26 / 44
第23話 わかっていた、それでも
夜風が冷たい。
ルイは店の裏口をそっと開けて、静まり返った路地に足を踏み出した。
冷蔵庫の機械音も、通りを走る車の音も遠く、まるで自分だけが切り取られた世界にいるようだった。
この数日で、すべてが動きすぎた。
ナオトと再会して、過去が音を立てて押し寄せてきて、気づけば「怒り」よりも「分からなさ」が胸を支配していた。
「なんで今さら、会いに来るんだよ……」
呟いた声は、夜気に吸い込まれた。
その時だった。
「……ここにいると思った」
低く、懐かしい声が背後から響く。
ルイが振り向くと、そこにナオトが立っていた。黒いコートの襟を立て、街灯に照らされながら。
「店の前にいたけど、入れなかった。……勝手に待ってた、ごめん」
その声が、どこか震えている気がした。
けれどルイは、心を固く閉ざすように視線を逸らす。
「……話すことなんて、ないよ」
背を向けようとした瞬間、ナオトが一歩、距離を詰めた。
「でも、俺はある。君に、どうしても言わなきゃいけないことがある」
ルイの足が止まる。
夜の風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
「ねえ、ルイ……ずっと言えなかったけど──
俺は……お前のことを、好きだった」
その言葉が、静かに、しかし確実にルイの胸を抉った。
◆ ◆ ◆
その一言で、ルイの呼吸が止まった。
胸の奥に残っていた怒りも、哀しみも、一瞬にして霧のように広がり、何も掴めなくなった。
“好きだった”。
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
もしあのとき、その言葉が聞けていたなら。
あの屋敷の門が閉ざされる前に、あの裁判の日、ナオトが一言でもそう言ってくれていたなら──
きっと、違う未来があった。
「……そんなの、今さら言ってどうするの」
ルイの声は、静かに震えていた。
ナオトは答えない。ただ俯き、苦しげに唇を噛む。
ルイは一歩、彼に近づく。
その顔を、まっすぐに見つめる。
「僕を突き落として、黙って見てたくせに。
全部失って、壊れて、泥の中で這いずって……
“それでも好きだった”? ふざけるなよ」
ナオトの頬が、わずかに引きつった。
だが、ルイの表情に怒りはなかった。
それが、ナオトをさらに深く突き刺す。
「……わかってた。うすうす感じてたよ。
たぶん僕も、同じだったから。……ずっと」
喉の奥が焼けるように熱かった。
吐きそうなほどに。
好きだった。
でも、その“好き”が、自分をどれほど壊したか。
もう、元には戻れない。
「……でももう、僕は“あの頃のルイ”じゃないんだよ」
その言葉に、ナオトが初めて目を逸らした。
「君の“好きだったルイ”は、あの日死んだ。
この店を出す前に、寒い路地裏で、ひとりで泣きながら……死んだんだ」
夜の街に、再び沈黙が落ちる。
ふたりの間に残ったのは、もはや“過去”ではなかった。
言葉にしてしまったことで、取り返しのつかない“現在”が、そこに生まれていた。
◆ ◆ ◆
ナオトの手が、テーブルの上でわずかに震えていた。
震えを抑えるように、指先を組む。
「……俺は、怖かった」
沈黙の中、ぽつりとこぼれたその声は、小さく、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「何が?」
「君を“好き”って認めるのが。
君と目を合わせて、気づくのが。
気づいたら……“もう、守れないかもしれない”って、わかってたから」
その言葉に、ルイの胸が静かに軋んだ。
「だったら、遠ざければよかった? 潰せば楽になった?」
「違う、そんなつもりじゃ──」
「じゃあ、なんで“僕を選ばなかった”?」
ナオトは答えられなかった。
目を伏せ、唇を噛み、何かを必死に堪えている。
ルイはその様子を、ただ見つめていた。
かつて憧れた横顔。
幼い頃、薔薇を育てながら笑ってくれた瞳。
──あのとき、僕が熱で倒れた夜も、
誰より先に氷を取りに走ってくれたのは、ナオトだった。
その“優しさ”すら、もう今の彼には見えなかった。
もはや、そこにいたのは“あの頃のナオト”ではなかった。
そして、自分も──
「……僕だって、あのまま何も壊れなければ、君の隣にいられたかもしれない。
でも、壊れたんだよ。壊されたんだ。
君が“見なかった”ことで」
ナオトが顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、苦悶と、なにか切実な想いの入り混じった表情だった。
「……だから今さら言う。“好きだった”なんて、
もう、言葉の意味を持たないよ」
ルイはゆっくりと席を立った。
ナオトの目が追ってくる。
でも、ルイの背中はもう──“戻らない”と語っていた。
◆ ◆ ◆
アキトの部屋を出て、ルイはまっすぐ階段を降りていった。
心臓がまだ暴れていた。
あの仮面の下に、どんな顔が隠れていたのか。
想像するたび、焦がれるような感情と、わずかな怖さが胸に同居していた。
(……「見る資格がない」って、どういうこと)
問いは、答えのないまま頭の中を渦巻く。
アキトの目は、拒絶の中にも痛みのようなものが宿っていた。
ルイはその視線を思い出し、胸の奥を手で押さえた。
もしかして──
あの言葉は、彼の過去を何も知らない“他人”としての僕への線引きだったのか。
それとも、自分の傷さえ知らずに彼の仮面の下へ踏み込もうとした、無防備な僕自身への拒絶だったのか。
足元がふらつき、思わず壁に手をつく。
鏡の中の自分が、ぐにゃりと歪んで見えた。
「……なんで、こんなに……見たいって思ってるんだろう」
素顔が知りたい。
それは、ただの好奇心ではない。
アキトという存在に――もっと近づきたいと、知らぬ間に願っていた。
自分でも気づかぬうちに、いつからか彼の仮面の奥を“心の拠り所”にしていたのだ。
仮面越しに交わした視線、皮肉まじりの声、触れる指先――
そのひとつひとつが、今の自分を支えていた。
だけど、そんな自分にアキトは言ったのだ。
「見る資格がない」と。
まるで、“見たいと思うこと”すら罪のように。
静かに、階下の厨房にたどり着く。
見慣れたカウンターに、手をついた。
ふと、そこに置かれた銀のスプーンが目に入った。
それは、アキトがいつも紅茶をかき混ぜるときに使っていたものだった。
手に取り、そっと鏡のように自分の顔を映す。
ゆらゆらと揺れる輪郭の中で、ルイは小さく息を吐いた。
「俺……まだ何も知らないんだな。アキトのこと……自分のことも」
誰かを理解しようとするには、まず自分の“傷”と向き合うことからなのかもしれない。
スプーンを戻す。
仮面は割れなかった。
けれど、今夜確かに“心の奥”で、何かが音を立ててひび割れた気がした。
ともだちにシェアしよう!

