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 第13話 スポットライトの孤独

 昼のピークが終わっても、店はざわついていた。  SNSで拡散された動画の影響で、開店前から人が並ぶようになった。  「こんなに反響があるとは」と、アキトでさえ驚いていたほどだ。  店の入り口には、シオンの写真付きの小さな看板。  「毎夜21時、歌姫のミニライブ開催中」と手書きの文字が躍る。  客たちは料理を撮り、タグをつけて投稿し、店の名は一気に拡がっていった。  ルイはひたすら、厨房で手を動かしていた。  フライパンの音、油の跳ねる音、火の匂い、次の注文──  流れるような作業。でも、心はどこか流れから置いていかれていた。  「美味しかったです!」  「え、やば……この出汁、エモい」  「インスタで見たやつ、本物だ!」  客の声が次々に飛び込んでくる。  それなのに、ルイの胸はなぜか冷たいままだった。  ――何かが、届いていない。  作っている。受け取られている。  でも、伝わっている感触がない。  まるで透明な板を通して、遠くの世界を眺めているみたいだった。  「あの人がルイくん? 顔ちっさ……!」  「元・お坊ちゃまだっけ? マジ落差ヤバい〜」  笑い声が聞こえるたび、感情が少しだけ削れていく。  けれどルイは、厨房から一歩も出ずに、黙って料理を続けた。  “届けたい”と思ったはずの気持ちが、  今は“届かなくてもいい”にすり替わりそうで──怖かった。 ◆  ◆  ◆ 「今夜のステージ、よろしくね!」  シオンが軽やかに手を振り、客席に向かってウインクを飛ばす。  店内が、ぱっと華やいだ。まるで小さな舞台の幕が上がったようだった。  ルイは、厨房の奥からそれを見ていた。  彼女の声、仕草、立ち方──すべてが光を集めていた。  「この歌、君のために」  その一言で、店の空気が変わる。  客たちは息を飲み、グラスを持つ手を止める。  ルイが作った料理が、その空気の一部になる。  それは、理想的なはずだった。  でも……その理想に、自分は含まれていない気がした。 「ねえ、ルイくん!」  ステージのあと、シオンが厨房に顔を出す。  頬が上気し、目がきらきらと輝いていた。 「今日のカレー、最高だった! チキンの火入れ、神がかってたよ!」 「……ありがとう」  言葉は口を出たけれど、表情は曇ったままだった。 「ルイくん、どうしたの?」  シオンが首をかしげる。心配そうな声。でも、ルイはかぶりを振った。 「別に。疲れてるだけ」 「……そっか」  彼女は、それ以上何も言わなかった。  それが、少しだけ寂しかった。  スポットライトの下、誰かが輝けば、誰かは影になる。  そしてその影の濃さは──自分にしかわからない。 ◆  ◆  ◆  深夜、厨房の片隅。  皿を拭く手が止まった。  窓の外に映る自分の顔が、やけに他人のようだった。  人気が出た。予約は埋まる。SNSでは「奇跡の味」と騒がれる。  でも──それが、なぜか「遠い」感覚だった。  あの客たちは、シオンの歌声に魅了され、アキトの演出に酔い、  ルイの料理を“セット”として受け取っている。  もちろん、それでいいはずだった。  自分の手で、価値を作っている。  それは、落ちる前の自分にはなかった“誇り”のはずだった。  でも、満たされなかった。  彼女が歌えば、誰かが応える。  僕の料理には、誰も返事をしない──そんな気がした。 「誰も……俺のことなんか見てない」  つぶやいた声は、小さすぎて誰にも届かない。  届く必要もなかった。ただ、自分の耳に届けばよかった。  照明を落とし、フライパンを磨き終えたころには、もう真夜中だった。  今日は、誰も「ありがとう」とは言わなかった。  誰もルイの背中を見ていなかった。  それでも、明日も厨房に立つ。  ナオトに勝つと決めたから。  あの家を潰すと誓ったから。  SNSでは「ルイくんが作る料理最高!」とか、「ビジュ良すぎて泣いた」とか、名前だけ が勝手に走っていく。 「タグつけとこ! #ルイ飯 #天使の味」と言いながら、客のスマホは料理の皿だけを切り取っていた。  カウンター越しの笑顔。  名前は呼ばれるのに、顔は一度も見られなかった。  皿の向こうにいる僕は、もう誰の目にも映っていないんじゃないかって。  料理だけが、この店に“残っている”気がした。  ──けれど、心のどこかで、別の声がささやこうとしている。  喉元までせり上がった言葉を、何度も飲み込んだ。  でも、ついにこらえきれなくなった。 「誰か、俺を見てよ」  声に出した瞬間、喉の奥が詰まった。  僕の存在は、いつの間にか、盛りつけの一部にすらなっていなかった…… ◆  ◆  ◆  誰もいないホール。  さっきまで人の熱気に満ちていた空間は、冷めきった舞台のように静かだった。  カウンターに座るアキトの背中が、仄暗い照明に浮かんでいる。 「終わったよ」  そう声をかけたつもりだったが、実際はただ喉が震えただけだった。  アキトは何も言わず、ただ紅茶のグラスを回していた。氷はもう、完全に溶けていた。  ルイは黙って向かいの椅子に座った。  視線が合わない。仮面の奥を覗けないのに、それが妙に居心地よく感じた。 「……料理が褒められるのに、嬉しくないんだ。  俺がそこにいない気がして」  口にしてから、ルイは黙った。  自分が言いたかったのは、それだけじゃなかった。  でも、その続きを言えば、きっと泣いてしまう。  だから黙った。  アキトは少しだけグラスを傾け、言った。 「君は、ちゃんと見られてるよ」 「……誰に?」 「僕に、だよ」  静かな声だった。仮面越しでも、温度が伝わる気がした。  ルイは俯き、テーブルに指先を置いた。 「……あの人たちの笑顔、嫌いじゃない。  でも、あの視線の先に“俺”はいないんだよ。  “期待通りの味”を出す人間であればいい──  そういう目。そういう拍手。  それが正しいって、わかってるのに……」  ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれる。 「なのに、孤独だって感じてる自分が、いちばん気持ち悪い」  その瞬間、仮面がルイの視線の高さまで降りてきた。  アキトが椅子を離れ、ルイの前に膝をついたのだ。 「君がそう感じるのは、感受性があるから。  壊れていない証拠だよ」  その言葉に、堰が切れた。  ルイは静かに目を伏せ、涙を落とした。  すすり泣くこともなく、ただ音もなく、ぽろりと涙がひとしずく落ちる。  冷たい厨房に、唯一残った体温のように。 「……悔しいな」 「何が?」 「“誰にも見られてない”って泣いたその瞬間に……  お前にだけ、見られてたっていうのがさ」  アキトは答えなかった。  ただ、そっとルイの手を取った。  仮面越しの目元が揺れる。 「君が見てほしいと思う限り、僕は見る。  君が選ばなくても、僕が君を選ぶ。それは変わらない」  その言葉に、ルイの喉がかすかに震えた。  それでももう涙は出なかった。すでに、すべて落としきった後だった。 「……ありがとう、とは言わないよ」 「うん、それでいい」  夜の静けさが、ふたりを包み込む。  そして次の朝、ルイはもう一度厨房に立つ。  スポットライトは外れた。  けれど、それでも彼は“料理人としての自分”を見つめ始めていた。

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