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第29話

「あのねえ、拓海(たくみ)。帰ってくるならもっと早く言いなさい。こっちだっていろいろ準備があるし、今はもう父さんと二人分の食材しか常備してないんだから。ねえ、ちょっと聞いてる? もう、誰に似たの。ほらお父さーん、買い出しにいくから車出して!」  母の小言から始まった、年末年始の帰省だった。  ゼネコンもサブコンであるTSEも、この時期は一様に現場が動かなくなる。  稼働日を考慮して工程を組むのが俺たち責任者の仕事だが、状況次第では年末ぎりぎりまで現場に詰めていることも珍しくなく、年末年始をわざわざ実家で過ごす選択肢なんてここ数年存在しなかった。  しかしNプロはあまりに順調だった。皆が皆、真剣に作業に取り組んでいるのもあるが、もともとNプロは余裕のある工期を確保できた現場だ。おかげで現場作業員たちの心のゆとりにつながり、大きなトラブルも見事に回避できている。  仕事以外のことも、たまには気を回してみたら。そんなふうにあいつに言われてるような気がして、母に「今年は帰る」と送ったのが、年明けから数えてほんの数日前のことだった。 「あ。拓海、まじで帰ってきてんじゃん」  母さんの思いこみじゃなかったんだ。  晴れた空へと突き抜けていくように笑うのは、二つ上の姉だ。 「ほら、あの人さ。たまにやってもないことを、やったことにして話すし?」  元旦の正午を回ったころに、姉は実家に顔を出した。俺と同じく県外で一人暮らしをしている社会人の姉だが、正月以外にも定期的にこっちには顔を出しているらしい。 「べつに家で過ごしててもいいんだよ。でもこっちに帰ってくると、母さんがご飯用意してくれるし、それが楽。とにかく、めちゃくちゃ楽」  昔から姉はパワフルな人だった。本気になれば企業することだって、ひとりで生きていくことだって、なんの不安要素もなく成し遂げてしまう勢いがある。実際、都内の外資企業にて、寝る間も惜しんで営業活動に勤しんでいると母から聞いていた。  これほど精力にあふれた人でありながらも、決してひとりでいることを好まない。自炊を嫌がっては母を頼ったり、同棲中の彼氏に家事の多くを委ねていたりと、上手な甘え方を身につけた人だった。 「ってか、母さんたちは?」  自室で着替えを終えて、姉が再びリビングへと降りてくる。ちなみに俺の部屋はとっくの昔に、父親が今も趣味で続けている機材置き場に様変わりしていた。頻繁に帰ってくる姉への扱いとは雲泥の差だ。 「姉さんが帰ってくるから、四人分の買い出しに」 「あ、そうなの? もうおせちないんだ?」 「夫婦二人じゃ食べきれないって、今年から買うのをやめたらしい」 「そうかあ、そうだよね。父さんも母さんも歳とったもんね」  珍しく感傷的な言葉を口にしたかと思いきや、次の瞬間、姉は冷蔵庫を覗きこんで声を張り上げた。 「お酒ないじゃん!」  そして、あとに続く言葉はいつだってこうだ。 「じゃ、荷物持ちよろしく。拓海」  正月早々から開いているドラッグストアは、思った以上に人で賑わっていた。  孫たちに揉まれながら歩く老夫婦、一人分ではないだろう菓子類をかごに入れていく壮年の女性や、たばこだけを買いにきたらしい男性まで。この狭い空間にあらゆる人間模様が凝縮され、移ろいでいる。 「なあ。これ、数えてるのか?」 「数えてなーい。欲しいだけ買えばよくない? そういうのいちいち気にしないために、私は死ぬほど働いてんの。てか、余ったらあんたが帰るときに持って帰りなよ」  誰かにおすそ分けしてくれてもいいし。冷凍コーナーを見ながら何気なく姉が言う。  カートに乗せた買い物かごは、もうすぐ埋まりそうだった。