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第21話 最後の晩餐
扉の鈴が鳴ったとき、もう客足は引いていた。
閉店準備の手を止めて顔を上げると、そこに立っていたのは──ナオトだった。
光の下でも影のような存在感。
黒いコートの襟を立て、変わらず整ったその髪と姿勢。けれど、目の奥にあるものだけが、以前とは微かに違って見えた。
「……予約は、してないけど」
そう言って、ナオトは静かに椅子を引く。
ルイは何も言わずに立ち尽くした。声を出す代わりに、視線で「なぜ来た」と問いかけた。
ナオトはそれを察したのか、苦笑を漏らす。
「ただ……君の料理を、もう一度食べたくて」
低く、湿り気を帯びた声だった。
それは懐かしさではなく、後悔の底から掬い上げたような、澄んでいながら重い響き。
ルイは一歩、カウンターの奥へと下がる。
「味なんて、もう覚えてないでしょ」
投げるように言ったが、ナオトは首を横に振った。
「覚えてるよ。……忘れたふりをしてただけだ」
その言葉に、厨房の中で静かに何かが軋んだ。
感情ではない。もっと根の深いもの──呼吸や、記憶の奥底に沈んでいた“時間”そのものが。
ルイは答えなかった。ただ、包丁を取り、冷蔵庫を開ける。
鍋の火をつけ、まな板に野菜を置く。
無言のまま、手が動き始めた。
ナオトの視線を背中に感じながら、それでもルイは一度も振り返らなかった。
◆ ◆ ◆
キャベツの芯を抜き、葉を一枚ずつ剥がす。
包丁の音が、静かな店内にリズムのように響いた。
ナオトの姿は視界に入っていない。けれど、彼が“見ている”ことは、背中の温度でわかった。
煮込み用の鍋にスープを張る。
鶏ガラと香味野菜をベースにした、やわらかな出汁。
それは、かつてルイが“貴族の味”と教わったものではない。
自分が今、ここで生きていくために、試行錯誤で編み出した“再出発の味”だった。
──なぜ、あの人のために、これを作っているんだろう。
疑問は、何度も頭をよぎった。
でも、手を止めることはできなかった。
指先が記憶している動き。火加減。香りの変化。
ナオトへの“憎しみ”や“悲しみ”が、料理という行為に変換されていく。
その過程が、ルイにとって唯一の“感情の消化”だった。
キャベツにミンチを包み、ひとつずつ鍋に並べていく。
丸まったそれは、まるで“再構築された心臓”のように見えた。
ルイは、鍋に蓋をした。
静かに、鍋の中で“答え”を煮込むように。
背後から、椅子の軋む音がした。
ナオトがカウンターに肘をつき、何かを言いかけた気配。
けれど、ルイはそれを遮るように声を出した。
「食べるだけでいい。言い訳も、感想も、いらない」
ルイの声は、包丁より鋭く、しかしどこか寂しさを孕んでいた。
「……わかった」
ナオトの返事は、素直だった。
沸き上がるスープの香りが、ふたりの間に漂った。
それは“過去”を含んだ香りではなく、今この瞬間だけの香りだった。
ルイは目を閉じる。
(これは、僕の復讐じゃない。……僕の、選択だ)
自分で選んで、作る。
誰かに与えることも、拒むことも、もう“命令”じゃない。
この一皿は、ルイがルイとして、初めて「自分の手」で誰かに向けて差し出すものだった。
◆ ◆ ◆
スプーンが皿に触れる、静かな音がした。
ナイフで断たれたキャベツの葉が、ゆっくりとほどける。
中からは、ルイの手で丁寧に巻かれた肉の層。
スープが染み込み、柔らかく、優しく、そしてどこか切ない味のする湯気が立ちのぼる。
ナオトは、ひと口、口に運んだ。
──その瞬間、彼の呼吸が止まる。
口の中でほろほろとほどけるキャベツと、淡い香草の香り。
それは、舌の記憶よりも先に“心の記憶”を揺さぶった。
幼い頃の光景が、唐突に蘇る。
父が家を空けがちだった日々。
ナオトは、ルイとふたりきりの昼下がり、キッチンの隅で小さな鍋をのぞいていた。
「キャベツを巻くのって、ちょっとだけプレゼントみたいだよね」
笑いながら言ったルイの顔。
焦がしすぎたブイヨン。固すぎた肉。失敗だらけのその料理を、彼は誇らしげに差し出してきた。
「下手でもいいから、“自分で作った”ってことが大事なんだって、父が言ってた」
──あの頃のルイは、まだ“家”に希望を持っていた。
「……覚えてたんだ、君も」
ナオトが、ぽつりとつぶやいた。
対面のルイは、視線を落としたまま黙っていた。
それが「覚えてた」のか、それとも「ずっと忘れられなかった」のか──わからない。
「……ありがとう」
ナオトが言った。
その一言に、ルイの肩がわずかに震えた。
誰かに料理を“感謝された”のは、いつぶりだっただろう。
ナオトの声は、かすれていた。
「君の料理には、傷がある。……でも、その傷が、あたたかい」
「ごめん。こんな言い方しか、できないけど……ちゃんと、伝えたかった」
ルイは、何も言わなかった。
ただ静かに、鍋の火を落とした。
スープの泡が静まり、ふたりの間に、重たい沈黙が残った。
でも、その沈黙は、拒絶ではなかった。
未完成の赦し。けれど、そこにはたしかに──“はじまり”の余白があった。
◆ ◆ ◆
ルイが厨房の扉を閉めたあと、アキトはしばらくカウンターの奥で動かなかった。
紅茶のグラスに残った氷が、ひとつ、音を立てて割れる。
その音だけが、夜の静けさを裂いていく。
仮面の下、彼の瞳が細くなる。
「“ありがとう”、ね……」
口の端がわずかに歪んだ。
それが笑みか、苦笑か、あるいは嫉妬か、自分でも判別できない。
ナオトの名を出されたわけでもない。
けれど、“誰かの記憶”にルイが触れていたことは──音や匂いで、すべてわかってしまう。
ナオトの声を知っている。態度を知っている。
彼がルイにどんな温度で触れ、どんな言葉を与えるかも。
だからこそ、耐え難い。想像するだけで、喉の奥に熱が溜まる。
「選ぶって、そういうことなんだろうね」
呟いた声には、怒りではなく、静かな苦みが滲んでいた。
所有することと、信じられることは、まったく違う。
アキトはそっと、仮面の縁に触れる。
だが──それを外すことは、まだしなかった。
「……選ばれることを、怖がってるのは……きっと、僕も同じか」
その独白だけが、彼の“揺らぎ”を物語っていた。
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