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第30話
新年を迎えた一月中旬。Nプロは追い込み作業の真っ只中だった。
十二月に初の試運転を終え、エレベーターの稼働が無事確認できた。その後に待ち受けるのは、ゼネコンへの引き渡しに向けて書類の整理や検査で、気力ばかり削られる工程が続いていくことになる。
「なあ、田所。かごの非常灯の光、ちょっと弱くねえか?」
朝から始まった自主検査のため、応援を頼んだ佐々木さんが開口一番で鋭い指摘をした。
たかが目視、といってもいくつもの現場を渡り歩いてきた佐々木さんの目視はあなどれない。目に見えるデータも大事だが、佐々木さんの体に蓄積された「生きた経験」というやつも、俺はアテにしてしまう。
「俺も見たいんで、もう一度照明落としてもらえますか?」
「りょーかい」
佐々木さんがかごの中へと戻っていく。操作盤をいじり、照明がふっとかき消えた。非常灯の淡い光だけが灯る。
「……確かに、暗すぎるな」
「ほら田所、すぐ電装に連絡。正月ボケしてる場合じゃねえぞ。クリアしねえと次に進めねえんだから」
佐々木さんに活を入れられる形で、無線機を取り出す。上層階の機械室にいる電装課の人間へ報告を終えると、視界の端で佐々木さんが「寒い寒い」と滑り止め付きのグローブを握ぎりしめ、足踏みをしていた。
窓の取りつけ作業は、各階層で順次行われているようだったが、それでも空調のない真冬の現場は身に堪える。特にこうした大型の物件になれば、消防法との兼ね合いや、可燃性の溶接剤を使用することもあって、火気厳禁が当然のルールだった。ちょっとした簡易式の暖房器具だって持ちこめやしない。
「そういや昨日、高橋からチャット来てたな」
心底冷えるせいか、鼻をすすりながら無線機を片づけると、佐々木さんがそう切り出してきた。
「昇降機検査、三月に仮押さえしてくれたみたいですね。自主検査次第ですけど、このまま希望通りでいきたいです」
「そうだな。ここも、いよいよか」
避けられない重圧に、思わず身震いする。
昇降機検査は、エレベーター据え付けにおける最後の難関のひとつだ。外部の検査機関から派遣されてきた検査員たちによって、チェック項目に従い、隅々まで安全性を精査される。万が一、ここで不適合の判断が下れば、全体の完了検査の申請ができなくなる。
昇降機検査と、完了検査。この二つの検査を無事通過することで、俺たちは晴れてNプロを大団円で終えられる。
今日俺たちが行っているのは、昇降機検査の予約日を確定させるために必ず行う、社内用のチェック。いわゆる自主検査というやつだった。
「五月には竣工式なんだろ?」
「まだ先の話じゃないですか」
「そんなことない。仕事にかまけてたら一瞬だ。いい季節だよな、五月。暖かいし、花粉もちょっと落ち着いてくるし」
「ああ、佐々木さんって花粉症なんですよね」
「どんなに薬で押さえても、長時間外にいたらグズグズになる。目も鼻も」
体からパーツを引きちぎってやりたい。身振り手振りで訴える佐々木さんに苦笑していると、電装課から無線が入った。
「佐々木さん。調整終わったそうです。非常灯の点灯お願いします」
「あいよ」
しばらくして、再び非常灯が灯った。俺が判断するよりも先にかごの中から「いいじゃん」と佐々木さんの喜びに満ちた声が聞こえてくる。笑うほかなかった。
「お疲れっすー」
営業課の高橋が現場に顔を出したのは、その日の自主検査を終えて、皆が帰宅の準備を始めたころだった。すれ違う職人たちに気さくに声をかけながら、俺たちのほうへと向かってくる。
どれだけ外回りをして動き回っていても、着こなしや表情からは一切の隙を見せないのが高橋らしい。
「遅かったな。もっと早く来るものだと思ってた」