酒に始まり、つまみや日用品、多分姉が実家用として使うんだろう化粧品たちが次々に詰めこまれていく。意外にも洗剤やアルミホイルといった、おそらく両親のための消耗品も姉は気軽に手に取った。  たとえばこれが逆の立場でも。両親は姉に、今目の前で繰り広げられてることを写し鏡のように施す気がした。  だって拓海は妙にこだわるじゃない。  いつだったかそう母に言われてから、母は俺のものを易々とは買わなくなった。使うものにこだわりがあるのは事実だったし、そういうものか、と当たり前のように当時の俺は飲みこんでしまった。  それからは、母が持つレジかごへ自分のものを入れる際には、必ず了承を得るようになったことを強く覚えている。  姉とともに、ようやくレジを済ませる。これで家に戻れる、と鉛みたいに重いエコバッグを持って外に出ると、たちまち「あ!」と姉が悲鳴にも似た声をあげた。 「買い忘れた!」  なにを。問う前に、姉が踵を返す。姉の都合で振り回されるのは今に始まったことじゃない。  寒空の下、荷物のせいで手がじんじんと痺れてくる。  こうして待っている間にも買い物客が出たり入ったりを繰り返す。新年というおめでたい日だからだろうか。行き交う客の表情は、皆どこか憑き物が落ちたように明るく見えた。  俺とはまるで正反対だ。  足の底がじっとりとするような居心地の悪さを感じ、スマホを取り出した。指先はいつしか、吉澤とのトーク画面を開いていた。  最新のやりとりがつらつらと一面に表示される。  ――大丈夫か。  ――だいじょうぶ。  ――無理するな。  ――わかってるってば。  わかってないだろ、と続けて打ちかけたが、それはすぐに消したんだったか。  わかってない、なんて。思わず、自嘲する。  顔が見えないのを理由に、あいつの生きかたを頭の中で勝手に作り上げて否定までして、エゴの押しつけ以外の何者でもなかった。  年末を迎えることなく東京を発った吉澤とは、こんなふうに細々とした交流が続いている。  メッセージを送れば、返事は来た。簡素で温度のない、吉澤らしいそれで。  正式な勤務日は年明けからのはずだったが、環境に慣れるため、吉澤は年末から支店に少しずつ顔を出していたらしい。  一連のやりとりは、そのときのものだ。昼過ぎに「やば、きんちょうしてる」なんて漢字に変換する余裕もないままに、メッセージが送られてきた。ちょうど昼休憩だった俺は、仮説事務所の中の片隅で、職人たちから背を向けるように返事を打ったのだった。  そのときから数えて五日ほど経過しているだろうか。  あけましておめでとう。そんなよくある新年のあいさつでさえ、俺は送らなかった。今更こんなあいさつを送っても、と気丈に振る舞うあまり、つい制御してしまう。  吉澤と毎日のように顔を突き合わせていたころは、もっと遠慮のないやりとりができていたはずだ。忙しさにかまけて大した会話をしなくても、胸の奥で乾いたスポンジを湿らせるぐらいはできた。  しかし物理的な距離がある今、添えるはずだった言葉は体の底へ沈殿していくばかりだ。  顔が見えないからこそ、じれったくて、もどかしい。 「拓海、お待たせ」  やっとの思いで、姉が店から戻ってくる。 「待った?」  素直に、待った、と答えるとなぜか姉に笑われた。待ってない、ぐらい言えないとモテないよ、拓海。 「なにを買ってきたんだ」 「これこれ、ほら!」 「……アイス、だな」 「そう、ソーダアイス」 「冬だぞ」 「冬でも食べたくなるでしょうが」  わざわざこのためだけに? 疑問符を浮かべつつ脱力する俺を前に、姉は言葉を繋いでいく。 「拓海といえば、これだったじゃん。覚えてないの?」 「なんの話だ」 「まだあんたがちっちゃいとき、公園で遊び出すと、帰りたくない、って毎回駄々こねるからさ。