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第7話

「――き、和希」  突然頭の上から降ってきた声に、俺は我に返った。顔を上げると、目の前には心配そうに眉を寄せた総一郎さまがいる。  総一郎さまが通う大学の食堂のテラス席に座っていた俺は、慌てて広げていた本を閉じて立ち上がった。 「えっ、あれっ? もう講義終わったんですか⁉」 「講義は時間通り終わったが……。君が待ち合わせの場所にいないから、心配したぞ」 「えっ⁉」  講義が終わるまであと二十分以上はあるはずなのに! と慌てて腕時計をみると、待ち合わせの時間から十分以上経っていた。 「うわっ、すみません!」  時間に遅れて総一郎さまを待たせるなんて、なんていうことだ! 慌てて荷物をまとめて立ちあがろうとすると、目の前に立った総一郎さまが手を伸ばしてきた。そっと俺の目元に指で触れる。 「目の下にクマが出来ている。もしかして最近眠れていないのか? 元気もないようだし……」  その言葉にどきりとした。  総一郎さまの言うとおり、最近はずっと睡眠不足だった。なぜかといえば、仕事が終わってからアパートでほぼ毎日『後ろの開発』をしているからだ。  ここ数日はだいぶ太めのアナルパールが入るようになっていた。前立腺を触ると相変わらず気持ちがいいし、総一郎さまを受け入れる準備は順調に進んでいる。それなのに俺はこれ以上ないくらいに落ち込んでいた。  実はあれから俺は、勉強のために男同士で絡み合うAVを見たのだ。しかしそれは想像とは全然違っていた。  以前読んだ小説では、ウケの少年は天上から響く音楽のような素晴らしい喘ぎを奏でていた。でも実際映像で見たものは、ジャングルのような未開の森で、葉っぱを全身に張り付けた屈強な男たちが裸でぶつかり合い、野太い声で吠えるように喘ぐだけだった。想像をはるかに超える映像に俺は衝撃を受け、途中で見るのを見るのを辞めてしまった。  ――それはそうだよな。可愛い女の子の声ならまだしも、太い男の声だしな。俺の声も、こんなふうなのかな。  そう思うと、だんだん自信がなくなってきてしまった。  声だけじゃない、身体だってそうだ。毎日自分の身体を向き合ってきた俺には嫌になるほどわかる。自分の身体は、なんの魅力もないつまらない男の身体だ。女の子のように柔らかい肌でもないし、身体のどこもかしこもごつごつして固い。一生懸命に開発している後孔だって、時間をかけないとひらかない。  本当に総一郎さまは、俺なんかを抱きたいと思ってくれるのだろうか?  そんなことを考え始めると地の底まで落ち込んでしまう。それならばいっそ、もろもろの訓練を辞めてしまえばいいとも思うのだが、それもやっぱり嫌なのだ。だって俺は、総一郎さまとセックスがしたいのだ。  しかしそんな悩みを総一郎さま本人に馬鹿正直に話すわけにもいかない。  俺はあまり後ろめたさに視線を逸らし、差し出された指先から身体を引いた。 「――だ、大丈夫です、眠れてるので! 全然元気なので!」 「……そうか? 最近少し疲れているようだし、何かあったか? 悩みごとがあるなら俺に相談して欲しい」 「悩み事なんて全然!」  あはははは、と誤魔化すための笑いが空虚に響く。そんな俺の顔を見て、総一郎さまが困ったように微笑んだ。 「……ならいいが」 「ほんっとにお気になさらず! ねっ、ほら帰りましょう!」  俺は総一郎さまの背中を押して歩き出した。なんとなく重い空気を散らすように、俺は明るい声で総一郎さまに話しかけた。 「あ、そういえば今日も研究室の飲み会でしたっけ」 「……ああ。教授がどうしても参加しろとうるさくてな。すまない」 「いえ、俺は全然気にしないので!」  