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 第20話 君は、選べるのか?

 SNSの通知が、止まらなかった。  料理の写真、タグ付けされたレビュー、意味深な引用リポスト。  そこには「味覚」だけでなく、「階級」や「政治」の匂いまでが混ざっていた。  ──“貴族の落とし子が庶民を魅了する時代が来るなんてね”  ──“店の名前、あれって皮肉? それとも宣戦布告?”  ──“あのソース、真神家のパーティで出てきた味と似てる気がするんだけど”  スクロールする指が止まるたび、胃の奥がじりじりと焼けるようだった。  言葉の端に、名前は出ていない。けれど、“僕のこと”を誰かが見ている。 「……静かに、してくれればいいのに」  つぶやいた声は、誰にも届かない。  そこに、スマホが震えた。 《ナオト:話がしたい。時間、くれないか》  一瞬、指が止まった。  あのホテルのラウンジの名が、添えられていた。  既読をつけるだけで、手のひらが汗ばむ。  だが、目を背けようとしたそのとき── 「君、ほんとうに“ここ”にいるつもりなの?」  アキトの声だった。  仮面をつけたまま、カウンター越しに立っている。 「……どういう意味?」 「その店。君の料理。君の“居場所”。  どれも今は仮のものだ。君が“選んでない”からだよ」  目を逸らした。図星だった。 「でも、選べと言われて、何を選べばいいのか──」 「それは、君にしかわからない。  だからこそ“選ぶ”意味があるんだよ、ルイ」  その声は、やさしいようで、どこか試すようだった。  ルイは、ふたたびスマホを見下ろす。  《ナオト》という文字が、画面に灯っている。  息を吸って、吐く。  迷いはある。けれど、このまま誰かに選ばれ続けるのは、もう嫌だった。 「……行ってくる」  小さく呟いた言葉に、アキトは何も返さなかった。  ただ、その仮面の奥で、何かが音もなく軋んだ気がした。 ◆  ◆  ◆  ホテルのラウンジは、かつて何度も訪れた場所だった。  父の付き添いで。ナオトと共に、笑いながら。  けれど今日は、椅子の硬さまで他人のものに感じた。  テーブルの向かいには、ナオトがいた。  黒いスーツ。整えられた前髪。  すべてが「真神家」の肩書きを背負ったままの姿だった。 「……来てくれて、ありがとう」  ナオトが口を開いた。 「別に。話があるって言ったから」  ルイの声は乾いていた。  ウェイターが紅茶を置いて去ると、二人きりの沈黙が落ちた。 「……君の料理、すごかった」  ようやく絞り出すように言ったナオトに、ルイは微かに眉をひそめた。 「誰の料理かわからないって顔して食べてたくせに」 「……気づいてたんだな」  ナオトは、唇を噛んだ。 「すぐには思い出せなかった。あの味が、あの頃の……“誰か”の記憶と繋がるまで、時間がかかったんだ」  ルイは、笑わなかった。  その言葉が、無神経に聞こえたわけじゃない。  ただ、“遅い”と思った。 「何が言いたいの?」  問いかけると、ナオトの表情がわずかに緊張する。 「君の店……正直、あのままじゃ危ない」 「上からの圧力が入ってる。知らないとは思ってないよね」  ルイの指が、カップの取っ手を強く握った。 「……で、君は“それを伝えに来た”ってわけ?」 「違う。俺は……」  ナオトは一度、目を閉じた。 「俺は、君を守りたいんだ」  その言葉に、ルイの心臓が一瞬だけ、跳ねた。  でも次の瞬間には、冷たい笑みが浮かんでいた。 「“君を潰した家の人間”が、それを言うんだ?」 ◆  ◆  ◆  ルイの問いに、ナオトは一瞬、目を伏せた。 「……そうだな。君を“潰した側”の人間かもしれない」 「“かも”じゃなくて、事実でしょ」 「……だけど、俺は全部に関与してたわけじゃない。気づかなかった。いや……気づこうとしなかった」  言葉に滲んだのは、後悔だった。  それが偽りではないことは、ルイにもわかった。  でも── 「それって、何かの免罪符になると思ってる?」 「ならない。でも、これだけは言わせてほしい」  ナオトは、静かに視線を上げる。  その目は、過去のナオトとは違っていた。 「……俺は、ずっと君の名前を思い出せなかった。でも、あの味が、あの空気が、“大切なものを見失っていた”ことを突きつけてきたんだ」 「……“見失ってた”?」 「うん。俺はずっと、正しいふりをしてきた。  