アイス買ってあげるから帰ろ、ってこれを餌にして釣ってたの」  しかもこのアイスじゃなきゃ嫌だ、って怒るから本当に姉泣かせだったよ、拓海は。俺にアイスを押しつけるだけ押しつけて、姉は自分の分のアイスを咥えて歩き出す。  俺はもうこのアイスじゃなくても平気なのに。  苦笑しながら、反応のないスマホをポケットにしまう。姉の後ろを歩きながら、青空を閉じ込めたようなソーダ色にそっと歯を立てた。 *  久しぶりに家族四人で囲んだ、その日の夜ご飯はカニ鍋だった。  タラバガニの太い脚が、土鍋から豪勢にはみ出している。カニが赤く茹で上がる。せっせとカニの甲羅にハサミで切れ目をいれては、俺たちの皿に黙って乗せていくのは父の役目だった。 「ねー、めちゃくちゃ豪華じゃん、今日。拓海がいるから?」  カニ味噌をすくいながら、姉が母にそう問いかける。 「そうそう。この子、たまにしか帰ってこないから。それにね、拓海、お鍋好きだったわよね? そうよね?」  だってさ拓海。まくし立てるように話す母が面白くて仕方がないのか、姉が肩を揺らしている。母と姉がそろえば俺が口を挟む隙なんて生まれやしない。 「そういえば、あの子も好きじゃなかったか」  珍しく、父が二人の会話に割って入った。  あの子って誰。姉の問いに、父がすぐさま「吉澤くん」と返す。体に妙な緊張が走った。 「ああ、吉澤くん! 拓海が唯一ここに連れてきた地元の友達だ! レア中のレア!」 「いや、でもあれは雨に濡れて仕方なくだっただろ」 「なに照れてるの。吉澤くんを家に連れてきたのは本当のことでしょ?」  姉への反論だったはずなのに、母から一刀両断されて終わった。短く息を吐く。殻にこびりついたカニの身を乱暴にほぐした。 「母さん、吉澤くんのこと気に入ってたよね」  姉の問いかけに、母がうれしそうに手を叩く。 「だって昔、あの子がこの家に来たとき、わたしが作ったお鍋を、美味しいですってニコニコしながら褒めてくれたのよ。それ以来、私の推し」 「やば、推してた!」 「ねえ、拓海。吉澤くん、いつまた連れて来てくれるの。今もまだおなじ会社で働いてるんでしょ?」  返事をあいまいに濁していると、不意にテーブルの端に置いてあったスマホが震えた。  間を置かずに画面を覗く。企業広告だ。  体の緊張を解いて箸を持ち直すと、すぐさま母に「ご飯中にスマホを見るなんて」とたしなめられた。 *  「……拓海さあ。もしかして恋人でもできた?」  その日の夜。晩酌に付き合えと姉の指示に従い、ビール片手に冷凍の枝豆をつまんでいたときだった。  年々就寝時間が早くなる両親は、とっくに寝室で寝入っている。  テレビもついていないリビングはあまりに静謐な空気をまとっていて、俺の心臓ばかりがけたたましく響く。  ちらりと姉を見る。自分の名推理に酔いしれるように瞳を輝かせて、居心地の悪さを通り越し、背筋に悪寒が走るほどだった。 「沈黙は正解、って受け取るけど?」  キラキラとしたネイルを施した姉の指が、俺を指す。まるで虫ピンみたいだ。姉の前から逃げ出すタイミングを失って、この場にただ呆然と佇むことしかできなかった。せめてもの抵抗で、奥歯を噛みしめる。 「昔からわかりやすいよ、拓海は。こだわりが強い分、気に入ったものは自分の近くに置きたがる」 「……小さいころに持ってたブランケットの話か?」 「ああ、それもあったねー! あれがないと眠れなかったんだよね、拓海」  そう思うと、体は大きくなっても、中身はあんま変わんなってないよね。  優秀な姉の前では、嘘をつくことさえ一苦労だ。缶の底に残っていたビールを一気に飲み干し、唇の隙間を縫うように声を出す。 「……恋人、じゃない」 「じゃあなに、好きな人がいるってこと?」 