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第32話

 吉澤との通話を終え、施工課内の自分のデスクに戻ってくると、パソコンモニターの片隅で社内チャットが通知を示していた。  北村課長からのメッセージに驚く。施工課直属の課長とやり取りすることは多くても、他の課長クラスから個人宛でチャットが来ることはあまりない。  多少の物珍しさと、氷の針刺でなぞられたような不安に駆られながらクリックする。  ――お疲れ様。五月の竣工式、吉澤くんも参列することになりそうです。  たったひとつの通知が、止まりかけた世界を大きく動かした気がした。 *    久しぶりに袖を通したスーツは、うまく俺に馴染んではくれなかった。 「田所ちゃん。それさ、いつ買ったやつ?」 「就活のときだ。一から仕立てたものだから、どうにも捨てにくい」  見事な五月晴れとなった今日「豊洲Nタワーマンション」の竣工式が行われる。  そのタワマンのエントランスで、ずっと会社のロッカーで眠っていたスーツであることを高橋に伝えると、信じられない、と見事に呆れられた。  非難されるのも無理はない。営業課の中でも、高橋のスーツへのこだわりようは頭ひとつ飛び抜けている。 「その無頓着さも田所ちゃんの味なんだろうけど、もったいないよ」  素材を活かさないまま生きていくなんて。高橋は軽くネクタイを整えながら苦笑した。  列を成していた受付は、いつのまにか俺たちの番になっていた。受付用の長机には、ゼネコンの社名が印字された卓上パネルと来賓リストが置かれ、複数の女性たちが対応に追われている。 「お名刺をいただけますか」  手慣れた様子で微笑む女性に向けて、丁重にジャケットから名刺を取り出す高橋の所作は、流石にスマートだ。 「東都昇降機、営業課の高橋です」 「高橋様ですね。本日はお越しくださり、ありがとうございます」 「ここ数日、予報が怪しかったですが、無事に晴れてよかったですね」 「ええ、本当に。でもご安心ください。式典はエントランスホールで行いますので、万が一予報に裏切られても大丈夫ですよ」  和やかな笑いが生まれる。その間にも別の女性から「お次の方」と呼ばれ、俺もまた多少の緊張を覚えながらも厳かに名刺を手渡した。  完成したばかりの真新しい、高級ホテルさながらのモダンなエントランスホールには、工事期間中には見る影もなかった美しい花たちで彩られている。その花たちに囲まれるように、中央には垂れ幕とステージ、来賓客たち用のパイプ椅子がずらりと並んでいた。  その奥に設けられたラウンジが控え室となっているようだ。おかわり自由のドリンクバーとちょっとした軽食が備えつけられており、集まり出した来賓客や工事関係者たちが思い思いに時間を潰している。 「始まるまであと三十分か。吉澤くんもまだ来てないし」  受付を終えたあと、スマホを見ながら高橋が言った。田所ちゃん、どうする。 「ちょっと吸ってきてもいいか」 「わかった。俺は適当にラウンジであいさつ回りしてるから」  じゃあね、と軽やかに踵を返し、高橋は顔馴染みの関係者たちに声をかけていく。隔たりなんて微塵も感じさせない。次へとつなげるための足がかりとして関係を築いていく高橋の姿に尊敬の念を抱きながら、俺はその場を静かに離れた。  案内係のスタッフに聞いたところ、簡易の喫煙所が室外に設けられているという。  慣れない堅苦しさからネクタイをゆるめつつも、教えられた仮設テントのほうへと歩いていく。  ビル群の隙間をすり抜けて、俺の頬をささやかに風がなでる。陽射しの暖かさを中和するように、それは程よく冷たくて心地がよかった。  前の担当者として今日の竣工式に参列する吉澤とは、現地集合という話になっている。