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第11話 ナイフとフォークの戦場
朝の光が、厨房の窓ガラスを淡く照らしていた。
前夜に磨いたステンレスの調理台が、反射でわずかに揺れる。
新しい一日。新しい戦場。
僕は、まな板の上の人参を刻みながら、自分の呼吸の速さに気づいていた。
リズムが、少しだけ速い。けれど、それは不安ではなかった。
むしろ……昂揚感。血の中を熱が駆け巡るような、静かな戦闘前の緊張だった。
開店準備を終えた店内には、まだお客はいない。
仮面の男──アキトは、いつものようにカウンター席の端に座り、紅茶を指先で揺らしている。
目が合うと、彼はわずかに仮面を傾けた。
「どう? “準備”は」
「できてるよ。……今日は、負ける気がしない」
僕はそう答えながら、エプロンの紐を結び直す。自分の声が、少しだけ強く響いている気がした。
今日は特別な日だった。
小さなSNSの投稿がバズり始めて以来、注目が少しずつ店に集まっている。
だがそれは、同時に“試される”ということでもあった。
そこへ、扉のベルが鳴った。
カラン、と軽やかな音。
だが、入ってきた男の足音は、重く、鋭い。
黒いコート。短く刈り込んだ髪。鋭い目つきと、黙したままの唇。
「……あれ、客じゃないな」
僕は直感でそう思った。
男はカウンターには目もくれず、厨房の奥へと無言で近づいてくる。
やがて、僕の前に立ち、無言でこちらを見つめた。
「何か……ご用ですか」
そう聞くと、彼はポケットから一枚の紙を出して、カウンターに置いた。
──“料理人募集の張り紙”。
「この厨房。俺に使わせろ」
男は、それだけを言った。
◆ ◆ ◆
厨房に立つ男の目は、まるで包丁だった。鋭く、冷たく、容赦がない。
「料理人を募集してるんだろ。俺を使え」
言葉に含まれる“主導権”の重さに、思わず息を飲んだ。
その態度。言い回し。どこまでも「雇ってもらう」側の口ぶりじゃない。
「……経験は?」
「元・ホテル『セラフィーノ』のメインシェフ」
聞いた瞬間、指先が止まった。あの名門ホテル。貴族階級が集う社交場。
厨房の頂点に立つ者しか入れない、選ばれた空間。
「でも、やめたんですよね。なぜ?」
「……料理長が客に媚びろと言った。俺は、それができなかった」
言葉は淡々としていたが、その奥にある“怒り”が滲んでいた。
「料理に、嘘を混ぜるな。味を殺すな。……そう言ったら、追い出されたよ」
僕は、その言葉にどこかで共鳴していた。
料理が“媚び”になった瞬間、それはもう、誇りじゃなくなる。
だが。
「腕を見せてもらわなきゃ、判断できません。……うちは、店ですから」
そう告げると、彼は静かにうなずいた。
「じゃあ、勝負しよう」
「……勝負?」
「ルイ、お前と俺。今日のランチタイム、“どっちの皿が多く注文されるか”で決めよう」
唐突な挑戦状だった。
「君の料理が勝てば、厨房に立たせてやる。俺のが勝てば、黙って出ていけ」
その目は真剣だった。まるで、命を賭ける戦いのような迫力を放っていた。
「いいだろ?」
僕はひとつ、息を吐いた。
厨房の空気が、ナイフの刃先みたいに尖っていた。
「……いいよ。“ナイフとフォークの戦場”へ、ようこそ」
◆ ◆ ◆
厨房の空気が、熱を帯びていく。
鍋の底が唸り、オイルの跳ねる音が、まるで短剣のように鋭く響いた。
マサキは無言で手を動かしていた。
余計な音は立てない。呼吸すらも削ぎ落とされたような静けさ。
まな板の上に落ちる包丁のリズムだけが、時間を刻んでいた。
(すごい……)
見惚れてしまいそうになる。
でも、今それを許せば、負ける。
僕は冷蔵庫に手を伸ばした。
今日のテーマは「即興で客に出せるランチプレート」。
高級食材ではない。限られた在庫と、限られた時間。
必要なのは、腕と、発想力。
(俺の武器は、“記憶”だ)
父と作った、あの誕生日のケーキ。
ナオトと育てた薔薇のスープ。
すべてが、今の僕の“血肉”になっている。
僕が選んだのは、鶏むね肉とレモン、それに刻みセロリ。
マサキは、ラム肉を骨ごとぶった切っている。
狙いは、香りとワイルドさ。明確に“勝ちにきている”。
(こっちは、逆張りでいく)
優しい味。見た目に美しい皿。
食べる前に、目で愛される料理──
僕はそれを、「ルイ」という名の武器にする。
オーブンが唸る。
香ばしさと柑橘の香りが立ち上り、客席から「いい匂い……」という声が漏れた。
「あと10分!」
アキトの声が飛ぶ。
この厨房の“審判”は、あくまで彼だ。
だけど──一番厳しいジャッジを下すのは、きっと“客”だ。
仕上げのソースを、指先でなぞる。
料理は、嘘をつけない。
どれだけ取り繕っても、この皿には、今の僕の“人生”が出る。
「……完成」
同時だった。
僕の皿には、レモンソースの鶏ロースト。
マサキの皿には、スパイス香るラムのグリル。
2つの皿が、カウンターに並ぶ。
まるで、刀と剣。
どちらが鋭いかは、これからの客の反応が教えてくれる。
◆ ◆ ◆
客のナイフとフォークが、同時に動いた。
肉を切る音。ソースをすくう音。
食器が触れ合う、静かな戦場。
一口、咀嚼。
眉が動く。視線が泳ぐ。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……これ、うまい」
「柔らかい……香りもいい」
「どっちも全然違う味なのに……選べない……」
緊張が、空気に張り詰める。
僕の皿は「丁寧さ」が売り。
マサキの皿は「野性味」そのもの。
勝敗は、好みに左右される──それは分かっていた。
けれど、審判を下したのは、意外にもアキトだった。
「今日の勝者は──ルイ」
一瞬、誰も声を出せなかった。
マサキが軽く眉を動かした以外、場が静まり返る。
「……理由を聞いてもいいか?」
マサキが、低く静かに問う。
「彼の皿には、“余白”がなかった。すべての一口が、意味を持っていた。
それは、人生を全部使って書いた物語だった」
僕はその言葉に、なぜか喉が詰まりそうになった。
ようやく、言葉にならない何かが、救われた気がして。
マサキは、静かに僕を見た。
その目に怒りも悔しさもない。ただ、正直な評価を受け止めた男の顔だった。
「……舐めてた。だが、お前の料理──魂ごとぶつけてきやがったな」
「僕の全部、料理にぶつけただけだよ」
それを聞いて、彼は小さく笑った。
あの鋭かった顔に、少しだけ人間味が戻っていた。
「じゃあ、次は俺が“全部”で返す」
その言葉に、妙な温度があった。
敵意じゃない。競争でもない。
それは、厨房という戦場でしか育たない、“敬意”だった。
「一緒にやるか?」
「……条件次第だな」
「じゃあ、まずは皿洗いから」
「……聞いてねぇぞ」
マサキが肩をすくめ、笑った。
その笑い声に、厨房の空気がやっと柔らかくなる。
ようやく、ここに“仲間”ができた気がした。
それは料理より難しい、奇跡のような勝利だった。
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