指摘すると、この一件前のアポが長引いちゃってさ、と大して困ったふうでもなく高橋が言う。
「田所ちゃん、それでどう? 今日の自主検査は順調だった?」
「今のところ仮押さえの日をずらすような不具合は見つかってない」
「よかった。安心した。俺が関わる現場で遅れが出るのはやっぱり嫌だし」
どこか自己中心的な物言いだが、それを良しとできるのは高橋の手腕が堅実なものだからだ。
吉澤の不在をものにもせず、現場は安定のひとことだった。だってここまでくると営業課の出る幕なんてほぼないでしょ、なんて引き継いだばかりのころに高橋はそう言っていたが、それでも現場が上げる報告書にはすぐ目を通し、介入が必要そうなタイミングになれば高橋のほうから声がかかる。
官庁検査の申請についても、俺より先に高橋のほうが動いていた。現場に顔出すことは少ないが、営業課として必要な時機を読んでいる。
「あ、吉澤くんにも報告しておこうかな。順調に進んでるよ、って」
高橋の話は、風がただ流れるように続いていく。
「そうだ。田所ちゃん、聞いて。あいつさ、大阪行ってからも、ずっとここの現場のこと心配してんの。連絡取り合うたびに、順調か、っていちいち聞いてくるんだよ」
そんなに気になるなら、見に来ちゃえばいいのにね。
ぎこちなく唇を持ち上げてやり過ごす俺をどう思ったのか、高橋はわずかに眉を下げた。
「俺の代わりに、あいつに報告してくれてもいいよ? 現場責任者は田所ちゃんなんだし」
発言自体に、大した意図はなかったのかもしれない。しかし今日ばかりは、錆びついた鉄板のような心に引っかって息が詰まる。
俺から吉澤へ業務上の連絡を取る必要はもうほとんどなく、引き継ぎ相手の高橋ならまだしも、俺に相談するぐらいならあちらの人間にするのが妥当なラインだ。
それでも、Nプロの様子を知りたいのなら俺に聞け、とそう思ってしまう自分が嫌になる。
「……俺はいい」
高橋から言ってくれ。
渦巻く感情を押さえつけながら、なんとか音にした。溜まった唾液を飲む。喉がぴりっと痛んだ。
「っていうか田所ちゃん。佐々木さんは? 今日ここにいるでしょ? 姿が見えないんだけど」
「いや、すぐそこに……」
「お、発見! あんなとこに」
先ほどまで俺のすぐ隣にいたはずの佐々木さんは、今では随分と遠く離れたフロアの壁に寄りかかっていた。どうにも難しそうな顔をして、こちらの様子をうかがっている。
「佐々木さーん!」
高橋が叫んでも、佐々木さんの表情や体はぴくりとも動かない。
仕方なく二人そろって歩み寄れば「高橋は絶対近づくな」と切れ味よく佐々木さんが言い放った。
それでもお構いなしに、高橋は佐々木さんとの距離をがんがんと詰めていく。
「寄るなよ、俺は高橋にまだ怒ってるんだ」
「あれ? なんでですか?」
のらりくらりとした高橋の物言いは、なおさら佐々木さんの怒りを買ったらしい。ヘルメットの下の顔がわずかに赤くなったのを俺は見逃さなかった。
「この前二人で飲んだとき、俺のこと置いて先に帰っただろ!」
佐々木さんの切実な叫びが、波状になってフロアに広がっていく。それでもなお余裕そうに笑うのが、高橋という人間だ。
「俺たち同期と飲んでいても、彼女のためにこいつは先に帰りますよ」
フォローのつもりで言ったそれは、そうじゃない、と即座に佐々木さんに否定された。
「酔っ払った先輩を放置したんだ、こいつは。その辺の路地に放置するやつがどこにいるんだよ」
「いやいや、違うから。俺は、いっしょに帰ろうって言いましたよ。でも隣の席のグループと意気投合しちゃって、帰らない、って泥酔しながら駄々こねたのはあなたのほうでしょ。俺の分の飲み代はちゃんと佐々木さんのポケットに入れておいたし。放置されちゃったのは佐々木さんの責任だし」
なにか問題でも?
