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第33話

 どうやって家に着いたのか、まるで記憶がなかった。いつもなら酔っていてもここまで崩れないのに、気づけば俺は、心臓に命令されるがままに玄関の鍵を解除していた。  ドアハンドルに手をかけながら振り返ると、吉澤はきちんと俺の後ろで待っていた。それだけのことなのに、声帯がかき消えてしまうほどうれしくて、だがどうしてもうまく笑えない。  部屋の中に、無言のまま招き入れる。吉澤が入ってきたことを確認し、鍵を閉めながらも沈黙を埋めるための言葉を必死に探している俺は、どうにもらしくなかった。 「田所」  うろたえる俺を見透かしたように、吉澤が突然俺の腕を引っ張った。  玄関の照明をつけ忘れている。そのことに気づいたのは、吉澤の唇の感触を味わったあとの話だ。突然触れ合うだけのキスをし、唇に体温を当てたまま吉澤が薄く笑う。 「ただいま」  後にも先にも。俺の人生ごと狂わせるのは、こいつしかいない。  胸を掻きむしりたくなるほどの痛みを振り切り、吉澤を廊下の壁に強引に押しつける。遅れて、吉澤のビジネスバッグがむなしく床に落ちる音がして、それを合図に唇を塞いだ。 「……っ、ん」  鼻から抜けていく吉澤の声は、驚くほどに甘い。  ただ皮膚と皮膚を重ねただけなのに、頭の中が朦朧として、ひとときすら離すことができなくなる。  角度を変え、何度も柔く吸いついては弾力のある感触を味わう。  唾液でぬるついた表面を舌先で拭えば、吉澤の体が敏感なまでに跳ね、あまりの従順な反応に、長い時間抑えつけていた熱が暴力的なまでに広がっていくのがわかる。  触れるだけでは、もう物足りない。 「……吉澤、口」  リビングの窓から辛うじて届く明かりを頼りにして、吉澤の唇を親指でなぞった。欲を孕んでとろけた吉澤の瞳が、俺の劣情を鮮烈に煽る。 「え……」 「口、開けろ」  おずおずと開かれたそこに、性急に舌を入れた。段取りなんてものを丁寧に踏むことすらせず、緊張のせいか奥に引っ込んでいた吉澤の舌へと半ば強引に絡んでいく。  歯列をなぞり、上あご、粘膜と、キャンバスを埋め尽くすように舌で自分の存在を残しながらも、蹂躙するだけの一方的な行為で終わるのはあまりにやるせない。  様子を伺うように舌を抜き、わずかに距離を取る。  だが、吉澤がそれを許さなかった。俺のネクタイを掴んでは引き寄せ、今度は吉澤のほうから噛みつくようにキスをされる。  離すな、と言わんばかりに吉澤の舌が俺のものに大胆なほど巻きつき、くちゅくちゅとガムを噛むような音が絶えることなく頭の中で鳴り響く。  制御装置が壊われたのかと思うほどに積極的な行いに、俺もまた破壊され、口づけばかりを繰り返した。  酸欠になりそうなほど長く、必死になって繋がり、ひとつの生き物のように二人分の呼吸がおなじリズムで乱れたころ、やんわりとこちらの肩を押し返してくる手がある。 「……っも、くるし……」  ささやかにできた唇の隙間から、吉澤が溺れたような声をあげた。 「息継ぎ、させろよ。死んじゃうだろ」 「死なせない」 「なんだよ、その自信……っ」  ここまで来ておまえを死なせてしまうほど、俺は愚かじゃない。  頭の中に微かに残った静かな場所ではそう思うのに、心と体は一向にバラバラのまま、再び唇を繋げながらも吉澤のジャケットを脱がしにかかっている。  部屋に着いてから、ずっとだ。先行して、急かすようにほとばしるのは、自分の都合ばかりだ。  ネクタイを解き、シャツを広げた先に現れる汗ばんだ肌は、夜に慣れた視界の中でも一段と艶めかしい。吸い寄せられるようにそこへ軽く口づけただけで、吉澤は短く湿った呼吸を廊下に散らした。  露出した首筋に唇を這わす。そのたびに吉澤は喉を詰まらせ、白い体がしなやかに蠢いた。 「なあ、俺ばっかりずるいだろ……」  おまえも、脱いで。  