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第17話 過去が、指先を掴んで離さない
花束が、手の中で少しだけ重たかった。
淡い白百合と、濃い色のアネモネ。選んだ理由はなかった。ただ、そのとき手に取ったのがそれだった。
墓地は静かだった。遠くでカラスが鳴く声さえ、まるで誰かの嘆きのように聞こえた。
ルイは、無言のまま花を石の前に置き、しゃがみこんだ。
「……来るつもりはなかったんだ」
声は自分に向けたものだった。
墓石には、父の名前。
公的には「急性心疾患による突然死」とされていた男。
でも、本当に“それだけ”だったのだろうか?
心臓の病歴もない。健康診断も異常なし。
──なのに、ある日突然、遺言とともに死んだ。
その死があまりにも“都合が良すぎた”と気づいたのは、ずっと後になってからだった。
(証拠なんて、何ひとつない。だけど──)
あの夜、屋敷にいたひとりの使用人。震えた声で、「お坊ちゃまは何も知りませんように」と言った、その言葉。
──なぜあんな言い方をしたのか。
思い返すほどに、胸の奥に冷たい棘が刺さっていく。
アキトの言葉が、記憶の底から浮かび上がる。
「真実を知るのは、時に拷問だよ。それでも知りたいのかい?」
ルイは、そっと立ち上がった。
足元の土が少しだけ柔らかく沈む。
過去は、そこに埋まっているのだ。忘れられないまま、呼吸している。
でも──もう、目を背けるのはやめた。
「知るよ。どんなに醜くても……逃げるよりマシだから」
風が、白百合の花びらをひとつ運んでいった。
それは、まるで父の言葉のように空へ舞い、やがて沈黙に吸い込まれて消えた。
◆ ◆ ◆
ルイは駅前の古びたカフェにいた。
午後の光が薄く差し込む窓辺。白いカップの縁には、飲みかけの紅茶の跡。
向かいの席に座るのは、屋敷に長年勤めていた元・使用人──ユリカ。
引退後、遠方に移り住んだと聞いていたが、短い手紙を出すと、驚くほどすぐに返事がきた。
「……よく来てくれました」
ルイがそう言うと、彼女はわずかに目を伏せて、
「こちらこそ、お顔が見られて安心しました」と静かに答えた。
皺の増えた指が、ティーカップの取っ手を握る。
その手には、まだかすかに緊張が残っていた。
「父の死について、少し……話が聞きたくて」
ルイが言葉を選ぶように告げると、ユリカは顔を上げる。
その目には、覚悟と、ほんの少しの後悔がにじんでいた。
「坊ちゃま。……あの日のことは、ずっと胸にしまってきました」
彼女の言葉は、まるで封印を解くようにゆっくりと流れ出す。
父が亡くなる前日、屋敷に訪れていた“ある人物”の話。
滅多に顔を出さない、上層部の顧問弁護士──真神一族と繋がりのある男だったという。
「お父様は、その方と長く話しておられました」
「どんな話を?」
「申し訳ありません……廊下越しで、内容までは。ただ、“名簿”という言葉が聞こえました」
ルイの眉がわずかに動く。
名簿。
それが何を意味するのかはわからない。
けれど、それは確かに“会話の核心”に近い響きを持っていた。
「それと──」
ユリカは声を潜めて続けた。
「亡くなられた夜、厨房のごみ箱から……焼き捨てられた“遺言書の下書き”の一部が見つかりました」
ルイは息をのんだ。
「そこには、“すべての資産を一時的に凍結すべし”と……そう書かれていたんです」
──凍結。
それは、誰かが“何かを止めたかった”という証拠だった。
◆ ◆ ◆
帰りの電車の中、ルイは黙ったまま窓の外を見ていた。
夕暮れの街並みが流れていく。けれど、目に映る風景は何も頭に入ってこなかった。
名簿。凍結された資産。燃やされた遺言の下書き。
“あの人”は、本当にすべてを知っていたのだろうか。
──それでも、父は何も教えてくれなかった。
守ろうとしたのか、信じていなかったのか。
それとも、ルイ自身が、まだ“相手にされる年齢じゃなかった”だけなのか。
(……どっちでもいい)
電車が揺れるたびに、胃の奥で静かに怒りが渦を巻く。
自分を追放した“社会”だけでなく、
その外側で、それを許していた“家族”にも──ルイは、怒っていた。
(こんな世界、俺が壊してやる)
拳を握ったそのとき、不意にスマホが震えた。
画面には、登録されていない番号。
一瞬迷ってから、通話を取る。
「……ルイ、今どこにいる」
低く、聞き慣れた声。
電話越しでも感じる、仮面の向こうの体温。
「アキト……? 何、急に」
「話がある。今日は……戻ってこい」
「店には戻るけど、それだけじゃ──」
言いかけたルイの声を、彼の声がさえぎった。
「いいから。君が今、どんな顔してるか……わかってる」
その言葉が、喉の奥に刺さる。
見ていないはずなのに、全部を見透かすような声。
(やめてくれ。今は放っておいてくれよ)
でも口には出せなかった。
「……わかった。すぐ帰る」
その一言を残して通話を切ると、窓の外はもう闇に沈みかけていた。
光がひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
それが、過去なのか、それとも──希望なのかは、まだわからなかった。
◆ ◆ ◆
ドアを開けると、店内にはまだ誰もいなかった。
夕食の営業前の静けさ。厨房の明かりだけがぼんやりと灯っている。
ルイがカウンターの奥へ進むと、アキトはそこにいた。
いつものように黒いロングコート。仮面。沈黙。
だが、その気配は──どこか、いつもと違っていた。
「……何の話?」
ルイが問いかけると、アキトはグラスの中の氷を揺らしながら答えることなく、ただ目線を向けた。
その視線が痛いほどまっすぐで、仮面越しなのに、逃げ場がなかった。
「今日は、君が“戻ってこなかった”日になるかと思った」
「……それならよかったね。戻ってきたから」
「君の中の“誰か”が、あのまま過去に囚われて帰れなくなるんじゃないかと、心配だった」
ルイは鼻で笑った。
「心配? まさか、あんたが?」
「……君の“過去”は、君の武器でもあり、呪いでもある」
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
「だったら、その“呪い”を料理に変える。俺はもう、逃げるつもりはない」
強がりだった。けれど、それはルイの中で唯一、確かに言えることでもあった。
アキトは静かに立ち上がり、ゆっくりとルイの方へ歩いてくる。
距離が、数歩ずつ縮まるたびに、胸の奥がざわついていく。
目の前まで来た彼は、そっとルイの手を取った。
「君の手は、もう誰かに守られるためのものじゃない」
(ルイが反応する)
「……壊すためでも、過去を握りしめるためでもない」
ルイは、ぎゅっと手を引こうとした。けれど、できなかった。
「じゃあ、何のためにあるの?」
問いは、まるで投げやりのようで、同時に祈りのようでもあった。
アキトは、手を包んだまま囁いた。
「“未来を作る”ためだよ」
その言葉に、ルイの喉がかすかに震えた。
憎しみだけで突き進んできたはずなのに。
それ以外の言葉を信じたくなる自分が、心のどこかにいた。
「……もしそれが嘘だったら?」
アキトの仮面の奥、微笑の気配が揺れる。
「そのときは、君の手で、僕を壊せばいい」
冗談のような、誓いのような、その声を聞いて──
ルイは、そっとまぶたを閉じた。
父が残したもの。過去の罪。切り離された自分の一部。
全部まとめて、もう一度、この手で“未来”に変えられるだろうか。
仮面の男の手の中で、ルイの指先が、ほんのわずかに震えた。
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