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 第14話 君が見ていたのは、俺じゃない

「ルイーっ、焼きたてクロワッサン、勝手に持ってったでしょー!」  厨房の奥で声が飛ぶ。  シオンの手には、少しかじられたパン。 「……味見だよ。仕上がり確認」 「嘘。証拠がある。バターのとこだけ減ってるのはズルいの!」 「うるさい。だったら仕込み手伝って」  朝の喧騒。店の開店準備は、いつものようにざわついていた。  マサキは黙々と野菜を刻み、シオンは音楽をかけながらグラスを磨いている。  ルイは、パンを噛みながら帳簿に目を通していた。  売上は上々。予約もほぼ満席。  ──なのに、どこか気が急く。  心が落ち着かないのは、疲れのせいじゃない。  妙に空気がざわめいて感じるのだ。  厨房の換気扇の音、通りを走る自転車の音。  そのすべてが、“今日は違う”と囁いているようで。  ふと、外の通りを見た。  通行人のひとりが、こちらの看板を一瞥して立ち止まる。  顔は見えなかった。  でも、どこか──既視感のある背中。  風が吹いた。  その一瞬、ルイの背筋に、冬の夜の冷たさがよぎった。 (……まさか、ね)  笑って流すには、胸の奥が騒ぎすぎていた。 ◆  ◆  ◆ 「いらっしゃいませ──」  言いかけた声が、止まった。  ドアの鈴が軽く鳴って、入ってきた男は、  当たり前のように店内を見渡し、静かに歩を進める。  ──真神ナオト。  変わらない金髪。変わらない背筋。  変わったのは、目の奥。  どこか、何かを探しているような色。 (なんで、ここに──)  声にならなかった。  ナオトは、ルイを一瞥もせず、カウンター席に腰を下ろす。 「ランチ、ひとつ」  まるで何事もなかったように告げる声。  ルイの顔を見ても、微塵の反応もない。 (……気づいてない?)  心臓がどく、と跳ねた。  いや、それ以上に、複雑な感情が渦巻く。  気づいていないのが、悔しい。  でも、気づかれたら──どうすればいい。  震える指を隠すように、厨房へ引っ込んだ。  マサキと目が合う。 「……どうした?」 「なんでもない。注文、入っただけ」  まるで平然を装うように、鍋に火を入れる。  ナオトのための料理なんて、本来なら作りたくもない。  けれど── (違う。“あの時”の俺じゃない。見せてやる)  焼き色、香り、皿の余白。  ひとつひとつの工程に、“今の自分”を込めていく。  これは、戦いだ。  言葉で刺し返せない代わりに、料理で叩きつける。 (……食ってみろ。これが、俺の「今」だ) ◆  ◆  ◆  皿を置くとき、指先がほんの一瞬、震えた。  けれどナオトは、それに気づくことなく、ただ静かにフォークを取る。  香ばしいバターの香りと、赤ワインで煮込んだソースの艶。  ルイがこの店で何度も試作し、ようやく完成させた──新作のランチプレートだった。  一口。  ナオトは言葉を発さない。  二口。  眉がわずかに動く。  三口。  フォークが止まり、わずかに視線が宙に泳ぐ。  そして──ふ、と小さく笑った。 「……変な話だな。初めて食べるはずなのに、懐かしい気がする」  その言葉に、ルイの心臓がひときわ強く打った。 (気づくな、気づくな──)  今さら“あのルイ”だと知られたくない。  でも、わかってほしい。認めてほしい。  矛盾した願いが、胸の奥で擦れあって痛む。 「これ、誰が作った?」  ナオトがふと問いかけた。  ルイは無言のまま、一歩、前に出る。  そして、静かに、ほんの少しだけ首をかしげた。 「この店の“料理人”が」  仮面のような笑みを浮かべて、ナオトの目をまっすぐ見返した。  その視線に、ナオトは一瞬だけ、言葉を失ったように固まる。 (俺を知らなくてもいい。でも、俺の料理だけは、ちゃんと届いてくれ)  それが、今のルイにできる、唯一の“会話”だった。 ◆  ◆  ◆    ナオトは食後のコーヒーをひと口だけ飲むと、手を止めた。  テーブルに置かれたフォークが、かすかに音を立てる。 「……不思議だ」  ふと、誰に語りかけるでもなく、そう漏らす。 「このソースの味──昔、誰かと庭で食べた何かに似ている」  ルイの喉が、ごくりと鳴った。  視線を上げることはできなかった。 (やめろ、思い出さないで……今の俺を見ろ)  けれどナオトは、遠い記憶の引き出しを指先でなぞるように、淡々と続けた。 「子どもの頃、誰かと一緒に作った……料理というより、実験に近い何か。ぐちゃぐちゃで、食べられる代物じゃなかった。でも……楽しかったんだ。あのときだけは、何かを一緒に“作ってる”って思えたから」  その声に、ルイの中の何かが静かに揺れた。  ナオトの語る“記憶”は、ルイにとっても確かに存在した。  あの夏の日。庭の隅の、壊れかけたテーブルの上。  バターも塩も入れ忘れて、ぐずぐずに焦がしたトースト。  笑っていたナオト。焦げたパンを丸めながら「食えるかも」って言った、あの横顔──  でも、ナオトはその「誰か」の名前を出さない。  出せないのか、それとも──忘れてしまったのか。  わずかな沈黙が流れたあと、ナオトは席を立った。  コートを羽織りながら、もう一度だけルイの方を見た。 「料理って、不思議だよな。言葉よりも、心の中を暴く」  その言葉には、軽さと重さが同時にあった。 「……また来るよ。気が向いたら」  そう言い残して、彼は扉を開けて出ていく。  外の風が一瞬、店の中まで吹き抜けて、ルイの髪を揺らした。  去っていく背中を、ルイは追わなかった。  追えなかった。  ただ、自分の手のひらを見つめる。  ソースの匂いが、まだそこに残っている気がした。 「……気づかないでよ、ナオト」  そう呟いた声が、誰にも届かない空気の中に消えていく。  ──でも、届かなくてもいい。  いまの僕を、見ないで。  “また”失望されたくないから。 「……気づかないでよ、ナオト」  そう呟いた声が、誰にも届かない空気の中に消えていく。  ──でも、届かなくてもいい。  いまの僕を、見ないで。  “また”失望されたくないから。  ……風が、もう一度だけ吹いた。  扉の鈴は鳴っていないのに、誰かがすぐ外に立っているような気配。  ルイはそっと振り返る。  けれど、そこには誰もいなかった。  ただ、ガラス越しの影の中──ひときわ黒い“残像”だけが、確かに揺れていた。  (……アキト)  名前を出せば壊れてしまいそうで、唇を噛んだ。  自分が、誰の視線に一番敏感なのかを、嫌というほど知っていた。

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