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第22話 僕を潰した家の、食卓
真神家の本邸に足を踏み入れるのは、これが初めてではなかった。
けれど──今日ほど、息が詰まるほどの緊張を覚えたことは、なかった。
扉を開けると、そこには赤い絨毯と金縁の装飾が広がっていた。
光沢のある床、窓から差す光さえ“意図された演出”のように感じられる。
使用人たちの動きには一切の無駄がない。ルイはまるで「舞台に上がった俳優」のような心地で、静かに歩を進めた。
館内に響く音は、革靴が絨毯を踏むわずかな摩擦音だけ。
──それでも、聞こえていた。
“あの日の声”が。
「霧峰ルイ。君の行為は、貴族の品位を貶めた──」
脳裏に焼きついた追放宣告の声が、じわりと意識を蝕む。
(違う。今日は、その続きだ)
案内されたのは、かつて父がよく招待を受けていたという、大広間の食堂。
巨大なシャンデリアが光を滴らせ、白いテーブルクロスが冷たく緊張を照り返している。
ルイは席についた。周囲の目が、遠巻きに“彼”を観察しているのがわかった。
この家に殺された。
この食卓で、すべてを奪われた。
だから──
「僕は、ここで“出す”。料理で、記憶を蘇らせてやる」
そう心の中で呟いたとき、ダイニングの奥からナオトが現れた。
いつもの制服ではなく、黒の三つ揃いのスーツ。
整った髪、硬い表情。真神家の跡継ぎとしての“完璧な演出”。
目が合った瞬間、ナオトの視線が一瞬だけ揺れた。
だがすぐに、彼はルイに向かって小さく頷き、着席した。
――何も言葉を交わさないまま、最後の晩餐が、始まった。
◆ ◆ ◆
銀のカトラリーが、皿の上で静かに音を立てた。
前菜──小さなテリーヌに、ハーブの香りを添えたソース。
そのソースの味は、ルイ自身が調合し、仕上げたものだった。
ルイは、客の反応を見ていた。
彼らは“知らない”。
この料理を作ったのが、「あの霧峰家の落胤」であることを。
しかし──ナオトだけは、箸が止まっていた。
皿の前で、動かない指。固まった肩。呼吸のテンポが、わずかに乱れている。
ナオトの眼差しは、料理ではなく、遠い過去の幻影を見ていた。
「……この味……」
彼が、かすかに呟いた瞬間だった。
銀のフォークが手から滑り落ち、硬質な音を立てて床に転がった。
誰もが目を向けた。けれどナオトは、それを拾おうともしなかった。
彼の視線が、ゆっくりとルイに向けられる。
その目は、驚愕と、そして──恐怖に似た色を帯びていた。
「……お前が……ルイだって……?」
その声は、絞り出すような、ほとんど掠れたものだった。
音を立てて崩れるのは、ナイフや皿ではない。
心だった。
ナオトの表情が崩れる。目の奥に、はっきりと“過去”が蘇った証が見えた。
その瞬間、ルイはただ静かに、微笑んだ。
「ようやく、味で思い出した?」
◆ ◆ ◆
ナオトは、まるで夢から覚めたように、椅子から立ち上がった。
「……ちょっと、席を外す」
そう言い残して、ふらつくようにラウンジを出ていく。
背筋は伸びているのに、足取りだけが異様に不安定だった。
扉が閉まる音と共に、テーブルの空気が沈む。
ルイは、その様子を黙って見送っていた。
笑わなかった。勝ち誇りもしなかった。ただ、静かに息をついた。
──これが「答え」だった。
料理という刃で、ルイは確かにナオトの心臓を突いたのだ。
香りで、舌で、記憶で──かつて見ようとしなかった「事実」を直撃した。
(お前の言葉じゃ、僕を殺せなかった。
でも僕は、味でお前を“壊せた”。)
そのことが、復讐でも快感でもなく、ただ悲しかった。
“好きだった人”の崩れていく姿を見て、何も感じないほど冷たくなりきれてはいなかった。
それが、いま一番ルイを苦しめていた。
ナオトの残した紅茶のカップに、まだ熱が残っている。
湯気が、かすかにゆらめいていた。
そのぬくもりが、やけに胸に刺さった。
◆ ◆ ◆
ホテルの外に出ると、夜の風がルイの頬をなでた。
少しだけ冷たい。けれど、それが心地よかった。
室内の熱と、ナオトの言葉と、料理の余韻──すべてが頭の中で混じり合い、熱を持ちすぎていたからだ。
ルイは一度、立ち止まり、スマホを取り出す。
ナオトの名がまだ、履歴の上に残っている。
もう一度、呼び出すか?
謝るか、言葉をぶつけるか、あるいは──逃げるか。
「……どれも、今の僕じゃない」
つぶやいた声は風に溶けて消えた。
あの味を作ったのは、自分自身だ。
そして、それをナオトの記憶に突きつけたのも、自分だった。
誰かに選ばされたわけじゃない。
誰かのためでもない。
ただ、自分の手で、“あの食卓”に答えを叩きつけたのだ。
だからこそ、今は何も足さない。
もう一言、でさえ、余計だった。
スマホをポケットにしまい、歩き出す。
坂の上から、街の灯が揺れて見えた。
そのなかに、自分の小さな店の明かりもあるはずだった。
あの光が、たったひとつ、自分の手で点けたものだったと、ようやく信じられる気がしていた。
店に戻ると、扉は少しだけ開いていた。
ほんの数センチ。
でもそれが、まるで“誰かが待っていた”証のように思えた。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
カウンターには、アキトがいた。
仮面をつけたまま、ノートを広げ、レシピを見ている。
だが、ページはとっくにめくられていたのに、視線はそこに留まっていた。
つまり、それは“読んでいない”目だった。
「帰ってたのか」
アキトは言ったが、目は合わせなかった。
「うん。……ちょっと、話しただけだよ」
「誰と?」
「……ナオト」
沈黙が落ちる。
けれど、以前のような緊張とは少し違っていた。
どこか、理解したうえでの“静かな圧”のようなものだった。
「君は、料理であの家を殺した」
アキトの声は淡々としていた。
「でも、料理で殺せるってことは──料理で生かせるってことでもある」
「……どういう意味?」
「ナオトはまだ、死んじゃいない。お前の中でもな」
その一言が、胸に刺さった。
まるで、自分の“感情の中身”を、言語化されてしまったような不快感と、
それでもどこか、図星を突かれたような、妙な納得。
ルイは反論しなかった。
反論できなかった。
アキトはゆっくりと立ち上がり、仮面の奥からルイに視線を投げかけた。
「……今夜、時間ある?」
「え?」
「一度、ちゃんと“飯を食おう”。君と、俺とで」
ルイは目を瞬いた。
「……どうして今?」
「今日という日を、忘れないようにするためだよ。君が“潰した”記念日を」
仮面の口元が、わずかに緩んだ。
それが笑みだったのか、皮肉だったのか、ルイにはわからなかった。
ただ、断る理由もなかった。
「……わかった。じゃあ、俺が作る」
「楽しみにしてるよ、ルイ。
君の料理には、“罪”の味がするからね」
それは冗談だったかもしれない。
けれど、ルイの背筋には、確かな緊張が走っていた。
誰かを潰したその夜に、自分の手で“もう一度、誰かと食卓を囲む”。
それが、こんなにも……怖いことだったなんて。
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