途切れがちな吐息の中、吉澤の手によってジャケットを剥がされる。今度はネクタイを取り除こうとしてくるのに、なかなか解けない。吉澤の下唇にやんわりと歯を立てながら、スマートさに欠ける手つきに思わず苦笑してしまう。 「不器用にもほどがある」 「……うるさい」 「手伝ってやるから、ほら」  吉澤の手に、そっと自分の手を添える。俺の意のままに無抵抗な手が動き、いつしかネクタイがするりと落ちた。 「な、俺でもできただろ?」  優越感すら滲んだ吉澤の満足げな表情は、今の俺には着火剤にしかならない。  下半身が一際重くなる。下着の中の火種が燻り、もうずっと窮屈だった。  ワイシャツのボタンに伸びていた吉澤の手を絡め取り、もういい、と剥き出しの耳にかぶりつく。 「耳、やめ……っ」 「ここ、弱いのか」  いいことを知った。改めて吉澤の髪をかき分けながら、丹念に舌先で耳を愛でる。わざとらしくぴちゃぴちゃと音を鳴らせば、素直さを拒んでいた口がようやく開いた。  あ、と放たれた声の輪郭は、もう随分と不明瞭だ。  力が抜け、なし崩しに床へ座りこんだ吉澤を追いかけた。しゃがみこんだ俺に向けられる視線は意外にも力強く、吉澤の生き方を投影したようにどこまでも気高い。  吉澤が守ってきた、孤独で清らかな領域に今、俺だけが触れることを許されている。 「やめて、って言ってもやめてやれないぞ」  唇を軽く突き出す。  吉澤が俺の頭を抱き寄せ、もつれるように舌が交差する。勢いが余って、吉澤の後頭部が壁にぶつかり、大きな音を奏でた。  それでもわずかな時間すら惜しむように、互いの口内を乱暴にまさぐり続けていく。  吉澤とずっとこうなりたかった。そう思う反面、湯水のように注がれているはずの快感は依然蓄積される気配がない。  もっと奥を知りたい。踏み込みたい。俺の知らないところなんてなくていい。  全部、欲しい。  内ももに手をじっとりと這わせる。火照りを孕んだ呼吸が吉澤から吐き出され、飢餓感は次々と増すばかりだ。 「……触れたい」  キスの合間のあけすけな懇願は、さすがに吉澤を冷静にさせたらしい。吉澤の下腹部の密やかな膨らみに手を伸ばすと、制するように手が重なる。 「ここ、で?」 「ダメなのか」 「ダメ、じゃない……ダメじゃないけど」 「だったら」 「せめて、ベッドの上にしろって」 「嫌だ」  離れたくない。  自分でも驚くほどに、咄嗟に出てきたのは拒絶だった。あまりに幼稚すぎる反応に自己嫌悪する。  やさしくしたい。大切にしたい。頼られたい。嫌われたくない。  そのどれもが正しく平等に、大人になった俺が吉澤を求めるための適切で、建前上の理由だった。  でも、本音は違う。  心の奥底では、今もあのころの俺が喉を枯らして泣いている。自分本位なくせに臆病で、相手の気持ちをわかろうともせずに、ずっとずっとあの体育館の舞台袖で泣き叫んでいる。 「……一度でも離したら、おまえはまた、俺から離れていくだろ」  吉澤の顔がたちまち悲痛に曇っていく。まばたきを繰り返すごとに、歪んだ瞳から今にもこぼれ落ちそうな光が大きく膨れ上がる。  惹かれていく。目が離せなくなる。  人が泣く瞬間を初めて、きれいだと思った。 「田所……ごめん」  そう聞こえた瞬間、光の顛末を見届けることなく、俺は強く抱きしめられている。 「もう、離れない。絶対におまえから離れないから……」  たくさん待たせて、ごめん。  そうして傷を舐めあうような、息の詰まるキスをした。 *  互いに手を取り、俺たちは無言のまま寝室へ移動した。ベッドを捉えた途端、なけなしの理性が剥ぎ取られ、どこまでも深く欲望の海に沈んでいく。  肌を舐め合いながら、吉澤はだらしなく腕に引っかかっていたワイシャツをゴミ同然に投げ出した。あまりの潔さに惚れ惚れとする。世渡りするために鍛え上げられた、決断力の高さゆえなんだろうか。  俺もまた吉澤を見習い、ベッドの上からシャツを捨て去った。 