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 第16話 仮面の攻、鎖の接吻

 夜が明けきる前の、微妙な空の色。  店の裏口から出ると、まだ街は眠っていた。  ビルの谷間にかすかに漂う、朝とも夜ともつかぬ空気。  冷たいはずなのに、肌を撫でる風にどこか湿り気があった。  ルイは小さくため息を吐く。  昨日の告白──シオンの真っ直ぐな瞳が、まだ脳裏に残っていた。  あれに応えることはできない。でも、傷つけたくもない。  なのに、自分の言葉は、きっとどこかを切り裂いた。  「……誰かの“好き”を、ちゃんと受け取れる自分になりたいだけなのに」  そう思っているのに──。  背後の気配に、思考が止まる。  振り返らずともわかる。  この湿度、重み、体温のような存在感。  仮面の男──アキト。  「朝は静かでいいね。君の足音だけが聴こえる」  声は穏やかだった。でも、その距離が近すぎた。  「……ついてきたの?」  「“見守っていた”と言えば聞こえはいいかな」  くすりと、仮面の奥で笑った気配がする。  ルイは言葉を返さず、視線を遠くに投げた。  アキトは、それに並ぶように立つ。肩が、少しだけ触れそうで触れない。  「昨日のこと、考えていた?」  「……どうせ見てたんでしょ。全部」  「君は、まだ優しい。断ったのに、傷つけたくないと思ってる」  「うるさいな……」  心の奥をなぞられるような言葉に、ルイは小さく口を噛んだ。  「君が誰を選んでもいい。けどね、ルイ──  忘れないで。君はもう、俺の“契約下”にある。逃げたつもりでも、鎖は残るよ」  低く落ちる声に、背筋がざわついた。  (俺は、もう誰にも支配されない。されるはずがない)  そう思ったのに──その声が、足元を掬うように絡みついてくる。  アキトの手が伸びてきた。  手袋越しの指先が、ルイの頬に触れる。  それだけで、全身がこわばる。  「まだ熱が残ってる。感情は体温に出るからね」  「……ふざけるなよ」  ルイは手を振り払うことができなかった。  それが、悔しい。  「君が誰に抱かれようと、愛されようと──俺には関係ない」  アキトの声は低く、滑らかで、どこか哀しげだった。  「でも、君が“誰かに心を開く”ときは、  俺の許可なしにはさせない。……契約だからね」  その言葉が、胸の奥に突き刺さる。  「何様のつもり?」  「君の支配者。そう契約したよね?」  たしかに、あの夜。  あの絶望の底で、手を取ったのは自分だった。  (でも、これは“助け”じゃなかった。  俺は……“買われた”んだ)  ルイは口を開く。  「だったら、金で解決しろよ。買われたなら、返金する。解約だ」  「君が本当にそう望むなら、いつでも」  アキトの声は静かだった。だが、その手は──離れなかった。  「でも、君が欲しいのは“自由”じゃない。  “証明”だろう? 自分が価値ある存在だと」  ルイは言葉を失う。  その通りだからこそ、否定できなかった。  「君がナオトに勝ちたいのも、店を成功させたいのも、全部……」  「やめろ」  「君の“価値”を、自分で信じたいから」  その言葉に、心がざわめいた。  (アキトは、全部わかってる。わかってて、俺を縛ってる)  それが怖い。  でも──その理解が、ほんの少しだけ、救いにも思えてしまう。 ◆  ◆  ◆    ルイは目を逸らせなかった。  アキトの仮面の奥から、何かがじっとこちらを見ている気がして。  (この人は、どこまで俺のことを見抜いている?)  仮面は感情を隠すはずのものなのに、  アキトの仮面は、逆に“すべてを見通している”ように感じられる。  「俺は……お前の所有物じゃない」  ようやく絞り出した言葉。  だが、アキトは首を横に振る。  「違うよ。君は、君のものだ。  ただ──君がそれを信じられない限り、俺が預かってるだけだ」  わけがわからなかった。  でも、その言葉には矛盾がなかった。冷たくて、やさしい矛盾。  アキトは、そっと手を伸ばす。  「君が自分の価値を証明したいなら、ひとつ方法があるよ」  「……なんだよ」  「僕を、欲しがればいい」  ルイの喉が、音を立てた。  「なに、言って……」  「君の方から、触れて。求めて。選んで」  「それができたとき──君は、誰のものでもなくなる」  仮面の奥から、微かな吐息がふれてくる。  距離が、限界まで近づいていた。  (息が──混ざる)  キスの一歩手前。  触れるか、触れないかの境界線。  その距離を、埋めるのは──  (……俺、なのか?)  アキトは、それ以上近づかなかった。  ただ、目の前で“待つ”という行為で、ルイに選択を委ねた。  そしてその沈黙が、いちばん残酷だった。 ◆  ◆  ◆  ルイは動けなかった。  ほんの一歩、踏み出せば届く距離。  唇と唇、呼吸と呼吸、その“境界”に指先が触れかけていた。  でも──怖かった。  (これ以上、踏み込んだら……)  心が引き返せなくなる。  求めてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。  「……ずるいよ、お前」  ルイは絞るように呟いた。  「なんで、いつもこっちに選ばせるの」  「お前はいつも仮面の中で、平気な顔して……こっちは……」  声が震えた。  アキトは何も言わなかった。  ただ、仮面越しにルイを見つめたまま、静かに息を吐いた。  その沈黙が、あまりにも優しくて、冷たかった。  「……キスしたいって、思ったよ」  「でもそれは、きっと“俺”じゃない。お前が望んでるのは──」  言いかけたその時。  アキトの手が、そっとルイの頬に触れた。  手袋越しのぬくもり。  熱はないはずなのに、なぜか指先がじんわりと温かかった。  「いいんだよ、ルイ」  「君が迷っていることも、疑っていることも。  それも含めて──君自身だから」  仮面の奥の声は、今まででいちばん静かで、いちばん深かった。  「でもね、僕は焦ってる」  「君が僕を選ぶ前に、誰かが君を奪っていくんじゃないかって」  「君が、ナオトの記憶の中に“戻ってしまう”んじゃないかって──」  その名を聞いた瞬間、ルイの体がびくりと反応した。  アキトはそれを見逃さなかった。  「僕は、君の過去に勝てないかもしれない」  「でも……君の“未来”になら、なれると思ってる」  それは、告白に似ていた。  けれど、それは“愛”という言葉より、もっと鋭いものだった。  ルイの心を貫くのは、ぬくもりじゃない。  それは、所有の宣言だった。  「君が選ばなくてもいい。──でも、僕は君を選んだ」  「君を手放す気は、最初からなかったよ」  仮面の下で笑う気配。  なのに、その言葉は、どこか哀しく聞こえた。  「……アキト」  ルイは、ようやく名前を口にした。  その瞬間、仮面の奥の気配が微かに揺れた。  それが涙なのか、笑みなのか、もうわからなかった。  でも、たしかに思った。  (俺は──この人に“見られて”いる)  それだけが、いまのルイにとって、唯一の確かな救いだった。

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