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第15話 翠の瞳に棘が咲く
営業が終わった夜の店内は、静かだった。
厨房の換気扇が、まだ微かに唸りを上げている。テーブルは拭き上げられ、椅子も整然と並べられていた。油とバターの残り香が、まだ空気の奥に沈んでいる。
ルイはレジ裏のカウンターで、仕入れノートを見直していた。
「……明日、トマトもう少し増やすか」
独り言のようにつぶやいた声に、シオンが「ん?」と返す。
「また新しいソースでも考えてるの?」
シオンはグラスを磨きながら、ルイの方に目を向けていた。ネイルのない指先が、ガラスのふちをなぞる。
「……ちょっと試したいのがあるだけ」
曖昧に答えると、彼女はふっと笑った。
「そういう時のルイ、眉間に皺寄るから、すぐわかるよ」
ルイは無言で視線を落とした。何かを見透かされるのは、苦手だった。
「……マサキ、先に帰ったの?」
話を変えるように尋ねる。
「うん。『明日早番、任せた』って」
そう言って、シオンは音楽のスピーカーを止めた。ジャズの余韻が空気に吸い込まれ、店内はいっそう静かになる。
二人きりの空間。
ルイは、妙に心臓が静かすぎることに気づいていた。
シオンは何も言わないまま、最後のグラスを棚に戻した。そして、ほんの少しだけ、こちらへ歩を進める。
靴音は、響かなかった。まるで水面を歩いてくるみたいに、音のない足取りだった。
「ねえ、ルイ」
その声は、笑顔の仮面の下から、そっと漏れた本音のようだった。
「ちょっとだけ、話せる?」
ルイは、一瞬だけ戸惑った。けれど──うなずく以外、他に選択肢はなかった。
◆ ◆ ◆
窓際の二人掛けの席に、シオンはすっと腰を下ろした。
ルイは向かいに座る。わずかに距離があるのに、妙に息苦しかった。
「……こんなふうにちゃんと話すの、初めてかも」
シオンは、テーブルに指先をそっと置いた。細くて長い爪が、かすかに光を反射していた。
「ルイって、いつも何かを隠してる感じがするから」
「……隠してるわけじゃない」
「ううん、違う。隠すっていうより……傷つきたくないだけなんだと思う」
その言葉に、ルイは一瞬、息を詰まらせた。
「だって私も、そうだから。笑ってる方が楽だし、“いい子”って思われてるほうが安心できるし」
シオンの瞳は、翠色だった。夜の店内で、月明かりを映すように澄んでいる。
「でもね、たまに寂しくなるの。たとえば、誰かの声を聞いたときとか──」
ルイは言葉を挟まなかった。ただ、視線を少しだけ逸らす。
「私ね、ルイが最初に厨房で焦がしちゃったオムレツ、あれすごく好きだったよ」
唐突な話題転換に、一瞬だけルイが眉をひそめる。
「……あれ、失敗作だったろ」
「うん。でも、すごく頑張ってた。何かを掴もうとしてた。……そういうのって、味になるんだよ」
沈黙が落ちる。
シオンはテーブルの縁に触れながら、ひと呼吸置いてから言った。
「ルイ、私、あなたのことが──好きだよ」
その言葉は、あまりにも静かに、あまりにも真っ直ぐに放たれた。
冗談じゃなかった。慰めでもなかった。シオンの目が、それを証明していた。
◆ ◆ ◆
「好きだよ」
その言葉は、過剰でもなく、足りなくもなかった。ただ真っ直ぐに、シオンの心から出てきたものだった。
けれどルイの心は──そのまま受け取れるほど、まっすぐではなかった。
「……ありがとう」
やっとのことで出た言葉が、それだった。
(違う)
心のどこかが、そう呟いた。
「でも、それは……ごめん。応えられない」
シオンの表情は、少しも崩れなかった。笑ってもいなかったけれど、泣きそうにも見えなかった。
ただ、まぶたをひとつ、ゆっくり閉じただけ。
「そっか」
その「そっか」には、何も詰まっていないようで、いろんなものが詰まっていた。
「誰かを好きになることに、意味なんてなくていいと思ってた。でも、ほんとは……」
「シオン……」
「ルイは、まだ誰かの中で生きてるんだね」
その言葉は、ナイフみたいな棘を持っていた。
それが誰のことなのか、ルイはすぐにわかった。ナオトの顔が、喉の奥に引っかかった。
──もしかすると、アキトのことかもしれない。
けれど、どちらの名前も出せなかった。出した瞬間、何かが崩れてしまう気がした。
「私ね、たぶんずっと、ルイの“音”が好きだったの」
「音?」
「ルイが料理してるときの音。包丁のリズムとか、鍋の音とか。静かだけど、何か伝えようとしてる感じがして……」
──まるで、歌みたいだった。
そう言ったシオンの言葉は、まるで自分の心に残った痕跡をなぞるようだった。
「……それだけで、好きになるには十分だった」
ルイは何も返せなかった。
手のひらを見つめる。いくつもの火傷と、小さな傷跡。どれも、シオンの言う“音”の一部だった。
「……ごめん。俺は、まだ誰かを愛せるほど綺麗じゃない」
そう言った声は、小さく震えていた。
◆ ◆ ◆
シオンはしばらく無言で、カウンターのグラスに水を注いでいた。
氷の音だけが静かに響く。
それは、返事の代わりだった。
「……ねえ、ルイ」
ようやく口を開いたその声は、どこまでも穏やかだった。泣いていない。怒ってもいない。けれど、ひどく遠かった。
「これからも、歌っていい?」
「……ああ」
「ここで、みんなの前で歌っていい?」
「もちろん」
「あなたの料理と一緒に、音を届けていい?」
ルイは迷わず、うなずいた。
「……それが、俺にとっても救いだから」
その言葉に、シオンのまぶたがかすかに揺れた。
きっと彼女はそれを「応え」として受け取ったのだろう。恋の答えではなく、生きるための答えとして。
「……ありがとう」
それだけ言って、シオンは一歩だけ下がった。
「好き、って言ってよかった」
「……俺には、もったいない言葉だったよ」
「もったいなくなんかないよ」
振り返らずに、彼女は店の奥へ歩いていった。
少し足早に。まるで、音が涙に変わる前に逃げるように。
残されたルイは、ゆっくりと厨房の壁にもたれかかった。
彼女の声が、まだ耳の奥で鳴っていた。
けれどその響きが心のどこかを刺すのではなく、そっと撫でていた。
「……ありがとう、シオン」
自分はまだ、誰かを愛せるような人間じゃない。
でも、誰かに愛された事実は、消えない。
それが、今のルイの足元を支える唯一の“現実”だった。
そのとき、背後で厨房の扉が開く音がした。
「……終わったか」
無骨な声。マサキだった。
「うん。……終わった」
マサキは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いてから言った。
「じゃあ、始めようぜ」
「……何を?」
「今日の仕込みだよ」
それは、まるで“人生”みたいな言葉だった。
ルイは小さく笑った。
涙は流れていない。でも、胸の奥の何かが静かにほどけた気がした。
「……うん。始めよう」
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