明日よろしく、なんて連絡はあったものの今日に限って俺のスマホは鳴かない。  遅刻するようなやつじゃない。ただ、安心材料がほしいだけだ。  この日を待ち焦がれすぎたせいで、罪深いほどに強欲になっていく自分がいる。 「……あ」  まさか、と思った。疑いの目を向けて、まばたきを繰り返す。  しかし、幻は消えない。  驚きのあまりに漏れた声は、白いテントに覆われた喫煙所に佇む、たった一人の男に届いてしまったようだった。 「よ、田所。ひさしぶり」  煙を吐き出し、吉澤が照れくさそうに俺を見た。清潔そうな印象を与えるヘアセットも、きっちりとネクタイを締めたスーツ姿も、どこにも乱れは見当たらない。相変わらず吉澤らしい隙のなさだ。  心臓がたちまち騒々しくなる。肺が潰れたように息が苦しい。普段のおとなしさが嘘のような体の動きに、俺のほうが気後れしそうになる。  吉澤の隣になに食わぬ顔で並びながらも、わずかに震える手でたばこを探った。 「なにやってんだ、こんなところで」  冷静さで慎重に包んだそれを、吉澤の滑らかな声が受け止めた。一服してるに決まってるだろ、と拗ねたように目を細める。 「受付は済ませたんだけど、ちょっと気合い入れないと無理だな、って思ってさ」 「気合いって。ただ椅子に座って、拍手するだけだろ。竣工式なんてものは」 「……それだけなわけないだろ。おまえがいるのに」  吉澤の貫くようなまなざしが、俺に注がれた。肺に入れた煙を吐き出し、俺も見つめ返す。  その瞳は熱に浮かされたように、水の膜を張っていた。 「ははっ、やばい。なんか……格好つかない、かも」  おまえの前ぐらい、格好つけたかった。自嘲気味に吉澤が鼻を鳴らすと俺から目を逸らし、弱々しく頭を振った。  互いに煙を深く取り込む。快晴に白い濁りを存分にばら撒いて、吉澤は再び口を開いた。 「ちょっとでも気を抜いたら、情けないことまで言っちゃいそう」 「それぐらい、言ってもいいだろ」 「え」 「おまえの情けない発言を聞いてやれるのは、俺しかいないと思ってる」  違うのか。訊ねると、目の前の情けない横顔は「ずるい」と降り始めの雨のように地面へ声を落とした。 「……それ以上、俺がほしい言葉を言うなって。我慢、できなくなるから」  吉澤の声が、かすれている。 「本当は、参列するのギリギリまで迷ってた。会ったら自分がどうなるか、もう自分ですらわかんないのに」 「……吉澤」 「でも田所にこれ以上会えないのは、もっと耐えらんなかったんだよ」  聞き届けた瞬間、触れたい、と本能で思った。  獰猛な欲求だ。  どんなに苦しくても自分を律して、社会性というスーツを吉澤は纏う。清廉すぎる生き方を閉じ込めたその体に、今すぐ触れて、震える肩に噛みついて、俺の存在を刻みつけてやりたいとすら思う。  真っ当な人間でいたかった。せめてこいつの前ぐらい。  目の前の男に発情している事実から目を背けてしまいたいのに、一度昂ってしまった感情は出口を求めて今も体内で暴れ狂い、俺を無実にはさせない。 「……そろそろ行こう。高橋も待ってる」  灰皿スタンドに向けて、まだ吸えるはずのたばこから、ぱっと手を離す。  今すぐ距離を取らなければ、と思う。無理にでも振り切らなければ、二度と自分を正せなくなるような気さえした。 「なあ、田所」  吉澤がたばこを捨てる。ジュッと終わりを告げるそのわずかな音が、やけに耳に残る。  追いすがるような吉澤の視線が、俺の理性を焼き切った。 *  喫煙所を離れると、ホールには先ほどよりも多くの人でひしめき合っていた。係員の案内で、席に着くよう指示される。受付横を通り、工事関係者席を目指すと、すでに着席していた高橋に「こっち、こっち」と手招きされた。  