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第19話 鎖のような言葉
皿を拭く手を止めて、ルイはふと手元を見つめた。
クロスの端に、指先の切り傷からにじんだ赤が、小さく染みていた。
今日は、静かすぎる。
閉店後の店内。グラスも拭き終わり、厨房の火も落ちている。
なのに、空気がざわついている気がするのはなぜだろう。
客足は順調。SNSでも新しいメニューが話題になっている。
なのに、心の奥が何かを押し殺しているように苦しかった。
(……たぶん、ナオトのせいだ)
思い出したくもないのに、勝手に記憶の隙間に入り込んでくる。
昔の声、あの横顔、あの瞳。
「気づかなかった」のが、悔しいのか、救いだったのか、自分でもわからない。
「静かな夜だね」
不意に聞こえた声に、ルイは振り返る。
アキトが、カウンターに片肘をついてこちらを見ていた。
仮面は、いつもと同じ。
でも、声の温度が少し低い。
「お前の“静けさ”は、いつも騒がしいんだよ」
思わず皮肉を返すと、アキトは肩をすくめた。
「それは、君の中が騒いでるからさ」
ルイは目を細めて、クロスを折り畳んだ。
騒いでる──その通りだった。
店は整っているのに、自分の中だけがいつまでも片付かない。
「ナオトに会ったんだろ」
アキトが、グラスを回しながら言った。
まるで、すべてを見透かしていたように。
ルイは、クロスを手から離し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
ため息と一緒に、言葉がこぼれる。
「……気づいてなかった。俺のこと」
それだけで、重さを持っていた。
そして、それを受け止めるように──アキトは黙って、グラスを止めた。
◆ ◆ ◆
「気づいてほしかったの?」
アキトの問いは、まるでナイフのように、静かにルイの胸を裂いた。
「……わかんない」
本音だった。
あれほど顔を合わせたくなかった相手に、料理を通して自分をぶつけた。
でも、名前を呼ばれなかったことが、こんなにも胸を刺すなんて。
「君は、自分が見られたくないと思ってるくせに、誰よりも『認められたい』人間だ」
アキトの声は、低く落ち着いていた。
どこか淡々としているのに、逃げ道を与えてくれない。
「誰に言ってんの、それ」
つっけんどんな返しに、アキトは少しだけ笑った。
だが、次に続いた言葉は、笑いを伴わなかった。
「──君自身が、君のことを“所有”してないからさ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
眉をひそめるルイに、アキトは続ける。
「誰かの記憶に依存して、過去に自分を縛ってる。
君は、自分の足で立っているように見えて……その実、まだナオトの影に縋ってるんだ」
その言葉に、心の奥で何かがきしんだ。
わかってる。そんなこと、誰より自分がわかってる。
「それがどうした。俺の問題だ」
「そうだね。でも、君はもう“自分だけ”の存在じゃない。
君の料理は、もう君一人のものじゃないんだ」
その瞬間、何かが胸に刺さった。
アキトは、仮面の奥でじっとルイを見つめていた。
視線が、仮面を越えて肌に触れてくるようだった。
「俺は君を買ったんだ、ルイ。
だからこそ言える。君の価値は“過去”じゃなくて、“今”にある」
言葉の重さが、皮膚の下に沈んでくる。
「君は、自分を縛ってるその鎖──いつまで引きずるつもりなんだ?」
その声は、命令ではなかった。
祈りに似た、哀しみの色を帯びていた。
◆ ◆ ◆
しばらく、何も言えなかった。
厨房の換気扇が、どこか遠くの世界の音のように聞こえる。
アキトの言葉が、まだ心の中で反響している。
「君の価値は“過去”じゃなく、“今”にある」。
それが本当なら、どうして僕はまだこんなにも、
ナオトの一言に揺れて、父の影に縋って、
何かを“証明したくて”生きてるんだろう。
「……じゃあ、アキトは。
君は、自分の“鎖”を全部断ち切ったわけ?」
問い返すようにして、少しだけ強い口調でルイは言った。
アキトは静かに笑った。
その笑いには、自嘲が混じっていた。
「僕は、全部を断ち切ったつもりで──
結局、誰にも触れられないところで生きてきた」
彼の指先が、仮面の縁をかすかに撫でた。
それはまるで、“触れられたくない過去”を隠す仕草のようだった。
「人に見られるのが怖かった。
見られた上で、壊されるのが、もっと怖かった」
その声は、不思議なほど真っ直ぐだった。
まるで、ルイにだけ聞かせるような音。
「でも君を見てると……時々、自分が“選べる人間だったら”って思う」
アキトが初めて、ほんの少しだけ視線を落とした。
その沈黙は、ルイの胸を静かに打った。
「……俺だって、選んだつもりなんてない。
ただ、選ばれなかったから、生き残ってるだけ」
ルイの声もまた、少し震えていた。
そう、どちらも似ているのかもしれなかった。
違うようでいて、結局は“誰かの影”の中でずっと生きていた。
気づかないふりをして。
誇りだけを握りしめて。
それしか、自分を保つ術がなかったから──
◆ ◆ ◆
「君は、どうして僕の店に来た?」
アキトの声は、今までになく低く、静かだった。
「……生きるため」
ルイは答える。迷いはなかった。
アキトが求めているのが、綺麗ごとではないことも知っていた。
だが、アキトはすぐには頷かなかった。
仮面の奥で、何かをじっと考えているようだった。
「生きるためにここを選んだのか。
それとも……“僕を”選んだのか?」
「……なに?」
「君があの夜、手を取ったのは、たまたまじゃない。
あれは“契約”だったって、君自身が言っただろう?」
言葉が、ルイの胸の奥に重く落ちる。
そうだ──あれはただの“救い”じゃなかった。
主従、取引、対価と引き換えの生。
「じゃあ、答えてよ。今でも、君は僕の“商品”なのか?」
「……違う」
「じゃあ、何? “仲間”? “恋人”? “居場所”?
君が僕をどう見てるか、それが知りたいんだよ、ルイ」
その言葉には、苛立ちにも似た焦りが滲んでいた。
アキトは“支配者”として完璧だった。
でも今の彼は、仮面越しに、誰かに縋っているように見えた。
まるで──“関係性”の名を欲しがっている子どものように。
「……わからないよ。まだ、言葉にならない」
ルイは正直にそう答えた。
だが、言葉にできない想いほど、
本当は近くにあるものだと、どこかで知っていた。
アキトは沈黙したまま、仮面の奥で長く息を吐く。
「なら、せめて……“つなぎとめる言葉”をくれ。
じゃないと、君を縛れない。もう、何ひとつ」
それは、ルイの胸に深く突き刺さった。
アキトが今、欲しているのは──命令ではない。支配でもない。
ただ、“居場所”だった。
自分がルイの中に、まだ存在しているという確かな証。
だから、ルイはそっと言った。
「……アキト」
その一言に、アキトの肩がかすかに震えた。
それだけで、全てが伝わるような気がした。
それだけが、ふたりを繋ぐ“鎖”のようだった。
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