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第34話
まだ陽ものぼりきらないうちに、目が覚めた。
俺と同じベッドで眠った吉澤は、まだ静かな寝息を立てている。
大阪から戻ってきたその足で仕事をこなし、夜は散々、しかも最後は声が空気に置き換わるほど執拗に触れ合ったのだから、仕方のないことだろう。
起こさないように注意を払い、ベッドから抜け出した。
まだ青白さを残すキッチンへと向かう。
朝はなにを作ってやろうか。依然、すっきりとしない頭をなんとか働かせる。軽くあくびをし、電気ケトルのスイッチを押した。それからキッチンの片隅にあった灰皿を引き寄せ、換気扇の下でたばこを咥える。
ごうごうと回る羽が、白煙を巻き上げていく。
マンションの階下からは、走り出すバイクの音が聞こえてきた。仕事に向かうのか。もしくはどこか遠くを目指すのか。なんたって今日は多くの社会人が待ち望む週末だ。
まるでチューニングをするように、寒色だった部屋に朝の末端が溶けこんでくる。
沸き上がったケトルを持ち上げ、インスタントコーヒーの粉末をいれたマグカップへお湯を注いだ。
ふとケトルを握る手首の内側にある、赤い鬱血に気づく。
つけた本人は「そういうつもり」など微塵も頭になかっただろう。パズルの空白を埋めるようなどこか儀式的な雰囲気を漂わせながら、吉澤は俺の体の至るところに、唇で触れられるだけ触れていった。
強く吸いつかれたわけでもない。放っておけば、明日にはきっとわからなくなる。
それでも構わないと思いながら、あいつは遠慮がちに行為に及んだに違いない。
でも俺は正直、このとき腹が立っていた。
必要以上の遠慮は、時に相手の口を塞いで、いとも容易く窒息させるというのに。
吉澤の体をシーツに強引に縫い留め、苛立ちをぶつけるように太ももの付け根に思いきり噛みついてしまったのだった。
勢いあまって、噛み跡が赤黒くなったことは反省している。それに長年に渡って体に沁みついている吉澤の奥ゆかしさは、一朝一夕で治せるものじゃないだろう。
わかっているからこそ、偶然の産物なんかではなく、あいつが腕の中にいたことへの確かな証明が無性に欲しくなった。
肺いっぱいに満ちたたばこを、手首に向かって吐き出す。
じっと目を凝らす。やはり痕はそこにある。
煙に巻くことはもうできない。夜の名残りは肌にこんなにも刻みついている。
よかった。
そう思った途端、自然とこぼれる涙があった。
眠ることがこれほど怖い夜もなかっただろう。欲しがることもなければ、俺は孤独の存在すら知らずに済んだというのに。
吉澤のいない未来を想像して、際限のない不安に呑みこまれながら暗闇に落ちた。
でも、朝になっても吉澤はいた。俺の隣に。夜と変わらず、だけど無防備な寝顔をさらして、そばにいた。
「……田所」
うつむいた顔を上げる。いつからそこにいたのか、吉澤はキッチンから少し離れた場所で、俺の様子をうかがうように立っていた。
おはよう。そう伝える間もなく、静かに距離を詰めてきた吉澤が、俺の手からたばこを取り上げる。灰皿に押しつけられた吸い殻を呆気に取られて見ていると、今度は強引に俺のTシャツを自分のほうへと引っ張った。
唇をさらわれる。
乾いた皮膚の上を舌先で炙ったかと思えば、わずかな隙間から口内へ素早く侵入してきた。
敏感な上顎のひだを撫で、飽きたら今度はじゃれるようにきつく舌に吸いついてくる。吸いつかれるたびに、唾液ごと奪われる。
戯れで終わらせる気はないらしい。
「ん……っ」
吉澤が甘く鳴く。体重を預けながら口づけを深くする。腰を抱き寄せ、身をひるがえす。
吉澤の体をシンクの縁に押しつけ、部屋着の下へと素早く手を潜らせると、声に極上の甘さが滲んでくる。昨晩散々堪能した肌を飽きもせず撫であげ、俺に翻弄されるがままの熱のこもった体へ何度だって思いを募らせる。
何度だって、俺は。
「……好きだ」
唇を離した途端に生まれた隙間風のようなさみしさを、吉澤の告白が攫っていく。
そこにはドラマのような激しさも、朝の空気のような清らかさもなかった。血の通った、生々しさだけがそこにある。
「田所のことが、好きだよ」
目尻に残る涙の跡を、吉澤の指が拭った。
言葉にすることの難しさを知っている。言葉の重みで誰かの生き方を変えることも、心を容易く殺めてしまうことも知っている。
その重責から逃れることを選んだ俺たちはどこまでも愚かで、愚かだから、せめて互いを苦しめないようにと下手な沈黙を選び続けてきた。
それも、今日で終わりにする。
「……好きだ。おまえのことが、ずっと」
音に変えた途端、目の前に広がる世界のまばゆさにめまいがした。腕の中の体温が、俺に幸福を与えて心臓の脈を狂わせる。
吉澤がくすぐったそうに笑っている。それから俺の頬に触れて、せがむように目を伏せた。
唇を重ねていく。
心臓がどこまでも速くなる。二本の腕が俺の背に回る。足が隙間なく絡みつき、互いの境界線がぼやけていく。
ようやく、朝が来る。
目の前の首筋に顔を埋めると、冷めたコーヒーの匂いが愛おしさを包むようにわずかに香った。
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