う。言わなくてもわかってくれる、って。そんなことない、ってわかってたのに」
離れたくない。
吉澤の言葉は、両膝の中へぽとりと落ちていく。早朝の空気にも似た濁りのないそれは、俺の胸をひどく締めつけた。
「……見送り、行くから」
声が、情けなく滲む。ため息とも取れるようなあいまいさで、吉澤の笑う気配がする。
「来なきゃ一生呪ってやる」
それはあの日の生クリーム
みたいに甘ったるく、切実な呪いだ。
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