「……あんまり、ジロジロ見るなって」  ダウンライトだけを灯した室内に、引き締まった吉澤の肉体が現れる。足を使う営業活動の賜物か。もともと筋肉がつきやすい体質なのか。  初めて目の当たりにする吉澤の裸を前に、見るな、と言うほうが無理な話だ。 「恥ずかしいのか?」 「恥ずかしいに決まってるだろ。田所に見られるのが一番恥ずかしい。それに」  興奮する。  頭を鈍器で殴られたような衝撃が、俺を襲った。  吉澤を力づくで組み敷いて、口元に噛みついて。瑞々しい肌を丹念に愛撫すると、ほんのりと赤く色づいていく。  許されてるみたいだ、と思った。  何度も撫で上げて、吉澤の体から変な強張りが抜けるころ、指の腹を使ってやわやわと胸の突起を擦り合わせる。 「……っ、それなんか、ヘン……」  シーツの上で泳ぐ吉澤を捕まえる。 「逃げるなよ」 「だ、って……っ」  追い打ちをかけるように硬度を持った尖りを口に含むと、逃げ場を失った吉澤が、薄い皮膚を突き破りそうなほどに喉仏を晒した。切羽詰まったように、吉澤の声の感覚が短くなっていく。 「あ、っ……ん、ん……っ」  ちゅ、ときついぐらいに突起を吸い上げる。しつこいと叱られそうなほど幾度も吸いつき、時折舌先で上下に転がしながらも吉澤のベルトに手をかけていく。ファスナーが静かに下りる。下着越しでもわかるほどの熱く主張のある形をなぞると、不意に吉澤の手が俺の髪に触れた。 「田所……まって……」  二度目の制止を聞いてやれるほどの余裕なんて、どこにもなかった。  手首を掴み、自分の口元へと引き寄せる。わざとらしいほどのリップ音を鳴らしつつ、手の甲、そして手首へと唇を滑らせた。たどり着いた果ての骨ばった親指は、眠らせた欲を呼び覚ますように舐め上げた。 「……なあ、いつまで待てばいい」  すり、と吉澤の手に頬ずりをする。  吉澤からの返答はない。どく、と心臓が脈を打つ。  固唾を飲んで、焦がれながら、出方を待つ。  伏せられていたまぶたが、緞帳のようにそろそろと上がっていく。吉澤の左手が頬に添えられた。決して官能的ではない、慈しみの混じった手つきで、あやすように吉澤が頬を繰り返し撫でる。  いいよ。ふと聞こえきたそれは、どこか祈りにも似ていた。 「やっぱり、待たなくていい」  吉澤の下着を、スラックスごとおもむろに下げる。膝の関節でぶら下がった下着を気にしてやる余裕もなく、露出した吉澤の性器に手をかけた。自分の腕で顔を覆い隠す奥ゆかしい態度に、思う存分脳が破壊されていく。 「……ん」  すでにぬめった場所を手で擦ってやるだけで、簡単にそそり立つ。俺の手で感じていることも、おとなしく組み敷かれていることも、優越に置き換わる。  ためらいは微塵もない。  指で屹立した箇所を支えつつ、一気に根元まで自身の口に含んだ。沿わせた舌にも、包む粘膜にも、吉澤の凹凸がダイレクトに伝わってくる。  唾液を潤滑剤代わりに、頭を上下に動かす。じゅ、じゅ、っと皮を巻き取るように、脈打つ竿を吸い上げると、断続的にあがる声からは余裕がかき消えていった。  吉澤の腰が快楽の頂点を目指し、ますます淫らに揺れる。 「……いい……」  きもちいい。  うわごとのような言葉が鼓膜を擦ると、体中に否応なく電流が走った。大人というしがらみを焼き尽くされる。本質が剥き出しになっていく。  挿れたい、と。半ば狂ったように思ってしまった。  吉澤の中に入って、一日中、それこそ許されるならいつまでも繋がっていたい。ぐちゃぐちゃにしたい。頭の中まで見境なく溶けて、俺と混ざり合ってしまえばいい。  そう倒錯しそうになるのに、寸前のところで踏み留まらせるのも、やはり吉澤の存在だった。  挿入される側に想像以上の負担を強いるとわかっていてなお、もっとと欲しがる俺は吉澤を傷つけるだけの存在になりかねない。  大切にしたいのに。  失う怖さを知れば知るほど、去りかけた理性にすらしがみつきそうになる。  