正論を暴論のように振りかざす高橋は、強者の貫禄すらあった。佐々木さんの味方をしたいのは山々だが、さすがにこれは高橋に武がある。
佐々木さんはとにかく長いため息を、床に置いた工具箱の上に降らす。おまえ、もう、やだ。
「あー吉澤帰ってこねえかなあー」
あまりに眩しすぎる響きだった。腹に無理に力を入れることでしか、俺はこの場に踏み留まれない。
佐々木さんの嘆きに被さるのは、高橋の乾いた笑い声だけだった。
*
その日。佐々木さんたちと別れて直帰すると、玄関を跨いだ途端、バケツ一杯の泥を浴びたように体が重くなった。
立ち止まれば動けなくなる。そんな仄暗い予感が付きまとい、もがくように手足を動かし続ける。珍しくシャワーのみで体をきれいにし、部屋着に着替えてから体温計を脇にはさんだ。
微熱だった。どおりで今日一日なにかを飲みこむたびに、喉が痛むはずだ。
大したことない。自分にきつく言い聞かせる。水分と睡眠をたっぷりとれば、明日にはきっとマシになってる。
そう思うのに、腰を落としてしまったソファーの上からもう一歩も動けない。
ああ、くそ。思い通りにならない体が急に煩わしくなってくる。
現状に不満を抱きながらも飲みこむばかりなのは、この使えない体のせいなんじゃないのか。
あまりに拗らせた妄想が浮かんでは消え、鼻であざ笑いながらとうとう体を横たえた。
スタンドライトだけを灯した部屋で、ぼんやりと天井を見る。どうにも呼吸が浅い。冷蔵庫の稼働音にも似た耳鳴りがする。
生きている限り、体は勝手に静寂の中から音を拾うらしい。そんなことにイライラとした。
苛立ちが募っていく。なんでもないことの全てが敵のように思えた。
吉澤からの通知も。俺には向けられない細やかさも。他人の口から聞く吉澤の名前も。
吉澤がいじって歪になったジオラマの中の街路樹も。キャビネットにある吉澤がくれたマグカップも、全部。
俺の人生に入りこんでおきながら、俺の知らないところで自分の人生を歩む吉澤がもう許せそうにない。
待ってるなんて格好つけておいて、この有り様か。
「姉さんの、言うとおりだ……」
こだわりが強い分、気に入ったものは自分の近くに置きたがる。
どうしようもなく、今すぐ欲しくなった。
床に放置していたスマホを、悪寒に震える手で手繰り寄せた。履歴の中から「吉澤」の文字を探し出し、通話ボタンを押した。それだけの行為にいくら時間を費やしたのか、冷静な判断すらもうできない。
つながりを示す呼び出し音は、たった一コール目で役目を終えた。
「……田所?」
鋭く息を吞む。すぐに応えたかったのに、喉は空気ばかりを震わせた。
疑いようもなく、スマホから聞こえてくるのは吉澤の声だった。
「もしもし? 田所、どうした?」
スピーカー越しに、高低差のあるさまざまな環境音が流れてくる。やけに甲高く張り上げた人の声、食器のようなものがぶつかりあう音、その隙間を埋めるように流れるのは世間を賑わすアイドルソングだ。
「おーい、吉澤くん。なにやっとんの。皆、君のこと待っとるで」
知らない男の声だった。
「あ、すみません。終わったらすぐに戻りますから」
それに応対するのは、平坦な中にもやわらかさが滲む吉澤の声色だ。ふと外向きのあの笑顔が、頭の中で声と重なった瞬間、自分の間の悪さよりも思慮のなさが嫌になった。
瞬間的に沸騰した頭が、今度はそれ以上の速度で急激に冷めていく。
早く切ってやらないと。
やがて男の声が遠ざかる。吉澤は仕切り直すように、一度小さな空咳をした。
「ごめん、田所。なあ、聞こえてる?」
「……ああ、聞こえてる」
「よかった。でも、ごめん。もう少し静かなとこに移動するから待って。今、支店の皆が歓迎会開いてくれててさ」
