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第18話 真神家の落とし子
陽の落ちかけた中庭には、剪定された薔薇の茎だけが、寂しげに風に揺れていた。
真神家の屋敷。
静かすぎる庭に、ナオトはひとり立っていた。
かつてこの場所で、幼いルイと一緒に走り回った記憶がある。
白いシャツを泥だらけにして、木登りをして、庭師に叱られて──
でも笑っていた。二人とも。
今、その面影はどこにもない。
夕暮れの光が、屋敷の壁に斜めの影を落とす。
その影の一角に、父の書斎がある。あの部屋では、冷たい決定が日々下されていた。
「ナオト。情けは無用だ。腐る」
数日前、そう告げた父の声音が、まだ耳に残っていた。
ナオトは思わず、口の中で噛み潰すように言葉を繰り返す。
「……情けは、腐る、ね」
けれど本当はわかっている。
腐っていたのは“自分の感情”のほうだった。
切り離したときから、ずっと。
そう思っても、口に出せなかった。
この家で、言葉に感情を混ぜることは──「弱さ」と同義だから。
リビングに戻ると、金で塗り固められた静寂が広がっていた。
母はもう、ナオトの問いに答えなくなった。
弟たちは感情を持たずに育てられた。
家は、完璧だった。だからこそ、ひどく空虚だった。
ふと、背後の窓が軋む音がした。
振り返ると、薔薇の茎が風に揺れていた。
赤くも、白くも、咲かない薔薇。
──まるで、ルイのいない庭のようだった。
◆ ◆ ◆
「兄さん、また庭に?」
声をかけてきたのは、弟・真神ソウだった。
年はまだ十代後半、整った顔立ちと無感情な瞳。
感情を抜いたような話し方は、まるで人工的な静けさをまとっている。
「……見たかっただけだよ。昔のことを」
ナオトが答えると、ソウは首を傾げた。
「“昔”って何のこと? あそこ、今は誰も使ってないのに」
ナオトは、ふっと笑った。
そうか──弟たちには、ルイとの記憶がない。最初から“欠番”なのだ。
まるで、この家が最初からルイを存在させなかったかのように。
「ソウ、お前は……誰かに情を持ったこと、あるか?」
弟は一瞬だけ黙った。
その沈黙が、ナオトの胸に刺さる。
「……訓練されてるから。無駄な情は持たないようにしてる」
「“無駄”って、誰が決めるんだ?」
「父さん。兄さんも、そう教わったでしょ」
まっすぐな言葉だった。
正しすぎて、残酷だった。
ナオトは笑うしかなかった。
自分もそうだったはずだ。
ルイを切り捨てたとき、“無駄”と決めたのは──自分だ。
「……兄さん?」
返事をせず、ナオトは再び庭を見た。
あの薔薇のない庭に、ルイの幻が見える。
笑っていた、あの日の姿が。
でも今、それを誰に話しても“嘘”になる。
(ルイ……お前だけが、この家の外に出たんだな)
──なら、今さら俺が、どの顔で会えばいい。
◆ ◆ ◆
真神家の屋敷は、変わらず整っていた。
無機質な美しさ。非の打ちどころのない左右対称の配置。
だがその均整の下にあるのは、「個」を排除するためのルールだった。
ナオトは、自室に戻ると机の引き出しから古い書類を取り出した。
それは、ルイの追放に関する“処理記録”。
父のサイン、当時の会議記録、そしてナオト自身の同意印。
(この紙一枚で、あいつは家も名前も奪われたんだ)
視線が止まる。
そこには明記されていた──「真神ルイは、家系より除籍。以後、非該当者として扱うこと」
つまり、存在そのものを“記録から抹消”する処理だった。
「まるで、死んだみたいな扱いだな……」
ナオトは呟く。
けれどそれを決めた場に、自分もいた。
否定もできず、拒絶もせず、黙って従った。
それが“長男”としての正解だと、疑いもしなかった。
(……だから、アイツは俺を恨んでも当然だ)
ただの傲慢じゃなかった。
ただの冷酷でもなかった。
ナオトは──あの時、“何もできなかった”。それがいちばん惨めだった。
「兄さん……また、それを?」
背後から声がして振り返ると、今度は長女のアイリが立っていた。
静かに扉を閉め、彼の手元を見て、唇をわずかに結ぶ。
「父さんにバレたら怒られるわよ。ルイの名は、この家ではもう禁忌なの」
「知ってるよ。でも……それでも、俺には“まだ”あいつの記憶が残ってる」
アイリは何も言わなかった。
ただ、兄の顔を見つめる。その視線に、かすかな憐れみがにじむ。
「兄さん。あなた、“家”と“人”を分けること、まだできてないのね」
その言葉に、ナオトは言い返せなかった。
分けてしまえれば、どれだけ楽だったか。
でも、ルイは──ただの“他人”には、なれなかった。
それだけが、この家の中で唯一、ナオトに残された“不整合”だった。
◆ ◆ ◆
夜。ルイは、アキトの残していった古い資料を見つめていた。
開かれた封筒の中には、一枚の報告書があった。
──「真神家関係者 過去5年分の資産移動記録」
その中に、見覚えのある名前が並んでいる。
(……この口座番号。ナオトの父……そして、ナオト自身の名義)
額を押さえた。
かつて屋敷で、なにげなく耳にした会話が、急に繋がっていく。
──「親父が動かしたらしい。爵位を“下げる代わりに”、税の免除を通すって……」
──「今の真神家は、“表の権威”と“裏の金”で均衡とってんだ」
あのとき理解できなかった意味が、今ならわかる。
父の爵位剥奪は、単なる失脚ではなかった。
誰かの「生贄」だった。
そして──その決定には、ナオトの“同意”が必要だった。
(本当に、知らなかったの? ナオト)
ソファに身を預ける。
天井の隅を見つめながら、感情を整理しようとする。
けれど、怒りも憎しみも、不思議と湧いてこなかった。
むしろ心に残ったのは、空白のような静けさだった。
「……あいつ、今もあの屋敷で生きてるんだな」
同じ屋根の下にいながら、違う世界を見ていた。
ルイを追い出した家の“影”の中で、ナオトもまた、自分を守るために何かを失ったのかもしれない。
それでも──許せるわけじゃない。
「立って見ろよ、ナオト。今度は“対等な場所”で」
呟いた言葉に、自分でも驚いた。
あのナオトを、憎み続けることは、できない気がしていた。
それが腹立たしかった。
(許すわけじゃない。忘れたわけでも、赦されたわけでもない)
──けれど、もう一度、あいつに料理を出す未来を想像してしまった自分がいた。
そのとき。背後の扉が、かすかに軋んだ音を立てる。
「ひとりで考えごと?」
アキトの声だった。
ルイは驚かずに、書類を伏せる。
「……知ってたの? 真神家の裏取引のこと」
「だいたいはね。君には、“何を知って、何を知らないか”を選ばせる時間が必要だった」
その言葉に、ルイは仮面を見上げた。
「俺は、もう“知らないまま”ではいられないよ」
その目に、ためらいはなかった。
アキトは一歩近づき、ルイの手に触れる。
「なら、準備をしよう。君が立ち向かうなら、僕は君の“後ろ”に立つ」
「……前じゃなくて?」
アキトは仮面の奥で、微笑んだような気がした。
「君が主役だからね」
その言葉に、ルイの胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
──逃げることも、隠れることも、もうできない。
なら、自分の足で、戦場に立つしかない。
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