やがて吉澤は、俺の口の中で果てた。  絞り出すように手を小刻みに擦り上げ、とろみのある液体を含んだまま、すぼめた唇を隆起の弱まりから離す。 「もしかして、田所はそっち?」 「そっちって?」  数枚重ねたティッシュの中に、吉澤の出した体液を吐き出すころ、脈絡なく訊ねられた。  俺の両足の間に体をゆっくりと滑り込ませては、小首をかしげる。どこか小悪魔的ともいえる仕草に、警戒するどころか熱を傾けることしかできない。 「挿れたいんだろうなあ、って」 「……わかるのか」 「田所的に言うなら、勘、かな」  まあ、これまでいろんな趣向の人たちに会ってきたし。女の子としか経験ないっぽいし。  大事な会話をしているはずなのに、吉澤は俺の下着の中に手を忍ばせた。膨張した輪郭のさらに外側を撫でるような焦らし具合に、ここより先にあるものを期待し体がぞくぞくと震える。 「俺はどっちでもいいよ。相手が田所ならどっちでも気持ちよくなれる自信がある。それに、俺としてはちゃんと最後までヤりたいし」  でもさすがに今日は時間かかるから、あそこ、使わせてやれないかも。  吉澤が苦笑する。気遣いなんかではなく、本当に申し訳なさそうに眉を下げては、俺に施しの口づけをしてくる。  なあ、どうしておまえは昔から、いとも容易く俺の存在を肯定してしまうんだ。  例えようのない感情で胸の中を大いにかき乱しておきながら、その淫らな手つきは止めてもらえそうにない。 「……っ、ふ」 「田所の感じてる顔、めちゃくちゃクる」  たまんない。  挑発的な笑みだ。すでに燃え盛っているところに、見事な油をなみなみ注いでくれる。  衣服の圧迫感が苦しくて、自ら全部を脱いだ。  裸になる。外気に晒されたそこは赤黒く脈打ち、吉澤の手で擦られるたびに、先端からてらてらとした先走りを漏らす。 「なあ、俺のも触って……一緒に気持ちよくなりたい」  向かい合わせる形で座り、俺たちは互いのものを握りしめ、扱き合う。  握る強さも、扱く速度も、反応を見ながら変化する。ただただ単細胞のようになって、相手を追い詰めることだけに夢中になっていく。 「ん、っん、もっと……はげし、くっ……」  お望みどおりに速度をあげれば、吉澤の切なげな息が俺の胸の上で弾けた。  限界が近い。二人して余白のない手つきに変わっていく。射精を促すためだけの、無駄のない、本能的な動きだ。握りしめる手の中ではありとあらゆる液体が混ざり合って、動作のたびに鳴る卑猥な水音が、俺たちの言葉を奪い続けた。 「田所っ……イ、く……イくっ」 「……ああ、俺もっ」  最後は、声にならない声をあげた。  先端から飛び出した精液が腹部を白く汚し、根本に生えた茂みにまでべっとりとまとわりついている。  激しく濡れた呼吸が、静寂な部屋を湿らせていく。  ティッシュに手を伸ばす。しかしその拭う時間すら、吉澤は許さなかった。肩で息をしながらも、余韻の抜けない煽情的な顔を俺にぐっと近づけてくる。 「もっと……」  目の前の唇が動いた。 「もっと、して」  吉澤に頼まれたなら、断れない。ずっとそうやって思っていたが、どうやら間違っていた。  求められたなら、与えたいんだ。俺が吉澤に、与えてやりたいだけなんだ。献身、なんて言葉は綺麗すぎる。もっと醜くて、汚れた願いだ。  一人で生きるな、とは言わない。ただ与えることで、吉澤の進むべき道に俺の存在を植えつけるずるさを、許してほしい。  残像のような理性をとうとう飛ばして、吉澤の唇に噛みついた。口づけを深めながら、その体をかき抱く。肩を強く押され、抵抗することもできずにベッドに背中を預けた。  俺を見下ろす吉澤は、泣きそうな顔で笑っている。 「幸せすぎて、どうにかなりそう」  その言葉に返事をする間は、もう、与えてもらえそうにない。

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