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第31話
毎年冬が到来すると、永遠に冬の終わりが来ないような気がしてしまう。しかしそれは俺の気のせいでしかなく、実際はひとときだけ春が来る。
三月に入り、Nプロの現場に通う日がゆるやかに減っている。間借りしていた仮設事務所から荷物や書類を引き上げ、フロアに散らばっていた工具も今では見事に姿を消した。
下請けの職人たちはもうとっくに新たな現場で作業に勤しみ、Nプロと関わるのはもう俺と高橋ぐらいなものだった。
しかしそれも、完了検査の結果が出るまでの話だ。
昇降機検査を無事に終え、その後に待ち受けていた完了検査は、今からちょうど一週間ほど前に行われた。早く結果を聞いて楽になりたいが、こればかりはゼネコンからの連絡を気長に待つ以外に方法はなかった。
社内チャットの返信を終えて、俺はゆっくりとキーボードから手を離し、今度はマウスを握った。
中断していた書類整理を再開する。完了報告書、成績書、工程中の写真記録に至るまで。TSEのエレベーターであることを示す書類を、パソコンの中から探し出す。
検査結果の知らせを受けたら、今回据え付けたエレベーターにまつわる必要書類をゼネコンに提出しなければならない。迅速に動けるように、結果がわかる前からこうしてまとめておくのはどこのサブコンもおなじことだろう。
せっかく再開できたと思えば、今度は社用のスマホが鳴った。
相手は設計課の野木さんで、急ぎ作図をしたから打ち合わせがしたい、とのことだった。
Nプロの燃え残りのような残務をこなしていく俺のところにも、次の現場の足音がそろそろと迫ってきている。
つい先日、その現場の図面寸法と実寸にズレが見つかった。そのズレを直すために、野木さんが特急で、実寸に合わせた新たな図面を書き起こしてくれたのだった。
ズレを発見したのが資材の搬入前でよかったと思う。これなら社内で頭を下げるだけでいい。
「それにしても、まさか田所さんが千葉の本社工場に再発注の予約を強引に押しこむとは思いませんでした。年度末だからどこもフル稼働中で手一杯でしょう?」
「新人研修のときに、よくしてくださった人がいるんです。あのときはまだ部長でしたけど、今では副所長ですから」
今度飲みにいく約束をして許してもらいました。そうこぼすと、珍しく野木さんは笑ったようだった。
ミーティングの時間を調整をしてから、野木さんとの通話を切る。
椅子に深く座り直し、肩の力を抜く。
Nプロより小さな現場であることは否めない。だがどんな規模であっても、現場責任者としてあてがわれた俺のするべきことは決まってる。
またこの世界にひとつ、TSEのエレベーターを生み出す。それだけのことだ。
気持ちを切り替え、写真フォルダを再び漁っていく。
やがてたどり着いたのは、現場の仮設事務所で使用していた、ホワイトボードの写真記録だった。
一週間ごとを写したそれには、日毎の作業指示がホワイトボード用のマジックで書き込まれている。
当然ながら、ほとんどは俺の字だった。だが時々流れるように整った、見知った字が映りこむ。
――田所さんへ。搬入日、再調整済。台風、すごかったですね。
――ガイドレール設置完了確認。皆さん、お疲れさまでした。
――整理せいとん! 工具は片づけてから帰りましょう!
――また見に来ます。吉澤。
たちまちそれは引き金となって、重く閉じていた記憶の蓋が開いていく。
忘れようと思ったことはない。吉澤とのメッセージのやり取りだって、今もささやかに続いている。それでもここ数ヶ月は、多くを思い出さないよう意識しなければ仕事に没頭できなかった。
荒れた息を吐き出して、意識が呑まれる前にフォルダを閉じた。気を取り直し、ほかの書類に目を通していく。
そのときフロアのセキュリティードアが開いた。俺がいることを確認した途端、嬉々とした様子を隠しもせずに、高橋が俺に近づいてくる。
俺のデスクに到着するころ、高橋は息を切らして笑った。
「田所ちゃん、済証出たって! 完了検査、合格だ!」
*
本当にこれで終わり、か。
高橋から知らせを聞いた直後はやけに凪いでいた思考も、時間を追うごとに情報が記憶とかたく結びつきあって、深い喪失感が俺にもたらした。
いつものことだ。長い工期を終えるといつも胸に風穴が開く。
今回もひどく落ち込むものだと思っていたが、意外にも今の心中は春の陽気をまとったように穏やかで、暖かい。
息をするようにNプロを意識し続けた半年だった。どこか空っぽだった俺にいつの間にかやさしく芽吹いているのは、大きな案件を乗り越えたことによる、揺るぎのない自信だ。
業務が一区切りしたタイミングでフロアを抜け出し、ラウンジへと降りた。
明かり取り用の大きなガラス窓から、無人のラウンジ全体に夕陽が滲んでいる。冷たい缶コーヒーを片手にソファーへ腰かけた。
