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第24話 鏡の中の薔薇
廊下の突き当たり。誰もいない静かな空間に、ルイは立ち尽くしていた。
目の前にあるのは、アキトの部屋の扉。重厚な木の質感が、なぜか今日はやけに冷たく感じる。
ノックするべきか、それとも──と、考えるまでもなく手が扉に触れていた。
指先は震えていない。それがかえって、怖かった。
「見る」って、なんだろう。
あの仮面の下には、何が隠れている? 傷? 秘密? それとも──僕と同じような、壊れかけの心?
(知りたい。でも……知ったら、きっと戻れない)
扉に添えた手に、わずかな温度が伝わってくる。
アキトの気配が、内側から滲み出しているようだった。
こんなに近くにいて、こんなに遠い人はいない。
「……アキト」
小さく名前を呼んでみた。返事はない。
でも、感じている。
彼は、向こう側にいる。沈黙ごと、僕を待っている。
息を吸って、ゆっくりと吐く。
手をかけて、扉を少しだけ押す。鍵は──かかっていなかった。
その事実が、胸の奥をじわりと熱くする。
(僕に、開けることを許した? それとも、試してるのか……)
扉は、わずかに軋んだ音を立てて開いた。
淡い月光が差し込む部屋の奥に、窓辺で立つアキトの背中があった。
仮面の輪郭が、逆光の中に浮かび上がる。
その姿は、美しさと危うさの境界線に立っているようだった。
「……素顔、見せて」
ルイは一歩踏み出しながら、そう口にした。
◆ ◆ ◆
「……素顔、見せて」
その言葉に、アキトの背中がわずかに揺れた。
けれど彼は、振り向かない。仮面越しに外を見つめたまま、静かに言う。
「……どうして?」
「見たいから。……知りたいんだ、あなたのこと」
ルイの声は、静かだが確かだった。
しばらく沈黙が落ちたあと、アキトがゆっくりと仮面に手を添える。
けれど、その指は途中で止まった。
「ダメだよ、ルイ。君は、まだ“見る資格”を持っていない」
その言葉に、胸の奥がざらついた。
ルイは一歩、踏み込む。
「じゃあ、資格って何? 料理か? 過去か? それとも……君に“選ばれる”こと?」
アキトは小さく笑った。けれどその笑みには、いつもの皮肉はなかった。
ただ、寂しげな色が滲んでいた。
「君は今、“誰かに選ばれたくて”動いてるんじゃない。
ナオトに。母に。かつての貴族社会に。……僕にすら」
ルイの喉がつまる。
言い返そうとして、言葉が見つからなかった。
「でも仮面を外されたら、君はまた“自分を誰かの手に渡す”かもしれない。
そうなれば……僕は、君を止められない」
アキトの声が、初めてほんの少しだけ、掠れていた。
まるで“期待”を捨てるような声音だった。
「……そんなに、僕を怖がってるの?」
ルイの問いに、アキトはかすかに目を細めた。
「違うさ。……怖いのは、僕の方だよ」
◆ ◆ ◆
「……怖いのは、僕の方だよ」
アキトのその言葉に、ルイの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
あの仮面の下に、確かに“人間”がいる。そう思わせる声だった。
「君が、仮面を外した僕を見て──“嫌いになる”んじゃないかと、怖い」
淡々とした言い回しなのに、その声の底には怯えに似た震えがあった。
ルイは息を呑む。こんなアキトは初めてだった。
「……嫌いになんか、ならないよ」
そう返したつもりだった。
けれどアキトは、ゆっくりと首を振った。
「そう言い切れるのは、君がまだ“知らない”からだ」
それは、まるで何かを諦めた者の声だった。
月明かりに照らされた仮面の表面が、わずかに濡れているように見えた。
「この仮面の下には、“ルイが知っている世界”とは、まるで別の顔がある。
傷も、罪も、名前すら違うかもしれない。……それでも見ると言うのか?」
ルイは黙ったまま、まっすぐにアキトを見つめる。
視線は逸らさなかった。
「俺は……見たいよ。それが、たとえどんな顔でも」
言葉に、アキトの肩が微かに揺れる。
沈黙のあと、彼はほんの少しだけルイの方を向いた。
「じゃあ、もし“見る資格”を手に入れたら──そのときは、君から仮面を剥がして」
その声音には、かすかな熱があった。
拒絶ではない。
むしろ“希望”が、微かに滲んでいた。
仮面を外すことはまだ叶わなかった。
けれどその瞬間、ルイは確かにアキトとの距離が一歩近づいた気がした。
◆ ◆ ◆
アキトの部屋を出たあとも、ルイの胸の中には、仮面の奥に触れられなかった“熱”が残っていた。
階段を降りる足音が、自分の鼓動と重なって響く。
(“見る資格”か……)
呟きたくなる衝動を、ルイは喉の奥で飲み込んだ。
彼がどんな過去を背負っているのか。
どんな顔で、何を背負いながら“仮面の男”で在り続けてきたのか──
見たい。知りたい。触れたい。
それはもう、好奇心の域を越えていた。
でも、その欲は、どこかで「対等でない自分」に対する焦りとも重なっていた。
(もし“素顔を見た”として……俺は、それに何を返せる?)
厨房に戻ると、明かりの落ちた空間に、かすかに紅茶の残り香が漂っていた。
アキトがいた時間の、名残。
ふと、カウンターの上に置かれた銀のスプーンが目に入る。
反射した天井の灯りが、ルイの顔を曖昧に映し返していた。
スプーンの裏面に映る顔は、ひどく歪んでいた。
けれど、その歪みの中にこそ、自分の“正体”がある気がした。
「……俺だって、仮面をつけてる」
小さく吐き出した言葉が、自分に跳ね返ってきた。
そうだ。
アキトだけじゃない。
自分だって、“見せたい自分”しか見せてこなかった。
傷ついた過去も、負けた記憶も、料理に込めた執念すらも──
誰にも、ちゃんとさらけ出してはいない。
“見る資格”を求めるなら、自分も“見せる勇気”を持たなくちゃいけない。
ルイはスプーンをそっと戻し、棚の一番奥に隠していた古いレシピノートを取り出した。
そこには父の言葉が、かすれたインクで残っている。
《料理は、心の剥き出しだ。嘘をつけば、味が濁る。》
読むたびに苦しくなって閉じていたそのページを、今は静かに見つめることができた。
ルイは深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じる。
アキトの素顔を見る日が来たとき、自分はちゃんと“剥き出しの心”でその顔を受け止められるだろうか──
いや、そうするしかないのだ。
それが、“本当に近づく”ということだから。
仮面はまだ割れていない。
けれど今夜、確かに胸の奥で小さな音がした。
それは、閉ざされていた扉の、最初の“きしみ音”だった。
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