父の言うことに従って、上の言葉をうのみにして、何も見ようとしなかった。君があの日、どうやって立っていたのかすら、知らなかった」  沈黙が落ちた。  ルイはカップの縁に視線を落とす。 「……遅すぎるよ」  その声は、震えていた。  怒りでもなく、憎しみでもない。  “悲しみ”だった。 「俺は、あの日、全部を失った。名前も、家も、希望も。……今さら同情されるくらいなら、いっそ、ずっと気づかないでいてほしかった」  ナオトの表情が、苦しげに歪む。 「……それでも、やり直したい。遅くなっても。もう一度……君と向き合いたい」 「“ナオト”として? それとも、“真神”として?」  ルイの言葉に、ナオトは答えを返せなかった。 ◆  ◆  ◆  ナオトが去ったあと、空気が沈んでいた。  扉の閉まる音すら、ルイの耳には妙に遠く感じられた。  誰かに言葉をぶつけるのは、簡単だった。  でも、誰かの“本気”を受け止めるのは……思っていたよりずっと、重い。  喉の奥に、熱い何かが残っている。 (あいつ、変わった。いや、変わろうとしてる……)  ──でも、それは“赦す理由”にはならない。  ルイはひとり、厨房へと戻る。  湯気の立つ鍋の前で、しばらく何も手を動かせなかった。  静かだった。  自分の呼吸音だけが、かすかに室内に響く。  その静寂を、ドアの鈴が破った。 「……遅かったね、ルイ」  振り返ると、そこにいたのはアキトだった。  いつものように仮面をつけたまま、しかしその声は妙に低い。 「ナオトと話してたね。……楽しそうだった」 「……盗み聞き?」 「耳に入っただけだよ。君のことは、常に“気にしてる”から」  その言い方が、いつになく棘を含んでいた。  ルイは眉を寄せて言い返す。 「それ、監視って言うんだよ」 「じゃあ、君は“監視されるのが嫌”なタイプ?」 「人間らしくないものに見張られてたら、誰だって嫌になる」  沈黙。  アキトは微動だにせず、ただじっとルイを見ていた。  その仮面の奥にある視線が、氷のように静かだった。 「……君は、ナオトを選ぶのか?」 「は?」 「いや、選ぶというより、“許す”のか、という意味でもある」  ルイは口をつぐむ。  アキトは続けた。 「君が彼に気持ちを動かされたことは、否定しない。……だが、それは“彼が過去にしたこと”を帳消しにするほどの価値があるか?」 「……なにが言いたいの?」  アキトはゆっくりと歩み寄る。  数歩の距離が、まるで網膜を焦がすほどに近く感じた。 「俺は君に“選んでほしい”んじゃない。“知ってほしい”んだ。誰が君を“売ろうとした”か、誰が“拾った”のか、誰が……君を今も“見ている”のか」 「見てるって……」 「君は、ナオトを“見ていた”。だから気づかなかったんだろう? 俺がどれほど、君の一瞬一秒を目に焼きつけてきたか」  言葉に、熱が宿る。  仮面の下から漏れ出るそれは、狂気か、愛か。  ルイは、一歩だけ、後ずさる。  だがアキトの手が、その手首をやわらかく、しかし逃げられぬ強さで掴んだ。 「俺は、君のことを“選ばない”よ、ルイ」 「……は?」 「君が俺を拒んでも、他を愛しても、俺は君を“所有”する。それだけだ」  その言葉に、ルイは戦慄する。  でも、なぜか──体は逃げなかった。  指先に触れる手袋越しのぬくもりが、ひどくリアルで、現実を縫い止めていた。 「怖いよ、アキト。……でも、それ以上に──」  言葉が喉の奥で止まる。  ──それ以上に、「見ていてくれた」ことが、怖かった。 「君には、選べる権利がある」  アキトが、低く囁く。 「“許す”か、“見抜く”か。“戻る”か、“進む”か」  選ばされるのではない。  自分で選ぶ。それが、ルイに課された次の戦いだった。  アキトは、手を離した。  仮面の奥からのぞく目だけが、じっとルイの芯を射抜いていた。 「答えは急がなくていい。……でも、“君が選ばないなら”、俺が選ぶ」  その言葉を残し、アキトは背を向ける。  扉の鈴が鳴った。  冷たい風が入り込み、厨房の空気を揺らす。  ルイはただ、立ち尽くしていた。  心のどこかで、「選ぶ」という言葉の重さが、いま初めて自分のものになった気がした。  ……でも、俺は、誰を選ぶ? 過去を知る人間? 今を見てくれた人間?

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