何気なく会社用のスマホを取り出し、フォルダを開く。
そこには俺が記録用として撮り溜めた現場の写真であふれていた。搬入資材の置き場、墨出しの位置、巻き上げ機の状態、たまに映りこむ職人たちは皆、ぎこちなく笑っている。
スクロールを続けた親指はやがて、ひとつの動画の上で止まった。
Nプロの一号機が、初めて動いた日。試運転中の動画だった。
ゆっくりとカメラの前でドアが閉じる。まるで吸い寄せられるように、かごは異常を示すことなく上層階へのぼっていく。
カメラのフレームがかすかに揺れて続けているのは、俺の手が熱く震えていたせいだ。
目頭を押さえる。咄嗟の出来事で、うまく取り繕えない。
喉元までこみ上げてくる思いは、まるで濁流みたいだ。押し戻したくても、内側の柔なところが翻弄されるようにただただかき乱されていく。
あいつに見せてやりたい、と思うなんて。
今更すぎるかもしれない。けど気まぐれでいいんだ、きっと。
その日の気分で味のさじ加減が変わっていくように。それぐらいの気軽さを理由にしないと、一生かけても俺は動けないままだ。
赴くままに、動画を吉澤へと送信した。
出向の準備に追われ、誰よりもNプロに打ちこんできたはずの吉澤は試運転の日に立ち会えなかった。初めて見るこの動画を、あいつはどんな思いで見るだろう。帰宅したら、今日は俺のほうから連絡を入れてみようか。
そろそろ仕事へ戻るか、と立ち上がりかけたそのときだった。
ポケットの中のスマホが震える。しかもプライベート用のスマホのほうだ。
映し出されているのは「吉澤」という二文字だった。
「……はい」
応答すると、スマホの向こうで息を飲む気配があった。外回り中なんだろうか。以前とはまた違う、街中の喧騒を思わせる音が声の代わりに届けられる。
ソファーに再び身を預けると、ようやくそのタイミングで吉澤は口を開いた。
「動画、見た。あれ、Nプロの試運転のときの?」
「あのとき、おまえは忙しくて現場に来られなかったから」
見せてやろうと思って。そう言うと、吐息混じりの笑い声が鼓膜をいたずらに揺らした。ちゃんと動いたんだな、エレベーター。ああ、動いた。
「なあ、吉澤」
「ん?」
「今日、通達があったんだ。済証、出たって」
終わったんだ。俺たちの仕事が、またひとつ。
「そっか……」
吉澤が、呟くように言う。終わったんだ、と。俺の台詞を吉澤に丁寧になぞられて、体がどうしようもなく熱を高めていく。
「……すごいよ」
吉澤の紡いだ言葉が、俺の中へすとんと落ちてきた。昔と同じ響きであるにも関わらず、あるべきどころに落ちて馴染んでいく。
「とんでもないやつだよな、やっぱり。こんな大きなものを自分の手で本当に完成させちゃうんだからさ。本当に、すごいよ……」
あまりに豊かな響きが、やがて血の流れに乗って、全身へと染み渡った。
胸の奥が震える。満ち足りていくのがわかる。こんなにも世界が明るく見えるのなら、もっと早く受け止めるべきだった。
ようやく、腑に落ちた。吉澤の「すごい」の意味が今、ようやく。
ただの石も磨けば宝石に変わっていく。そして吉澤は、石を研磨する手そのものに価値を見出している。
いくら自分でケチをつけようが、結局懲りもせず現場にしがみつく俺の生き方に、かけがえのない価値を見出してくれていたんだ。
ずっと、ずっと、昔から。
「俺だけの力じゃない」
瞳を閉じる。遠く離れた場所にいるはずなのに、吉澤のまっすぐなあのなまなざしが、鮮明に脳裏に浮かび上がった。
「皆がいたからだ。吉澤が、いてくれたからだ」
息を詰まらせたように、ごめん、と吉澤が押し黙った。続けて、すんと鼻をすする音がして、俺は焦燥に駆られながら目を開く。
田所。名前を呼ばれるまで、いったいどれほどの時間を費やしたんだろう。
声の続きを、俺は律儀に待ち続けた。
「……ダメだ、俺。やっぱり、無理だった」
「吉澤?」
「おまえが頑張ってるから、甘えちゃいけない、って。おまえがそばにいなくたって、俺も頑張れるって、ずっと気を張って。メッセージもうまく送れなくって……でも俺、やっぱり、さ。会いたいんだよ」
田所に、会いたい。
言葉なんかでは補えない。距離だってスマホなんかでは縮まらない。
世界が反転してしまえばいいと思った。今すぐ夜になってしまえばいい。今すぐ子どもに戻ってしまえばいい。そうすればいつまでも一緒にいられる。
そんな無茶苦茶な願いが浮かんで結局口にできないのは、現実を心底思い知ったからだ。
俺たちは大人になった。
それでも懸命に言葉を、想いを、祈りを捧げるように少しずつ重ねていく。不器用だと笑われてもいい。
俺たちは痛みを覚えながらも、互いのペースで歩み寄ることしかできない。
「吉澤。俺も会いたい。今すぐ、会いたい」
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