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 第23話 わかっていた、それでも

 夜風が冷たい。  ルイは店の裏口をそっと開けて、静まり返った路地に足を踏み出した。  冷蔵庫の機械音も、通りを走る車の音も遠く、まるで自分だけが切り取られた世界にいるようだった。  この数日で、すべてが動きすぎた。  ナオトと再会して、過去が音を立てて押し寄せてきて、気づけば「怒り」よりも「分からなさ」が胸を支配していた。 「なんで今さら、会いに来るんだよ……」  呟いた声は、夜気に吸い込まれた。  その時だった。 「……ここにいると思った」  低く、懐かしい声が背後から響く。  ルイが振り向くと、そこにナオトが立っていた。黒いコートの襟を立て、街灯に照らされながら。 「店の前にいたけど、入れなかった。……勝手に待ってた、ごめん」  その声が、どこか震えている気がした。  けれどルイは、心を固く閉ざすように視線を逸らす。 「……話すことなんて、ないよ」  背を向けようとした瞬間、ナオトが一歩、距離を詰めた。 「でも、俺はある。君に、どうしても言わなきゃいけないことがある」  ルイの足が止まる。  夜の風が、ふたりの間を吹き抜けていく。 「ねえ、ルイ……ずっと言えなかったけど──  俺は……お前のことを、好きだった」  その言葉が、静かに、しかし確実にルイの胸を抉った。 ◆  ◆  ◆  その一言で、ルイの呼吸が止まった。  胸の奥に残っていた怒りも、哀しみも、一瞬にして霧のように広がり、何も掴めなくなった。  “好きだった”。  それは、あまりにも残酷な言葉だった。  もしあのとき、その言葉が聞けていたなら。  あの屋敷の門が閉ざされる前に、あの裁判の日、ナオトが一言でもそう言ってくれていたなら──  きっと、違う未来があった。 「……そんなの、今さら言ってどうするの」  ルイの声は、静かに震えていた。  ナオトは答えない。ただ俯き、苦しげに唇を噛む。  ルイは一歩、彼に近づく。  その顔を、まっすぐに見つめる。 「僕を突き落として、黙って見てたくせに。  全部失って、壊れて、泥の中で這いずって……  “それでも好きだった”? ふざけるなよ」  ナオトの頬が、わずかに引きつった。  だが、ルイの表情に怒りはなかった。  それが、ナオトをさらに深く突き刺す。 「……わかってた。うすうす感じてたよ。  たぶん僕も、同じだったから。……ずっと」  喉の奥が焼けるように熱かった。  吐きそうなほどに。  好きだった。  でも、その“好き”が、自分をどれほど壊したか。  もう、元には戻れない。 「……でももう、僕は“あの頃のルイ”じゃないんだよ」  その言葉に、ナオトが初めて目を逸らした。 「君の“好きだったルイ”は、あの日死んだ。  この店を出す前に、寒い路地裏で、ひとりで泣きながら……死んだんだ」  夜の街に、再び沈黙が落ちる。  ふたりの間に残ったのは、もはや“過去”ではなかった。  言葉にしてしまったことで、取り返しのつかない“現在”が、そこに生まれていた。 ◆  ◆  ◆  ナオトの手が、テーブルの上でわずかに震えていた。  震えを抑えるように、指先を組む。 「……俺は、怖かった」  沈黙の中、ぽつりとこぼれたその声は、小さく、まるで自分に言い聞かせるようだった。 「何が?」 「君を“好き”って認めるのが。  君と目を合わせて、気づくのが。  気づいたら……“もう、守れないかもしれない”って、わかってたから」  その言葉に、ルイの胸が静かに軋んだ。 「だったら、遠ざければよかった? 潰せば楽になった?」 「違う、そんなつもりじゃ──」 「じゃあ、なんで“僕を選ばなかった”?」  ナオトは答えられなかった。  目を伏せ、唇を噛み、何かを必死に堪えている。  ルイはその様子を、ただ見つめていた。  かつて憧れた横顔。  幼い頃、薔薇を育てながら笑ってくれた瞳。  ──あのとき、僕が熱で倒れた夜も、  誰より先に氷を取りに走ってくれたのは、ナオトだった。  その“優しさ”すら、もう今の彼には見えなかった。  もはや、そこにいたのは“あの頃のナオト”ではなかった。  そして、自分も── 「……僕だって、あのまま何も壊れなければ、君の隣にいられたかもしれない。  でも、壊れたんだよ。壊されたんだ。  君が“見なかった”ことで」  ナオトが顔を上げる。  そこに浮かんでいたのは、苦悶と、なにか切実な想いの入り混じった表情だった。 「……だから今さら言う。“好きだった”なんて、  もう、言葉の意味を持たないよ」  ルイはゆっくりと席を立った。  ナオトの目が追ってくる。  でも、ルイの背中はもう──“戻らない”と語っていた。 ◆  ◆  ◆  アキトの部屋を出て、ルイはまっすぐ階段を降りていった。  心臓がまだ暴れていた。  あの仮面の下に、どんな顔が隠れていたのか。  想像するたび、焦がれるような感情と、わずかな怖さが胸に同居していた。 (……「見る資格がない」って、どういうこと)  問いは、答えのないまま頭の中を渦巻く。  アキトの目は、拒絶の中にも痛みのようなものが宿っていた。  ルイはその視線を思い出し、胸の奥を手で押さえた。  もしかして──  あの言葉は、彼の過去を何も知らない“他人”としての僕への線引きだったのか。  それとも、自分の傷さえ知らずに彼の仮面の下へ踏み込もうとした、無防備な僕自身への拒絶だったのか。  足元がふらつき、思わず壁に手をつく。  鏡の中の自分が、ぐにゃりと歪んで見えた。 「……なんで、こんなに……見たいって思ってるんだろう」  素顔が知りたい。  それは、ただの好奇心ではない。  アキトという存在に――もっと近づきたいと、知らぬ間に願っていた。  自分でも気づかぬうちに、いつからか彼の仮面の奥を“心の拠り所”にしていたのだ。  仮面越しに交わした視線、皮肉まじりの声、触れる指先――  そのひとつひとつが、今の自分を支えていた。  だけど、そんな自分にアキトは言ったのだ。  「見る資格がない」と。  まるで、“見たいと思うこと”すら罪のように。  静かに、階下の厨房にたどり着く。  見慣れたカウンターに、手をついた。  ふと、そこに置かれた銀のスプーンが目に入った。  それは、アキトがいつも紅茶をかき混ぜるときに使っていたものだった。  手に取り、そっと鏡のように自分の顔を映す。  ゆらゆらと揺れる輪郭の中で、ルイは小さく息を吐いた。 「俺……まだ何も知らないんだな。アキトのこと……自分のことも」  誰かを理解しようとするには、まず自分の“傷”と向き合うことからなのかもしれない。  スプーンを戻す。  仮面は割れなかった。  けれど、今夜確かに“心の奥”で、何かが音を立ててひび割れた気がした。

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