高橋の隣に吉澤、さらにその隣の席に俺が着席する。  マイクの電源が入る。式典が始まっていく。  たった今登壇したのは、今回のタワマン建設を手がけたゼネコン側の社長だった。花を添えたスタンドマイクに向かい、朗らかにスピーチが始まる。  まるで舞台装置のように溶けこむ吉澤の横で、俺はずっと思考が渦巻いていた。スピーチの内容がまるで頭に入ってこない。  視界の端に映る吉澤を、強く、強く意識する。  ――なあ、田所。夜、時間あるよな?  喫煙所から離れようとした、あのとき。吉澤はそう言って俺を引き留めた。  沸騰した頭で真意を噛み砕くよりも早く、吉澤が逃げ道を奪うように言葉を重ねた。  ――だから、また、あとで。  有無を言わせない、今までにない力強さだった。  びりびりとした空気の震えを感じて、視線を上げる。  スピーチが終わったらしい。  周囲から沸き起こる拍手が、耳鳴りのようにどこか遠く感じられる。  形ばかりの拍手を送る間も、俺は吉澤の声に支配され続けている。何度振り切ろうともがいても、社会の営みの中へうまく戻れない。  拍手が鳴り止む。吉澤の手が、膝の上へと再び戻ってくる。  ほんのわずかばかり、俺の小指と吉澤の小指が触れあった。ダメだ、と思った。思いながらも、咄嗟に手を引けなかった時点で俺の負けは決まっている。  いつまで経っても、俺たちの指はそこから動かない。明確な触れ合いでもないのに、相手の熱が指にじっとりと絡みつく。  ――だから、また、あとで。  吉澤の声だけがいつまでも反響して、俺を炙る。 「田所ちゃん、俺たちも行こう」  すでに式典は閉会し、周囲にいた来賓たちはぞろぞろと立ち上がって、いなくなる。 「次、内覧ツアーだって」  高橋の呼びかけにうなづき、俺も吉澤の背中を追う形で席を立った。 「ねえ、吉澤くん。なんで今日は参列する気になったの。後任の俺のことが心配だった?」   大理石調のフロアを靴底で踏みしめる。前方にいる二人の会話が、他の来賓たちの雑音にまみれながら、ひそひそと続いていく。 「おまえを心配したことなんて、今までに一度もないからな?」  吉澤はいつもどおり斜に構えた態度で、高橋を突っぱねた。 「つれないなあ。じゃあ、あれだ、感傷に浸りにきたんだ?」 「だからおまえには言わないって」 「言わずに溜めこむのにね」 「もう溜めない。もう二度と、間違えない」  吉澤が視線を一点に定めた。その先にあるのは、TSEのエレベーターだ。  内覧ツアーが始まる。東都昇降機の名前が、ガイド役を務めるスタッフから声高に上がる。  上昇を示すボタンがオレンジに灯り、やがて扉が左右に開いた。  *  大学生のとき、当時付き合っていたのは同じ大学に通う、ひとつ上の女性だった。誰でもよかったわけじゃないが、きっと彼女にとって俺といる時間の「特別感」は、紙一枚よりも薄かっただろう。  拓海くんの家に行きたい、と願ってくれた彼女を、夜の繁華街のど真ん中で断った。恥をかかせたし、俺もまた恥じた。  自然消滅したとき、正直ホッとしたのを覚えている。  ずるいんだ、俺は。  こだわりのないものなら、どこまでも不誠実でいられる。そうやって割り切ることで、この世界で息継ぎを繰り返してきた。  そのずるさを、適当に入った定食屋で吉澤を見つめながら、遥か昔の出来事のように思い出している。  あのころの俺は、目の前の吉澤を本気で欲しがる日が来るなんて想像もしていなかった。  竣工式の後、一度解散した俺たちは、午後の仕事を終えてから再び合流を果たした。  どうしてこの店に決めたのかすら記憶に薄く、会話は先ほどから一向に弾まないまま、箸だけを動かす。  視線が、先ほどからやたらと絡んだ。心臓がいつまでも体の真ん中で喚いて、平常を取り戻せない。  