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 第12話 夜に歌う天使

 朝の光が差し込む厨房には、いつもの焦げた匂いと、少しだけ新しい気配があった。  マサキの包丁がまな板に触れるたび、刃の音が規則的に響く。  フライパンの中ではルイが試作した「野菜のブイヨン煮」が、小さく泡を立てている。 「……うまくいかないな」  匙を持ったまま、ルイはため息をついた。  出汁の奥行きが足りない。香りも弱い。  素材は間違っていないはずなのに、“何か”が決定的に足りない気がする。  マサキは無言で調味料棚からローリエを一本差し出した。 「……ありがとう」  ルイは少し照れながら受け取る。無言の助言にも、慣れてきた。  店の空気が、少しずつ“チーム”になってきた気がした。  アキトは朝から姿を見せず、今日の店は静かだった。  と、そのとき──  ふわりと、歌声が聞こえた。  誰のものでもないはずの声。  厨房の裏から流れてきたそれは、まるで天井のスピーカーが鳴っているようだった。  伸びやかで、透き通ったソプラノ。  哀しみも、喜びも、すべて包み込むような音色。  ルイは思わず、手を止めていた。  声の主は、フロアのほうにいた。  カウンター席の奥、朝の日差しの中に佇む、白いワンピースの少女。  彼女は、歌っていた。  客のいない店内で、誰に聴かせるでもなく。  その姿はまるで──  舞い降りた天使のようだった。  歌い終えると、彼女はくるりと振り向いて言った。 「ねえ、ここって、新しく始まったレストランだよね?  ……うん、やっぱり、いい声が響くと思った!」  にこりと笑ったその瞳は、宝石のように澄んでいて、どこか寂しげでもあった。 「こんにちは。あたし、シオン。今日からここで、歌っていい?」  その笑顔は、あまりにも自然で、まるで“断る選択肢など最初からない”と言っているかのようだった。 ◆  ◆  ◆ 「……今日から?」  ルイは思わず聞き返していた。  厨房の奥に立ったまま、白いワンピースの少女──シオンを見つめる。 「うん。だって、アキトさんに言われたもん。『君の声が、この店に必要だ』って」 「アキトが……?」  あの仮面の男は、また勝手に話を進めていたらしい。  でもルイは、そのことに強く反発できなかった。  この店に必要なのは、料理だけじゃない。それくらい、今の彼にもわかっていた。 「SNS、見たよ。ここ、最近ちょっと話題になってる。  でもまだバズってない。味だけじゃ、人の心は動かせない時代だからね」  シオンは、店内を一周するように歩きながら言った。 「……君は、何者?」 「“歌うのが好きなだけ”の女の子、って言えば十分かな?」  そう言って笑う彼女の声は、まるで風のように軽やかだった。  けれどその目の奥にあるものは──決して“軽い”ものではなかった。 「ここ、好きだよ。香りも音も……悲しさも全部混ざってる。  誰かの“再スタート”の匂いがするんだもん」  シオンは椅子に腰かけ、カウンター越しにルイを見た。 「でも、“再スタート”って、ひとりじゃできないでしょ?」  その言葉が、胸に刺さった。  父を失い、家を追われ、街に見捨てられたあの日。  孤独の中、ルイは「助けて」とさえ言えなかった。  でも今──自分の店に、こうして誰かが“入ってくる”。  それは、少し怖くて、でもほんの少しだけ嬉しかった。 「……君、どこで歌ってたの?」 「いろいろ。ライブバーとか、路上とか、時々は病院。  “届けたい相手”がいる場所で歌うのが、あたしのスタイル」  “届けたい相手”。  それが何を意味するのか、ルイはすぐには聞けなかった。 「ルイくん」  急に呼ばれて、息が止まりかける。 「今日から、あたしはこの店の“歌姫”になるから。よろしくね」  その宣言は、明るいのに、なぜか涙の匂いがした。 ◆  ◆  ◆  その夜。  カウンターの上に小さなマイクが置かれ、照明が少しだけ暗くなった。  店内の中央、グラスの反響が響く静かな時間帯。  客はまだまばらだったが、シオンはすっと立ち、ピアノの隣に立った。  BGMを止めたのはアキトだ。無言でリモコンを下ろし、仮面の奥の目を細めていた。  彼女の歌が、空気の密度を変えることを、もう知っていたのかもしれない。 「今夜だけ、ちょっと付き合ってください」  そう言って、シオンはマイクを持った。  音楽が流れる。  オリジナルのアレンジらしい、静かなバラード。  けれど最初の一音が響いた瞬間、空間が“止まった”気がした。  ──光だった。  声が、空気を振動させているのではなく、  光になって、そこにいる人の心をすくい上げていくようだった。  ルイは、厨房の奥で動きを止めた。  手にしていたフライパンが、少しだけ熱を逃したような気がした。  “こんなにも静かな歌声が、人の心を奪うなんて”。  まるで歌そのものが、誰かに「生きて」と語りかけているようだった。  派手じゃない。上手いとか下手じゃない。ただ、真っすぐに刺さる。  自分には、できない表現。  “音”の料理人。  それが──彼女だった。  やがて歌が終わり、沈黙が数秒落ちる。  そして、ひとりの客が拍手をした。  それが連鎖して、静かな店内にいくつもの手が鳴る。 「ありがとう」  シオンは、控えめに一礼した。  ルイの胸が、少しだけ、熱くなっていた。  自分の手で作った料理と、彼女の声と。  それが同じ空間に“ある”ということが、初めて店に“魂”を吹き込んでいる気がした。 ◆  ◆  ◆  歌が終わっても、余韻は消えなかった。  グラスが傾き、誰かが口を開きかけて──また閉じる。  沈黙が、ひとつの敬意のように感じられる時間だった。  ルイは厨房の隅に立っていた。  動けなかった。というより、動きたくなかった。  まるで、胸の奥に静かに何かが“積もって”いく感覚があった。 (……きれい、だった)  その言葉が喉の奥に引っかかる。  悔しいとか、嫉妬じゃない。  でも、泣きそうだった。 (俺には、あんなふうに誰かの心に触れる力があるんだろうか)  料理は、舌を満たす。腹を満たす。  けれど──彼女の声は、心そのものに触れていた。  その差に、気づいてしまった。 (まだ、足りないんだ。俺には)  あの夜、何もかもを失った自分が、唯一拾い上げたものが“料理”だった。  食べることで、誰かとつながる。  つくることで、生きていると証明する。  でも、今日、知ってしまった。  それだけじゃ足りない。心までは届かない。  ――歌声が、もう一歩、先にいた。  ふと、視線を上げると、アキトがこちらを見ていた。  仮面の下から、その眼差しだけが静かに微笑んでいた。 「……悔しいかい?」  声は発されていないのに、そう問われた気がした。 「悔しいよ」  ルイは、誰にも届かない声で答えた。  でも、それは負けではなかった。  炎のような感情が、静かに腹の奥で灯っていた。 (俺も、届かせる。料理で。味で。この手で)  この店に来る人の心に、  この場所を選んでくれた彼女のために、  ──そして、かつて自分を捨てた“あの家”の連中を黙らせるために。  明かりが落ちていく閉店後、  厨房の奥でルイは包丁を手にした。  砥石を握り直す。刃を整える音が、夜に響いた。  それは、再出発の合図のようだった。

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