「なあ。どうしてわかったんだ?」  手の中の空き缶がわずかに音を立てて凹んだ。姉が勝利の笑みを浮かべている。 「質問に質問で返すのは反則ですけど?」  まあいいか。姉がチューハイを口に含んだ。それから「多分母さんたちは気づいてないよ」と俺の懸念を潰していく。 「スマホ気にしすぎでしょ。今日一日、ずーっと見てるじゃん。無意識だったとは言わせないからね」  連絡ないと不安になるぐらい好きなんだ。そう告げられ、喉元がきゅっと締まる。体がやけに火照るのは、アルコールのせいだと思いたい。 「拓海が好きになる子ってどんな子なんだろ。想像できん」 「……いいやつだよ、すごく」  吉澤が誰にでも好かれるのは、そうあるように懸命に生きているからだ。人の真ん中で笑っていられるのは、それを選ぶことしかできなかったからだ。そんな不器用な生き方しかできないあいつを、いいやつ、以外の言葉で結んでしまうほうがおかしいんじゃないのか。  もしかして俺のほうが、とっくにおかしくなっていたのか。 「たばこ吸ってくる」  玄関に向かう俺の背後で、あー逃げたー、と酔っ払いのそれで姉が笑っている。  ドアを閉めたそのとき、デニムのポケットに入れてあったスマホが小さく震えた。  吉澤からのメッセージだ。  肩の力が抜けていく。吐き出したやわらかな息は、たちまち白い水の粒へと変わった。  ――今日めちゃくちゃ寒い。  そんなことわかってる。おまえがいない街は、ボタンを掛け違えたように、暗くて寒い。  そっけない文面に呆れすら滲んでいくのに、俺のかじかむ指先はしばらく画面の上から動けなかった。 *  翌朝の出立は、家族総出の見送りだった。念を押すように「見送りはいいから」と言っても、恒例行事のようにぞろぞろと間口の狭い玄関に皆が集まってくる。 「そういえば姉さんはいつまでいるんだ?」 問いかけると、姉は自分の髪を手櫛でときながら答える。 「もう一日ぐらいのんびりするつもりだけど」 「さみしがるんじゃないのか。彼氏」 「昨日からずっとさみしがってるよ。だからあと一日だけね」  昨日の深酒のせいだろう、不機嫌そうに寄った姉の眉間がほんの少しゆるやかになった。 「拓海。これ、持って帰って。私たちだけじゃ食べきれないから」  スニーカーの紐を締め直し、立ち上がったところで紙袋が母の手から続々と渡された。中身に目を通す。親戚からもらったお歳暮、姉が買いこんだ酒の残り、数日分は過ごせそうな食材。  気持ちはありがたいが、量が多い。吉澤がいたならおすそ分けも気安くできただろうに。家で一緒に酒を消費してもよかった。  しかしそれも、今はできない。  実家の最寄りの駅まで、父が車を出してくれるという。 「お父さん、絶対事故起こさないでよ? 命より大切なものなんてないんだから」  母の小言に、父はひたすら黙ってうなずいている。その光景を横目で捉えながら、トランクに荷物を乗せていく。  いざ車に乗りこもうとした直前「拓海」と姉に呼び止められた。  どうにも物言いたげな様子で俺を見てくる。居心地の悪さに耐えかね、俺のほうから「なに」と問いかけた。 「素直さって大事だよなあ、ってあんた見ながら今更思っただけ」 「それ、もしかして惚気か?」 「そう。彼氏自慢ね。今度は家族として会わせてあげるから」  会話を切るように、姉が手を振った。姉の薬指の根本で、指輪がちかりと光る。 「また帰って来なよ、拓海。今度は吉澤くんもつれてさ」  姉の言葉を合図に、エンジンがかかる。車が走り出す。新年という産声があがったばかりの街並みは、太陽の光を浴びて燦然と輝き、車内の影を色濃くするばかりだった。

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