吉澤と外食すると、いつもはその味を語り合うのが常だった。しかしそんな慣習すら忘れたように、俺たちはさっさと店を後にした。  五月といっても、夜は冷える。身をすくめたくなるようなビル風が、店先でぽつりと立つ俺たちを弄ぶ。  風で乱れた髪を、吉澤がゆっくりとかきあげた。そこからのぞく耳も、うなじも、どこか気だるそうな仕草も、全てが胸を必要以上に締めつけ、感情の余白を奪っていく。どうにも喉が渇いて、唾液を飲んだ。 「……吉澤、その」  衝動的に喉まで出かかった言葉を、なんとか引っこめる。偶然すれ違った酔ったサラリーマンたちの喧騒が、俺を現実にたちまち引きずり戻す。  どこか不安そうに俺を見つめる吉澤に「ひとまず歩くか」と言って、軽く背中を押すと吉澤は黙って従った。その従順さが、今日ばかりは俺をますます不安にさせた。  互いに示し合わせたわけでもないのに、俺たちは人の波に押されるまま、いつしか駅の灯りの下に立っていた。  明日は週末だからだろう、帰宅するための力だけを残した覇気のない人もいれば、たかが外れたように陽気な人たちもいて、それぞれが思い思いに改札を抜けていく。 「今日泊まるホテルは」  構内の壁沿いに立ち、ようやく俺はそれだけを告げた。向かい合わせにいる吉澤のネクタイが、わずかにゆるんでいることに今更気づく。 「そのこと……なんだけどさ」  なにかを躊躇うように、吉澤は何度も吐息だけを奏でる。だが吉澤なりの助走をつけて、それははっきりとした言葉へ変わっていく。 「予約、してない」  雑踏の中、驚くほど鮮明に吉澤の声だけが届く。都合のいい甘やかな幻聴のような台詞が、破滅的なまでに俺を揺さぶった。  ノイズが消え去っていく。吉澤だけが、俺の世界に今、たったひとりで佇んでいる。 「今日は田所の家に泊まる」  おまえの家に、まだ俺の着替え残ってるだろ?  逃げ道を奪うように、吉澤の迷いのない視線が俺を心臓ごと射抜いた。  押さえつけていた欲が、急速に膨れあがっていく。  何度だって自覚する。  吉澤が欲しい。どうしても欲しくて、手に入れたくてたまらない。  まさに強迫観念にも似た想いが勢いよく限りある体の中を巡った。  このまま欲望に身を委ねてしまえたら、きっと楽になれる。しかし委ねてしまったら最後、俺は。 「やめておけ」  放った言葉は、思いのほか語気が強くなった。 「なん、で」  食い下がる吉澤の声があまりにか細く、胸が一際締めつけられる。 「俺はきっと、おまえを傷つける。嫌がっても止まってやれる保証がない」  駅のホームで初めて吉澤を家に誘ったときのようななけなしのやさしさは、もうきっと取り戻せない。自分が大切なあまりに、吉澤を抱きしめておきながら手酷く当たってしまうかもしれない。  吉澤が求めるような安寧さなんて、俺はもう二度と差し出してやれないかもしれない。  おまえが欲しがるものから遠く離れた人間へと成り下がることが。その目を曇らせてしまうことが苦しくて、どうしようもなく恐ろしい。 「……やめておけ、頼むから」  喉の奥が火傷を負ったように痛む。心臓が破裂しそうなほどに脈を打つ。  神様でもなんでもない、たった一人の人間に願うには、あまりにみっともない声色だった。  なのに俺の心の叫びを丁寧に拾い上げて、吉澤は叶えようとしてしまう。 「いいよ。俺は」  田所と一緒に傷ついてやるから。  気づいたときには、俺の胸に吉澤の額が押し当てられていた。シャツ越しに感じる体温が、徐々に現実味を帯びていく。 「だから俺を、おまえの家に帰らせろ」  吉澤の肩に額を寄せる。その肩はいつまでも、小さく震えていた。

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