19 / 44

 第17話 過去が、指先を掴んで離さない

 花束が、手の中で少しだけ重たかった。  淡い白百合と、濃い色のアネモネ。選んだ理由はなかった。ただ、そのとき手に取ったのがそれだった。  墓地は静かだった。遠くでカラスが鳴く声さえ、まるで誰かの嘆きのように聞こえた。  ルイは、無言のまま花を石の前に置き、しゃがみこんだ。  「……来るつもりはなかったんだ」  声は自分に向けたものだった。  墓石には、父の名前。  公的には「急性心疾患による突然死」とされていた男。  でも、本当に“それだけ”だったのだろうか?  心臓の病歴もない。健康診断も異常なし。  ──なのに、ある日突然、遺言とともに死んだ。  その死があまりにも“都合が良すぎた”と気づいたのは、ずっと後になってからだった。  (証拠なんて、何ひとつない。だけど──)  あの夜、屋敷にいたひとりの使用人。震えた声で、「お坊ちゃまは何も知りませんように」と言った、その言葉。  ──なぜあんな言い方をしたのか。  思い返すほどに、胸の奥に冷たい棘が刺さっていく。  アキトの言葉が、記憶の底から浮かび上がる。  「真実を知るのは、時に拷問だよ。それでも知りたいのかい?」  ルイは、そっと立ち上がった。  足元の土が少しだけ柔らかく沈む。  過去は、そこに埋まっているのだ。忘れられないまま、呼吸している。  でも──もう、目を背けるのはやめた。  「知るよ。どんなに醜くても……逃げるよりマシだから」  風が、白百合の花びらをひとつ運んでいった。  それは、まるで父の言葉のように空へ舞い、やがて沈黙に吸い込まれて消えた。 ◆  ◆  ◆  ルイは駅前の古びたカフェにいた。  午後の光が薄く差し込む窓辺。白いカップの縁には、飲みかけの紅茶の跡。  向かいの席に座るのは、屋敷に長年勤めていた元・使用人──ユリカ。  引退後、遠方に移り住んだと聞いていたが、短い手紙を出すと、驚くほどすぐに返事がきた。  「……よく来てくれました」  ルイがそう言うと、彼女はわずかに目を伏せて、  「こちらこそ、お顔が見られて安心しました」と静かに答えた。  皺の増えた指が、ティーカップの取っ手を握る。  その手には、まだかすかに緊張が残っていた。  「父の死について、少し……話が聞きたくて」  ルイが言葉を選ぶように告げると、ユリカは顔を上げる。  その目には、覚悟と、ほんの少しの後悔がにじんでいた。  「坊ちゃま。……あの日のことは、ずっと胸にしまってきました」  彼女の言葉は、まるで封印を解くようにゆっくりと流れ出す。  父が亡くなる前日、屋敷に訪れていた“ある人物”の話。  滅多に顔を出さない、上層部の顧問弁護士──真神一族と繋がりのある男だったという。  「お父様は、その方と長く話しておられました」  「どんな話を?」  「申し訳ありません……廊下越しで、内容までは。ただ、“名簿”という言葉が聞こえました」  ルイの眉がわずかに動く。  名簿。  それが何を意味するのかはわからない。  けれど、それは確かに“会話の核心”に近い響きを持っていた。  「それと──」  ユリカは声を潜めて続けた。  「亡くなられた夜、厨房のごみ箱から……焼き捨てられた“遺言書の下書き”の一部が見つかりました」  ルイは息をのんだ。  「そこには、“すべての資産を一時的に凍結すべし”と……そう書かれていたんです」  ──凍結。  それは、誰かが“何かを止めたかった”という証拠だった。 ◆  ◆  ◆  帰りの電車の中、ルイは黙ったまま窓の外を見ていた。  夕暮れの街並みが流れていく。けれど、目に映る風景は何も頭に入ってこなかった。  名簿。凍結された資産。燃やされた遺言の下書き。  “あの人”は、本当にすべてを知っていたのだろうか。  ──それでも、父は何も教えてくれなかった。  守ろうとしたのか、信じていなかったのか。  それとも、ルイ自身が、まだ“相手にされる年齢じゃなかった”だけなのか。  (……どっちでもいい)  電車が揺れるたびに、胃の奥で静かに怒りが渦を巻く。  自分を追放した“社会”だけでなく、  その外側で、それを許していた“家族”にも──ルイは、怒っていた。  (こんな世界、俺が壊してやる)  拳を握ったそのとき、不意にスマホが震えた。  画面には、登録されていない番号。  一瞬迷ってから、通話を取る。 「……ルイ、今どこにいる」  低く、聞き慣れた声。  電話越しでも感じる、仮面の向こうの体温。 「アキト……? 何、急に」 「話がある。今日は……戻ってこい」 「店には戻るけど、それだけじゃ──」  言いかけたルイの声を、彼の声がさえぎった。 「いいから。君が今、どんな顔してるか……わかってる」  その言葉が、喉の奥に刺さる。  見ていないはずなのに、全部を見透かすような声。  (やめてくれ。今は放っておいてくれよ)  でも口には出せなかった。 「……わかった。すぐ帰る」  その一言を残して通話を切ると、窓の外はもう闇に沈みかけていた。  光がひとつ、またひとつと遠ざかっていく。  それが、過去なのか、それとも──希望なのかは、まだわからなかった。 ◆  ◆  ◆  ドアを開けると、店内にはまだ誰もいなかった。  夕食の営業前の静けさ。厨房の明かりだけがぼんやりと灯っている。  ルイがカウンターの奥へ進むと、アキトはそこにいた。  いつものように黒いロングコート。仮面。沈黙。  だが、その気配は──どこか、いつもと違っていた。 「……何の話?」  ルイが問いかけると、アキトはグラスの中の氷を揺らしながら答えることなく、ただ目線を向けた。  その視線が痛いほどまっすぐで、仮面越しなのに、逃げ場がなかった。 「今日は、君が“戻ってこなかった”日になるかと思った」 「……それならよかったね。戻ってきたから」 「君の中の“誰か”が、あのまま過去に囚われて帰れなくなるんじゃないかと、心配だった」  ルイは鼻で笑った。 「心配? まさか、あんたが?」 「……君の“過去”は、君の武器でもあり、呪いでもある」  その言葉が、喉の奥に引っかかった。 「だったら、その“呪い”を料理に変える。俺はもう、逃げるつもりはない」  強がりだった。けれど、それはルイの中で唯一、確かに言えることでもあった。  アキトは静かに立ち上がり、ゆっくりとルイの方へ歩いてくる。  距離が、数歩ずつ縮まるたびに、胸の奥がざわついていく。  目の前まで来た彼は、そっとルイの手を取った。 「君の手は、もう誰かに守られるためのものじゃない」 (ルイが反応する) 「……壊すためでも、過去を握りしめるためでもない」  ルイは、ぎゅっと手を引こうとした。けれど、できなかった。 「じゃあ、何のためにあるの?」  問いは、まるで投げやりのようで、同時に祈りのようでもあった。  アキトは、手を包んだまま囁いた。 「“未来を作る”ためだよ」  その言葉に、ルイの喉がかすかに震えた。  憎しみだけで突き進んできたはずなのに。  それ以外の言葉を信じたくなる自分が、心のどこかにいた。 「……もしそれが嘘だったら?」  アキトの仮面の奥、微笑の気配が揺れる。 「そのときは、君の手で、僕を壊せばいい」  冗談のような、誓いのような、その声を聞いて──  ルイは、そっとまぶたを閉じた。  父が残したもの。過去の罪。切り離された自分の一部。  全部まとめて、もう一度、この手で“未来”に変えられるだろうか。  仮面の男の手の中で、ルイの指先が、ほんのわずかに震えた。

ともだちにシェアしよう!