俺の言葉に総一郎さまは一瞬黙り、それから小さな声で「そうか」と呟いた。  ――ああ、言い方を間違えてしまった。  そう思ったが、それ以上言葉が出てこなかった。さっき自分で全然気にしてないと言いながら、俺はすでに飲み会に参加する女の子たちに嫉妬している。  本当は女の子のいる飲み会なんかに行ってほしくない。女の子が総一郎さまの隣に座るのかと思っただけで胸がむかむかしてくる。でもそんなことを言っても総一郎さまを困らせるだけだ。  なんとなく気まずい空気が流れて二人とも黙り込んだ時、後ろから「西園寺くん」という声が聞こえてきた。  振り返ると、髪の毛の長い女の子がこちらに走って来るのが見えた。彼女は俺たちの前まで来ると、はあはあと息をつきながら総一郎さまを見上げる。 「良かったあ、捕まえられて。西園寺くん、ちょっと時間いいかな。あの、話があるんだけど……」  うっすら頬を染めてはにかむ姿には見覚えがあった。先日の飲み会で総一郎さまに腕を絡めていた女の子だった。 「話、ですか?」  と総一郎さまはわずかに眉をひそめた。話というのはほぼ間違いなく告白だろう。それに気が付いている総一郎さまは、気遣うようにちらりとこちらを見た。俺は胸に走る痛みに耐えながらも、慌てて笑顔をつくる。 「あ、俺この辺で待ってますね! どうぞ行ってきてください!」  不自然に明るい声が出てしまった。内心動揺しながらも、俺は必死にひくつきそうになる頬を引き上げて笑顔の形をキープし続けた。  総一郎さまは少し驚いた顔をしたが、俺が笑顔のままじっと動かないのを見ると、諦めたように視線を外した。 「すまない。すぐに戻る」 「大丈夫です! ごゆっくり!」  俺の余計な一言に、総一郎さまの眉がかすかに寄ったのが見えた。それでも彼はもう何も言わず、彼女と並んで歩きだした。  「あ……」   ーー行かないで。  総一郎さまの背中が遠ざかっていくのを見たら、そんな言葉が口から出そうになる。慌てて唇を噛むと、今度は急に目頭が熱くなってきた。必死に押し込めようにも、涙がじわじわと湧いてくる。  ついには両目から涙が溢れだしてきて、俺は人込みから逃れるように慌てて近くの校舎の影に走り込んだ。茂みの横に座り込み、服の裾で涙をごしごしとぬぐう。  別に総一郎さまの気持ちや誠実さを疑っているわけではない。だけど、今の俺にとっては現実を突き付けられたような気がした。  やはり女の子にはどんなに頑張っても敵わないのだ。閉じた目の裏に、さきほどの女の子の姿が蘇ってくる。  綺麗にカーブした長いまつげに、ピンク色に彩られた小鳥みたいに可愛らしい唇。大きく開いた襟元から少しだけ覗く柔らかそうな胸。スカートからのぞく白く細い足。  それらのものは男が決して持ちえないものだし、俺自身もそれが欲しいと思ったことなどない。それなのに、胸の底から湧き出てくるこの醜い嫉妬はなんなのだろう。 「あれ、木島?」  ふいに頭上から声がかかった。俺は身体をびくりと揺らし、それからゆっくりと顔を上げた。 「あ……」  そこには総一郎さまのご友人の|鴫野《しぎの》さんが立っていた。鴫野さんは俺の顔を見ると目を丸くする。 「どうして泣いてんだ? 西園寺は?」 「え? あ、違います、泣いてるわけじゃ……」  大の大人なのに泣きべそをかいてるところを見られ、あまりのいたたまれなさに俺は俯いた。鴫野さんはふうと息をつくと、俺の近くにしゃがみ込み顔を覗き込んできた。 「なんだよ、なんかあったのか? 悩みがあんなら聞くぞ。なんか飲み会のときも浮かない顔してたから心配してたんだよ。すごい勢いで西園寺が連れて帰っちまうから聞けなかったけど。もしかして西園寺とうまくいってねえの?」  うまくいってない、という言葉に俺は唇を噛んだ。 