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第35話

 時間の流れを速いと感じられたのは、いったいいつぶりだっただろうか。  五月の竣工式に一度帰京した吉澤は、日曜日には恐ろしくちゃんと「社会人の顔」をして大阪へ戻っていった。もう少し湿っぽい別れになるかと思って指摘すると、吉澤は「頑張ってんの、これでも」と憤慨していたのを覚えている。 「ちょっとでも気合い抜いたら顔がにやけそうだし、でもなんか泣きそうになるし、今のコンディション最悪なんだよ」  責任感の強い恋人の神経を逆撫でする気には到底なれず、俺もまた澄ました顔のまま、新幹線の時間が来るまで吉澤と手を繋いでいた。  その日から、連絡の頻度が目に見えて増えた。  あの一夜を経てからの吉澤の文面は、会話よりも饒舌になった。  おはようから始まり、今日はどんなことをしたか、なにを食べたか、ときに仕事の愚痴が混ざりながらも、おやすみを告げる前に、少しだけ甘ったるい通話をする。  しかし、互いを欲しがるそぶりは見せても「会いたい」とだけはもう言わなかった。  これ以上の逢瀬を重ねたら、俺たちは適切な距離感を見失って、社会性をまるごと弔ってしまう。情熱を履き違えたような、そんな薄暗い予感が常に漂うほど、ひとりの男にのめり込んでいるのは事実だ。  それに今の仕事をどうあっても手離したくないのは、お互い様らしい。ふと吉澤からこぼれる営業の愚痴からも、現実と向き合おうとする覚悟が痛いほど伝わってくる。  許されるなら、本当は今すぐにだって会いたい。だが大人になった今、熱に身を任せてしまえばどうなるかわからないほど、バカなフリもできない。  だから、会えない。会わない。  新幹線に乗れば、三時間もかからずに会える。それだけで俺たちは、いつまでもつながっていられる。  会わない選択が、今度ばかりはやさしさになると強く信じた。  季節は流れ、再び冬がやってくる。俺は今、案件をいくつもかけ持ちしている。  そのどちらも中層マンションにおける老朽化したエレベーターの改修工事だ。一ヶ月スパンの短い工期ではあるが、俺以上に大変そうなのは営業補助に入っている高橋のほうだろう。  メインの営業担当は、今年度入社してきたばかりの新卒社員だった。この春から本社の営業課は、新しい顔ぶれが三人ほど増えている。二課に配属された社員の指導係になったのが高橋だった。  今回の案件に関していうなら、表面上の業務はずっと卒なくこなしてくれている。しかしそれに至るまでには、ずっと指導に当たっている高橋の教え方だってひと役買っているだろう。 「改修工事のなにが面倒かって、先に住んでる人たちがいることだよね。全員に説明して回って、ぺこぺこ頭下げて納得までしてもらわなきゃならないし」  たまにはと思い立って久しぶりに二人で飲みにいくと、高橋は相変わらず顔色ひとつ変えずにそう言った。  人に物事を教える大変さはわかっているつもりだった。でも俺はそもそも、高橋自身のことをわかっていなかった。業務内容への愚痴はこぼしても、指導係としての愚痴はなにも出てこない。  指摘すると珍しく高橋は声あげて笑った。俺を心配するのは、妻以外だと本当に田所ちゃんぐらいなんだよ、まじな話。 「俺、人間には興味あるけど、人となりにはあんまり興味ないから。だから大丈夫」  また、現場で会う下請けの職人たちの中にも、ちらほらと新入りの顔が混じるようになった。 「最近の田所さん、うちの若いやつに紹介しやすくて助かるわ。変にビビらせなくて済むし、ちょっとでも嫌なことあると若いのは逃げてくからな。こっちはいつもヒヤヒヤしてんのよ」  ガイドレールの取り付け作業を進めながら、職人にあっけらかんと言われる。意味をつかみ損ねていると、ちょうど現場に来ていた高橋に「安心チェックができなくなって俺はさみしいよ」と言葉を重ねられる。 「またそれか」 「でももう、俺がチェックしなくても田所ちゃんの現場はうまく回るでしょ」  出世期待してるよ、なんて大して期待もしていなさそうな抑揚のなさで告げられた。  