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第36話

 その日の夜。ようやく乗り換えにも慣れ、遅延もなくたどり着いた自宅の最寄り駅で、吉澤は俺を待っていた。会社を出るタイミングはアプリを通じて伝えてあったが、迎えに来るとは聞いてない。  いつから待っていたんだろうか。出向中に新調したというダウンジャケットに身を包みながらも、そこから覗く吉澤の鼻先はほんのり赤く染まっている。  疼くような熱が胸に宿る。吉澤に駆け寄る。足取りは軽い。  こんなことで浮かれるなんて、昔の自分では到底考えられないことだった。 「寒かっただろ」  家で待っていればよかったのに。  マンションに向けて、肩を並べて歩き出す。満月と呼ぶにはわずかに足りない、中途半端な月の浮かぶ夜だった。 「平気」 「さすがにまだくつろげなかったか?」 「違うって。ただ、少しでも早く田所に会いたかっただけだから」  それぐらい、わかれよ。  たちまち酸素が頭に回らなくなって、人目を憚ることなく吉澤の手を握った。  会社という縛りがなくなると、どうにも抑えが効かなくなることに今更気づいた。しかも当然のように吉澤から手を握り返されてしまい、心臓が理性を食い破るように急かし立ててくる。  マンションまでの道のりがもどかしい。 「久しぶりの本社はどうだった」  残った冷静さで、話題を切り替える。俺の心の内を感じ取ってか、もしくは営業職としての心配りなのか、吉澤はきちんと俺の話に相乗りしてくれた。 「……ちょっと、ホッとした。高橋とかもさ、他にも結婚してる奴だったり、いつの間にか子ども産まれて復帰してる人もいたけど、顔ぶれはほとんど変わってなくて。あ、あといろんな人に飲みにいこうって誘われたなあ」  でも全部断ったけど。あまりにも軽やかに吉澤が言った。 「全部?」  思わず声が上擦った。中田から聞いていたとはいえ、まさか全部断ってるなんて、思いもよらない。想像を遥かに超えた答えに「そんなに驚くこと?」と歩調をゆるめながら吉澤が苦笑した。 「……驚くだろ、それは」  週明けには見事に話が広まっているかもしれない。あの付き合いのいい社交的な吉澤が、誰からの誘いにも乗らなかった、って。そうしてあることないこと尾ひれがくっついて、社内で動きづらくなっていくに決まっている。 「本当によかったのか。その、全部断って」  マンションに着く。十階建ての中層マンションは築五年ほど経っている。エントランスの外には手入れの行き届いた植栽が施され、共用部分にはゴミひとつなく、自転車置き場やゴミ捨て場のマナーもいい。  住んでいる住民たちも静かなもので、まだ住み始めてひと月程だが騒音で困るような経験もなかった。  吉澤がエレベーターの上昇ボタンを押す。 「でも、営業課内の歓迎会は出るつもりだけど」 「いきなり付き合いが悪くなると、いろいろ憶測で言われるぞ」 「それ、俺を心配してる? それとも、うわさされるのが怖い?」 「……両方だ」  うわさなんて気にしなければいい。しかし、吉澤はきっと気にする。  それにこいつは、架け橋の役目を担う営業職だ。吉澤にとって、真相の歪みからくるやりづらさは不利益にしかならないだろう。  一階に降りてきたエレベーターの扉が開く。なあ、田所。呼ばれて、真剣な眼差しを携えた横顔を見つめる。 「もしもうわさが俺たちの関係に行き着いたら、そのときは否定しないから」 「……え」 「古い会社だからさ。バレたときには部署替えさせられるかもしれないし、飛ばされることもあるかもしれない。でも、もう自分の気持ちに嘘つきたくない。誰かと飲むぐらいなら、田所と一緒にいたい」  ダメかな? 吉澤が俺に視線を向ける。熱っぽい告白をしておいて、その顔は世界の果てに追い詰められたような孤独さを宿している。  長い間。ずっと欲しくて、たまらなく胸を焦がしてきた相手に求められたら、肯定だけが唯一の道にすら思える。体中が張り裂けそうになるのをこらえながら、懸命に声を絞り出した。 「ダメなわけないだろ」  繋いだ手が、いつの間にか同じ体温を示している。 「そのために、ここで一緒に暮らすって決めたんだ」  吉澤の口元がかすかにほころんだのを合図に、そろってエレベーターに乗りこんだ。  目指すは最上階。そこには、二人での生活が始まったばかりの部屋がある。  エレベーター内の右上のパネルが少しずつ階層のカウントを重ねていくころ、そういえば、と吉澤がふと思い出したように言った。 「今日本社に顔出したとき、席にいなかったけど、なんか忙しかった?」  ああ、そこを突いてくるのか。  吉澤にとっては純粋な疑問なんだろうが、俺にとっては今一番触れられたくない話題だった。返答に困る。その違和感に気づけないほど鈍い相手じゃないから、ますます困る。 「まあ、その」 「え、なに。取り返しつかないぐらいのトラブルがあったとか?」 「いや、そうじゃない」  逃げたんだ、俺は。ひと息で告げる。なんで、と問い返されるまでのわずかな無音が、刑事ドラマのように俺を観念させる。  もしもあのとき、会っていたら。  俺以外の誰かと楽しそうに笑って、輪の真ん中に立つおまえを目の当たりにしていたら。  おまえみたいに、誰とでも自然に会話ができるわけじゃない。だからこそ、そんなごく当たり前の日常すらうまくやり過ごせない自分を、受け止めきれなかった。 「……嫉妬だ。おまえが、モテるから。ただ、見たくなかったんだ」  電子音が鳴る。到着の知らせだ。  徐々に開く扉を前にして、吉澤は整った顔を寄せてくる。そっと濡れた声で耳打ちをした。 「早く帰ろう」  俺たちの家に。

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