「俺が悪いんです。総一郎さまはこれ以上ないほどに気を使ってくれるのに、俺が……」  鴫野さんは穏やかな声で「うん」と先を促してくれる。それに励まされるように俺は言葉を続けた。 「俺、男の人と付き合うのが初めてなんです。正直言って、どうしたらいいかわからなくて」 「あ~。それはまあそうだよな。戸惑うのもわかるわ。相手はあの西園寺だしな」  俺はこくりと頷いた。 「総一郎さまは本当に素敵な人です。だからこそ俺、釣り合うような人間になろうって思いました。頑張ろうって。でももうそれも疲れてしまった。  俺……、  俺、  ――――どうやってあんあん喘いだらいいかわからないんです!」 「あ……あんあん⁉」  鴫野さんが叫ぶ。俺も負けじと叫び返した。 「だって! こんな男の声であんあん喘いだって、鴫野さんなら勃ちますか⁉ こんな男の身体に触りたいって思いますか⁉ 本当に総一郎さまは……俺なんかで興奮するんでしょうか……? 俺にはそうは思えない……」  両目から涙がぼたぼた落ちてきた。 「絶対、女の子のほうがいいって……思われるに、決まってます。だって俺には、おっぱいも、柔らかいおしりも、ない」  ひぐひぐと涙を流し鼻水を啜りながら、俺は両手で顔を覆った。 「セックスして総一郎さまにがっかりされるくらいなら、最初からしなければいいって思います。そういうことがなしで付き合っている人たちも世の中にはいる。でも、俺、総一郎さまと、せっくす、したい……」  なんて情けないんだろう。こんなに泣きわめいて、まるで子供じゃないか。そうは思っても涙を止めることが出来ない。  鴫野さんはしばらく黙っていたが、腕をのばし俺の頭をポンポンと撫でてくれた。 「……なあ、研究室で話すか? 人もいないだろうし、コーヒーでも入れるからよ。西園寺には俺から連絡いれておくし」 「……うっ、うっ、……ぐすっ、はい……」  なんて優しい人なのだろう。俺が鴫野さんの言葉に頷きかけたとき。 「そのような気遣いは無用だ! 悪いな鴫野!」  後ろから怒号のような大声降って来た。驚いて顔を上げると、なんと総一郎さまが前方五メートル先に仁王立ちしているではないか! いつからそこにいたのだろう。全然気配がなかった。  総一郎さまはつかつかと俺のそばまで歩いてくると、俺の頭の上に乗っていた鴫野さんの手のひらをぽいっと投げ捨てた。 「あっ! おいこの西園寺てめえ!」  と怒る鴫野さんを押しのけて、しゃがみこんでいる俺をぎゅうと力いっぱい抱きしめた。 「すまない、和希……。君のことを不安にさせてしまっていた」 「そう、いち、ろう、さま……」  優しい声だった。てっきり怒っているとばかり思っていたので、安堵でさらに涙が出てくる。  勝手に拗ねて怒って八つ当たりをしたというのに、どうしてこんなに優しいのだろう。また号泣し始めた俺を総一郎さまはよしよしと頭を撫でると、次の瞬間、なんと「よいしょ」と言って俺を横抱きに抱き上げた。 「うわっ! ちょ、ちょっと総一郎さま⁉」  急に抱え上げられ、俺はちょっとしたパニックだ。あまりの驚きに涙など引っ込んでしまった。  総一郎さまはわはは! と笑うと俺の額にチュッとキスを落とす。 「ここには邪魔ものがいるからな! 一刻も早く二人きりになれるところに行こう!」  総一郎さまは声高らかに宣言すると、俺を横抱きにしたまま走りだした。俺は慌てて総一郎さまにしがみつく。  訳がわからない! いったい何が起きているのだ? 助けて、鴫野さん!  縋るように背後の鴫野さんを見つめると、彼は呆れたように笑って俺に手を振った。

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