「いや、いい」
忙しそうだから、いい。
心から切り離すように、言葉を投げる。吉澤が「え」と短く息を吐くのがわかった。
「邪魔して悪かった。通話、切るぞ」
「待って、切るなよ。もう少しだけでいいから」
悲壮感すら漂う物言いに、ひるんでしまったのがそもそもいけない。
「田所の声、ひさしぶりに聞けた」
スマホと触れ合う耳が、じんわりと熱を帯びる。
もっともっとと欲しくなるのに、次の声は流れてこない。
強引にでも終わらせるべきだった。そう後悔したのは、俺たちの間に長い沈黙が訪れた後のことだった。
繋ぎ止めるぐらいなら、無音を言葉に変えてくれ。雪の粒ほどの言葉でいい。いつか記憶に残らなくても、降り積もった証さえあればそれで。
いつしかスピーカー越しの音は、先ほどよりも静寂を伴っていた。店の外に出たのか、時折、車のエンジン音が幾重にもなって聞こえてくる。
「仕事、頑張ってるんだな」
刻々と過ぎる時間に焦り、間を埋めるためだけに問いかける。やがて吉澤は充分な空白を生み出してから「うん」と一際落ち着いた調子で言った。
「皆、いい人たちだよ。毎日社内で関西弁が行き交ってて、でもまだうまく環境に慣れなくて正直、仕事キツイなって思うこともある……でも多分、それもいつか慣れる」
「……そうか」
「あ、Nプロの報告書、社内ポータルから拾っていつも目を通してるよ。置いてきた案件だから、どうしても気になってさ。ああ、田所も頑張ってるんだなあ、って」
おまえが頑張ってるなら、俺も頑張れるから。
吉澤の言葉に、鼻の奥がツンと痛みを帯びた。
前を向いて歩み続ける吉澤の強さが、まぶしくてたまらなかった。あまりにまぶしすぎて、ソファーの住人と化した自分の惨状に目も当てられなくなる。
本当は、さみしい、と吉澤に言わせたかった。しかしそれを願うこと自体、遠く離れた場所で仕事に打ちこむ吉澤への冒涜なんじゃないのか。
「そろそろ本当に切るぞ。皆が待ってるだろ」
「でも……」
「どうした」
俺たちの間を、水の底のような重たい静けさがたゆたう。そして誰にも気づかれることなく浮かび上がる、祈りにも似た期待を押し殺したくて唇を噛んだ。かさついたそこは、少しだけ汗の味がする。
「……なんでも、ない」
聞こえてきた吉澤の返答に、またな、と重ねたそれは、せめてやさしい響きであってほしかった。
通話を終える。
スマホの画面が暗闇を取り戻す。俺はまたひとり、不具合を訴える体のさまざまな雑音と向き合う羽目になる。寝返りを打つと、体のどこかが古びた木の床を踏みしめたときのようにみしみしと軋んだ。
急激に眠気に襲われる。熱が上がったのかもしれない。なす術なく目を閉じると、あまりの情けなさに苦い笑いが込み上げた。
勝手に通話をしておいて、吉澤の分だけ空洞になった胸の奥が埋まるどころか浮き彫りになっただけだった。
それでもあいつが俺と同じ空を見て頑張っているのなら。俺はこの空虚さを抱えて、生きていくしか道はない。
風邪が見せる悪夢の中に、吉澤は最後まで出てこなかった。
翌朝になると、体の怠さは嘘のように引いていた。
そのままソファーで眠ってしまったせいで体が変に凝り固まっていることを除けば、今日の仕事に支障は出なさそうだ。
アラームを止めた後、できる限り見ないようにしていたスマホを家を出る寸前でチェックする。
新着のメッセージはない。
通話の履歴を辿る。一番上に載った「吉澤」の文字を目で追いながら、イヤホンを耳に装着する。
久しぶりに、ラジオを聞いた。
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