17 / 44

 第15話 翠の瞳に棘が咲く

 営業が終わった夜の店内は、静かだった。  厨房の換気扇が、まだ微かに唸りを上げている。テーブルは拭き上げられ、椅子も整然と並べられていた。油とバターの残り香が、まだ空気の奥に沈んでいる。  ルイはレジ裏のカウンターで、仕入れノートを見直していた。  「……明日、トマトもう少し増やすか」  独り言のようにつぶやいた声に、シオンが「ん?」と返す。  「また新しいソースでも考えてるの?」  シオンはグラスを磨きながら、ルイの方に目を向けていた。ネイルのない指先が、ガラスのふちをなぞる。  「……ちょっと試したいのがあるだけ」  曖昧に答えると、彼女はふっと笑った。  「そういう時のルイ、眉間に皺寄るから、すぐわかるよ」  ルイは無言で視線を落とした。何かを見透かされるのは、苦手だった。  「……マサキ、先に帰ったの?」  話を変えるように尋ねる。  「うん。『明日早番、任せた』って」  そう言って、シオンは音楽のスピーカーを止めた。ジャズの余韻が空気に吸い込まれ、店内はいっそう静かになる。  二人きりの空間。  ルイは、妙に心臓が静かすぎることに気づいていた。  シオンは何も言わないまま、最後のグラスを棚に戻した。そして、ほんの少しだけ、こちらへ歩を進める。  靴音は、響かなかった。まるで水面を歩いてくるみたいに、音のない足取りだった。  「ねえ、ルイ」  その声は、笑顔の仮面の下から、そっと漏れた本音のようだった。  「ちょっとだけ、話せる?」  ルイは、一瞬だけ戸惑った。けれど──うなずく以外、他に選択肢はなかった。 ◆  ◆  ◆  窓際の二人掛けの席に、シオンはすっと腰を下ろした。  ルイは向かいに座る。わずかに距離があるのに、妙に息苦しかった。  「……こんなふうにちゃんと話すの、初めてかも」  シオンは、テーブルに指先をそっと置いた。細くて長い爪が、かすかに光を反射していた。  「ルイって、いつも何かを隠してる感じがするから」  「……隠してるわけじゃない」  「ううん、違う。隠すっていうより……傷つきたくないだけなんだと思う」  その言葉に、ルイは一瞬、息を詰まらせた。  「だって私も、そうだから。笑ってる方が楽だし、“いい子”って思われてるほうが安心できるし」  シオンの瞳は、翠色だった。夜の店内で、月明かりを映すように澄んでいる。  「でもね、たまに寂しくなるの。たとえば、誰かの声を聞いたときとか──」  ルイは言葉を挟まなかった。ただ、視線を少しだけ逸らす。  「私ね、ルイが最初に厨房で焦がしちゃったオムレツ、あれすごく好きだったよ」  唐突な話題転換に、一瞬だけルイが眉をひそめる。  「……あれ、失敗作だったろ」  「うん。でも、すごく頑張ってた。何かを掴もうとしてた。……そういうのって、味になるんだよ」  沈黙が落ちる。  シオンはテーブルの縁に触れながら、ひと呼吸置いてから言った。  「ルイ、私、あなたのことが──好きだよ」  その言葉は、あまりにも静かに、あまりにも真っ直ぐに放たれた。  冗談じゃなかった。慰めでもなかった。シオンの目が、それを証明していた。 ◆  ◆  ◆  「好きだよ」  その言葉は、過剰でもなく、足りなくもなかった。ただ真っ直ぐに、シオンの心から出てきたものだった。  けれどルイの心は──そのまま受け取れるほど、まっすぐではなかった。  「……ありがとう」  やっとのことで出た言葉が、それだった。  (違う)  心のどこかが、そう呟いた。  「でも、それは……ごめん。応えられない」  シオンの表情は、少しも崩れなかった。笑ってもいなかったけれど、泣きそうにも見えなかった。  ただ、まぶたをひとつ、ゆっくり閉じただけ。  「そっか」  その「そっか」には、何も詰まっていないようで、いろんなものが詰まっていた。  「誰かを好きになることに、意味なんてなくていいと思ってた。でも、ほんとは……」  「シオン……」  「ルイは、まだ誰かの中で生きてるんだね」  その言葉は、ナイフみたいな棘を持っていた。  それが誰のことなのか、ルイはすぐにわかった。ナオトの顔が、喉の奥に引っかかった。  ──もしかすると、アキトのことかもしれない。  けれど、どちらの名前も出せなかった。出した瞬間、何かが崩れてしまう気がした。  「私ね、たぶんずっと、ルイの“音”が好きだったの」  「音?」  「ルイが料理してるときの音。包丁のリズムとか、鍋の音とか。静かだけど、何か伝えようとしてる感じがして……」   ──まるで、歌みたいだった。  そう言ったシオンの言葉は、まるで自分の心に残った痕跡をなぞるようだった。  「……それだけで、好きになるには十分だった」  ルイは何も返せなかった。  手のひらを見つめる。いくつもの火傷と、小さな傷跡。どれも、シオンの言う“音”の一部だった。  「……ごめん。俺は、まだ誰かを愛せるほど綺麗じゃない」  そう言った声は、小さく震えていた。 ◆  ◆  ◆  シオンはしばらく無言で、カウンターのグラスに水を注いでいた。  氷の音だけが静かに響く。  それは、返事の代わりだった。  「……ねえ、ルイ」  ようやく口を開いたその声は、どこまでも穏やかだった。泣いていない。怒ってもいない。けれど、ひどく遠かった。  「これからも、歌っていい?」  「……ああ」  「ここで、みんなの前で歌っていい?」  「もちろん」  「あなたの料理と一緒に、音を届けていい?」  ルイは迷わず、うなずいた。  「……それが、俺にとっても救いだから」  その言葉に、シオンのまぶたがかすかに揺れた。  きっと彼女はそれを「応え」として受け取ったのだろう。恋の答えではなく、生きるための答えとして。  「……ありがとう」  それだけ言って、シオンは一歩だけ下がった。  「好き、って言ってよかった」  「……俺には、もったいない言葉だったよ」  「もったいなくなんかないよ」  振り返らずに、彼女は店の奥へ歩いていった。  少し足早に。まるで、音が涙に変わる前に逃げるように。    残されたルイは、ゆっくりと厨房の壁にもたれかかった。  彼女の声が、まだ耳の奥で鳴っていた。  けれどその響きが心のどこかを刺すのではなく、そっと撫でていた。  「……ありがとう、シオン」  自分はまだ、誰かを愛せるような人間じゃない。  でも、誰かに愛された事実は、消えない。  それが、今のルイの足元を支える唯一の“現実”だった。    そのとき、背後で厨房の扉が開く音がした。  「……終わったか」  無骨な声。マサキだった。  「うん。……終わった」  マサキは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いてから言った。  「じゃあ、始めようぜ」  「……何を?」  「今日の仕込みだよ」  それは、まるで“人生”みたいな言葉だった。  ルイは小さく笑った。  涙は流れていない。でも、胸の奥の何かが静かにほどけた気がした。  「……うん。始めよう」

ともだちにシェアしよう!