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第28話
「朝のほうが楽だったんじゃないのか。移動」
「……いいだろ、別に。俺がおまえと居たかったんだよ」
会社の休みである土曜日。引っ越しや諸々の手続きを既に済ませたという吉澤は、夜発の新幹線までの時間を潰すため、キャリーひとつで俺の家にやって来た。
いつもなら土曜日も稼働している現場だが、今週末は奇跡的に休みになった。内装業者との兼ね合いもあって、作業も停止せざるを得なかったのが実情だ。
ある意味、これはこれでよかったんだろう。
「今日に限って急に呼び出し喰らったら、おまえに一生呪われるんだろうな」
冗談混じりで告げる。すると吉澤は「それも本望だろ?」といたずらが成功した子どものように笑う。
「そうだ。はい、これ」
昼ごはんに作った炒飯を平らげた後、吉澤は急に思い立ち、キャリーケースを漁り出した。何事かと動向を我慢強く見守っていると、吉澤がテーブルの上に小さな箱を置く。開けて、と訴えてくるくせに、その目線はどこか心細げだ。
箱の中身を取り出せば、出てきたのは真新しいマグカップだった。しかも間違いなく、俺好みのデザインの。
「この前、割っちゃったし」
「……弁償しろ、なんて言ったか?」
「言ってない。でも、こうでもしないと俺の気が済まないから」
気に入らなかったら使わなくていいよ、と吉澤は殊更軽く言うが、それを今日この日に渡されるのはあんまりだと思わないのか。渡すなら、なにも今日じゃなくてもよかっただろ。
行き場のない未練がましさを、どうにか体の中で押し殺す。神妙な面持ちで俺の出方を伺う吉澤へ、今日ばかりはちょっとした不満もぶつけたくないのは、俺のちっぽけなプライドのせいだった。
「……だったら、これは使わずにとっておく」
おまえが使え。帰ってきたときに。
そう告げると吉澤は、その言葉の意味を飲みこむようにしばらく視線を泳がせた。やがて、マグカップをゆっくりと手繰り寄せては「うん」とわずかに安堵を浮かべてうなづいた。
それから俺たちは特別になにかをするわけでもなく、日常らしい日常を送った。多分、二人してそうあるように努力をしていたのだと思う。吉澤がおすすめだという動画を見ながら、豆から挽いたコーヒーを飲む。動画に飽きたら、ふたりきりの空間でジオラマをいじった。
もしも今日、世界が終わるとしたら、俺たちはこんなふうに何気なく過ごして、時間を溶かしていくのかもしれない。
そう思いながらソファーに身を沈めると、いつしか吉澤が黙って俺の腕に寄り添ってきた。体重を預けると、重いって、と小言がすかさず飛んでくる。でも、不満にも満たない未熟な言葉が飛んできたのは、その一度きりだった。
新幹線の予約、二時間前。余裕を持って家を出る。鍵を閉める瞬間に見えたテーブルの上のマグカップが、やけにはっきりと脳裏に刻まれていく。
芯まで凍える日だった。朝からちらほらとみぞれまじりの雪が降っている。
「あ、降ってる」
吉澤と踊るように、キャリーケースがわずかに跳ねた。
「上ばかり見てたら転ぶぞ」
「転ばないって。子どもじゃないんだし」
「どうだか」
鼻を鳴らし、落ちかけた吉澤のマフラーを巻き直してやる。ありがとう、と灰色の空に向かって吐いた吉澤の息が、瞬く間に温度を失っていく。そんなことがやけに俺を悲しくさせる。
東京駅に着くと、俺たちは改札の外に出て、駅地下の喫煙所を目指した。
皆が一様に黙々とたばこを消費する中、俺たちもまた歪に映らないように気配を馴染ませる。
ポケットをまさぐっていた手を、不意に止めて吉澤が俺を見た。
「なあ、一本ちょうだい」
明らかな甘えを滲ませて、吉澤が言う。
「ないのか」
「あるよ。でも、田所のやつが欲しい」
仕方ないな、と心にもないことで前置いて箱を軽く叩く。飛び出した一本のたばこを、吉澤は躊躇いもせず咥えてみせた。
ほぼ同時に、それぞれのたばこに火をつける。互いの気配に縋りながら、俺たちはしばらく並んで吸い続けた。
「……いるなら持っていくか?」
室内の喫煙者たちが幾人か入れ替わったころ、思いつきを精査することなく、吉澤の目線に掲げて箱を振った。かさかさと音がする。残りは半分を切っているかもしれない。
「いや、悪い。新品のほうがよかったな」
言い出したのは自分なのに、もう既に後悔している。旅立ちの餞別がこれではあまりにみすぼらしい。
「いい。それちょうだい」
しかし俺の意に反して、吉澤はすぐさま俺の手から箱を奪いとった。それから形見を撫でるような手つきで、潰れたふちをじっくりとなぞっていく。吉澤の目元のやわらかさに、ただでさえ脆くなった胸の奥が強引にかき混ぜられた。
目が、離せない。
随分と長く見続けていたんだろう、吉澤がこちらの視線にとうとう気づいた。やってしまった。羞恥心を誤魔化すよりも早く、俺の視界を塞ぐ手がある。
「心臓がもたないから」
耳元で吐き出された煙は、あまりに味わい尽くした匂いがして、気が狂ってしまいそうだった。
「そろそろ行くわ」
落ち着き払って、吉澤が言う。吸い殻を灰皿に落としてスマホを見れば、新幹線の時間まで残り三十分を切っている。喫煙所を先に出る吉澤の体から、残り香が匂い立つ。
改札口に向かって歩いていく。やけに軽やかに響くキャリーケースの音が、足元を不安げにすり抜ける。口数は減る一方だった。
ふと、吉澤がくしゃみをした。ああ、そういえば今日はこの東京で雪が降るほどに寒い日だった。
「……冷たいな」
先ほどからずっと俺の隣にあった吉澤の手を、おもむろに握る。暖房の効いた喫煙所についさっきまでにいたはずなのに、驚くほど冷え切っている。いったいこいつは、体の熱をどこに置いてきてしまったんだろうか。
「やっぱり?」
そう言って笑った吉澤の声は震えていた。握りかえしてきたその手もまた、行き先の見えない不安から耐えるように、小刻みに震えている。
あまりにもきつく握り返してくるから、じんと手が痛んだ。痛むたびに、残された時間の短さを喉元に突きつけられる。
今日、吉澤は旅立っていく。この場所から。そして俺の前から。
誰も招き入れなかった俺の中に、深く棲みついておきながら。
「……なあ、田所」
目の奥が、熱い。このまま焼き尽くされてしまいそうだと思った。
「待っててよ」
俺のこと、待っててよ。
見つめあうことはなかった。前を向くことしかできなかった。おまえが今どんな顔をしているのか、どれほどの勇気を振り絞ったのかさえ、俺はもう知っている。
「……待ってるって言っただろ」
吉澤の手が離れていく。別れを惜しむように指を互いに絡めては、次第に解けていった。
誰かを棲みつかせることは、あまりに怖かった。そばから離れていくこの瞬間は、それ以上に怖くてたまらないのに、怖さの奥でどうしようもなく温かなものが生まれていくのはどうしてだろうか。
おまえだけが俺に教えてくれる恐怖に飲み込まれてしまわないよう、人知れず笑みを形作った。
遠ざかっていく背中を、俺は黙って見送った。やがて改札の向こう側へと消えても、しばらくその場から離れることができなかった。
ポケットの中、冷え切った拳だけが取り残される。
いつまでも俺は、おまえを待っている。
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