この後の人生、出世コースに乗れたならそれはやはり皆のおかげだろう。シャフトの中に入る。上を見上げると、飲み込まれそうな深い闇の中、簡易照明だけが煌々と輝き、どこまでもまっすぐに伸びるガイドレールの全貌が見渡せた。  すごいよな、と。吉澤の笑い声が聞こえた気がした。 *  新しい年を迎えて早々、俺は総務課から呼び出された。先月の研修会のために申請した、出張費用の計算が合わないらしい。なんとか計算を合わせて自分のデスクへと戻ってくると、フロアがやけに浮き足だっていることに気づく。  雑談をあまり好まない、職人気質の人間が多く集う四階の空気が揺れるのは、そう多くあることじゃない。  これは、きっと誰か来ている。  管理部の上役たちや外部から招いたコンサルの来社だったり、入退社する人間があいさつ周りをしているタイミングだったりと、空気を巻きこんで人を動かすのはやはり人そのものだ。 「田所さん!」  セキュリティードアを抜けて、一目散に俺に向かってきたのは中田だった。俺のそばに来ると急ブレーキをかけたように立ち止まり、朗報ですよ、とうれしそうに眼鏡の位置を直しながら話し出す。突発的な動作の多さは若さゆえなのか。情報を今すぐ共有できる相手に、偶然俺は選ばれたらしい。 「どうしたんだ」 「吉澤さんですよ、今日本社に帰って来てます! 本社復帰は来週月曜日から、って聞いてたのに」  そうか、午後から来たのか。吉澤とのやりとりを脳内でさらりとなぞる。つとめて平静を装いながら、それは朗報だな、と中田に返す。 「もう吉澤に会ったのか?」 「今順番にあいさつ周りされてるそうで、俺はたまたまそのタイミングで会ったんですけど……まあ、出遅れましたね」  中田が、がっくりと項垂れた。  出遅れたって? 問いかけると、先約があるらしい、とわびしげに眉を下げる。 「飲みに誘いたかったのに、今日はもう埋まっちゃったからって断られました」 「残念だったな」 「もっと早く情報を掴んでいれば……」 「でも吉澤なら、中田のために埋め合わせしようとするんじゃないか?」 「それはそうなんですけど。でもせっかく戻ってきたなら早く労いたいじゃないですか。俺の周り、飲み会嫌うやつ多いですけど、吉澤さんとなら飲みたいっていう奴、結構多いんで」  まったく、あいつは天性の人たらしだ。意図せず周囲を惹きつけてやまないのだから、もうどうしようもない。着々と社内の若い人間たちにまで広がっていく吉澤の魅力が、少し誇らしくもある。 「それで、その吉澤は? もうここに来るのか?」 「一階のエントランスで、業務課の受付の人たちと談笑してましたよ。あの感じだとなかなか先が長そうだなあ、と」  わかった。そう言い残し、席を立つ。  一階から順当に来るなら、営業課の吉澤が次に来るのは四階のフロアだろう。二階は社員食堂とラウンジしかなく、三階の営業課内はすでにあいさつを済ませているはずだ。 「あれ。田所さん、吉澤さんを待たないんですか?」  どこか心配そうな中田に「よろしく言っといてくれ」と告げ、手を挙げて離れた。 *  逃げるようにラウンジに向かうと、営業二課の連中が集まっていた。すでにくつろいだ後なんだろう、飲み物を片手に会話をしながら歩き始めている。当然のように、その中に吉澤の姿はない。  無難にやり過ごそうと軽く黙礼すれば「あ」と集団の中にいた高橋に、めざとく発見された。 「すみません。俺、ちょっと田所ちゃんと話あるんで。また後で」  おう、わかった。またね。各々が高橋に声をかけて、階段のほうへ向かっていく。どこまでも華やかさが付き纏うのは営業課特有かもしれない。 「なに飲む?」  気配が遠ざかったところで、高橋が訊ねてくる。俺が引き留めたから、ここは奢ってあげる。 「たかられると思ったんだが」 「ええ、やだなあ。田所ちゃん、それ心外だよ。鷹だって奪うばかりじゃないでしょ」 「ははっ、それは悪かった」  高橋がふっと目を細める。ホットの缶コーヒーをねだると、高橋は口を閉ざしたままボタンを二度押した。そのうちの一本を俺に手渡すと、残りの一本を開けることなくソファーに座る。俺もまた向かい合うように腰かけた。 「帰ってきたね」  誰のことか示されなくても、わかってしまうのが恐ろしくもあり、面白くもある。 「知ってる。中田が騒いでた」 「施工課の中田くんね。犬っぽいよね、彼」 「犬、か。高橋の評価は独特で困る」 「それで田所ちゃんは会わないの。もうすぐ施工課にも顔出すんじゃない?」 「……ああ、まあ。もう、いつでも会えるから」  ふうん。高橋が呟く。全てを見透かしてしまいそうな瞳で、まじまじと俺を観察してくる。  そういえば。いつからか俺は、高橋の目をまともに見ようとしていなかった。人知れず、陽の当たらない場所でそっと眠らせておきたいことがあまりに多すぎた。  でもそれも、もういい。 「田所ちゃん、なんかやっぱり変わったね」  缶コーヒーのプルタブを起こす。カチン、と硬質な音が空気を小さく震わせる。いつもとおなじメーカー。日常に染みついた動作。  なのに今日だけは、不思議とコーヒーの苦味に潜んだ美味さを舌が丁寧に拾い上げてくる気がした。 「……俺さ。実は昔、吉澤くんのことが苦手だったんだよ」  突然の告白だった。  誰かに深く肩入りすることも、特別な情を持ち出すこともない。いつも社会の輪の外にいるような高橋から、苦手というフレーズが飛び出すこと自体、不自然な気がした。  でも、そうじゃないような気もする。所詮俺たちは、他人の考えや気持ちの全てを知れるわけじゃない。  わからないからこそ言葉にして伝える術を学んだけで、それもまた不完全だ。不完全で、いつまでも未熟で、それでも必死に生きている。  高橋の言葉が、湧き出したばかりの水流のように流れていく。 「ずっと不気味だったというか。いつもニコニコしてて人当たりがいい。仕事も卒なくこなす。ミスをしたら反省もするし挽回もしてみせるけど、落ち込む姿は誰にも見せない」  あまりに人間臭くなくて、一緒に働く仲間としては逆に怖かったんだよね。  高橋はやがて脱力したように、壁に背を預けた。口元はやわらかな笑みを浮かべている。 「でも、田所ちゃんが本社に配属されてからのあいつは、すごくユニークだったよ」 「ユニークって……」 「田所ちゃんの前ではうまく話せなくなったり、異常なぐらい張り詰めてたり、なのに田所ちゃんといるとリラックスしてるときもあってさ。あ、こいつ面白いな、って。ちゃんと人間だったんだ、って。田所ちゃん、って呼び始めたのも、あいつの人間味を引き出すスイッチみたいなものだったんだよ」  長い間、利用してごめんね。そう言うと詫びのつもりなのか、高橋の手の中にあったもう一本の缶コーヒーを軽く投げて寄越した。両手でキャッチする。  礼を言おうとしたが、うまく声にならなかった。  高橋に見抜かれていた恥ずかしさも、吉澤がずっと俺を求めていたことへの喜びも、なにもかもが胸を震わせて、だけどそれが案外心地いい。 「今からでも呼び方、直そうか?」  高橋に問われ、軽く頭を左右に振った。 「……いや、いい。前から言ってるだろ。本当に気にしてないんだ」 「そっか。じゃあ今後も『田所ちゃん』ってことで」  高らかに宣言した後、ひょいと跳ねるようにして高橋が立ち上がった。 「あ、おい」  焦燥に駆られて、咄嗟に呼び止める。軽やかな身のこなしで振り返る高橋へ、似つかわしくないほどの真面目さで問いかける。 「なんで今更、この話を俺に?」  高橋の瞳が、わずかに揺れていた。言い淀んで視線を落とすその仕草さえ、初めて見るものだった。あの高橋が、今明確に動揺している。 「俺、結構負けず嫌いなんだよ」  苦々しい顔で、高橋は切り出した。 「同期のやつらが変わっていくのに、自分だけ停滞してんのとか悔しいでしょ?」  あいつ、ただの出向だっていうのに、大阪の支店で月間営業成績、何度も一位獲ったんだって。  言うだけ言って、高橋はラウンジから去っていった。  同期の意外な面を目撃したからだろう。真冬だというのに、どうにも胸の中はひだまりに包まれたように暖かい。

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