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 第25話 誰もが、君を奪いたい

 厨房に、包丁の音だけが響いていた。  マサキがまな板にリズムを刻むたび、ルイの指先もそれに合わせるように動く。  今夜の仕込みは、誰のためでもなく、自分のための料理だった。  けれど、香りも、火の音も、まるで誰かの気配をまとっているようだった。 「……疲れてんだろ。今日は、もう休んでいい」  無口なマサキが、ふと声をかけてくる。  ルイは首を振った。 「まだ切れてない野菜があるから」  返ってくる言葉を待たず、指を動かし続ける。  でもそのとき、包丁の刃がわずかに滑った。  「っ……」  指先が少しだけ赤く染まる。  次の瞬間、マサキが無言で手を取り、流しに引いた。  冷たい水で傷を洗い、すぐに清潔な布で包む。  その手つきがやさしくて、ルイはうまく息ができなかった。 「無理すんな」  そのひとことに、声よりも大きな“想い”が詰まっていた。  マサキの瞳が、ただまっすぐルイを見ている。  言葉はなくても、その視線が雄弁だった。  ――黙っているけど、ずっと見てた。  料理する姿も、涙を堪える背中も。  そして、誰にも言わず、支えてきた“重さ”も。  包丁の刃が、壁のライトを反射してルイの横顔を照らす。  一瞬、その顔に宿る迷いまでが、切り取られたようだった。 「……俺さ」  マサキが、ふいに言った。 「店を持つ前から、あんたの料理、憧れてた」  その言葉が、煙の中に溶けていく。  どこかで立ち上った湯気が、ふたりのあいだを白く曇らせていた。 ◆  ◆  ◆  ステージ裏、白い光に包まれた控室。  鏡の前に座るルイの背後から、ふわりと甘い香りが近づいた。 「ルイくん、はい、差し入れ」  差し出されたのは、シオンの手作りのハーブティー。  ラベンダーとレモンバームの香りが、ほっと肩の力を抜いてくれる。  ルイは黙って受け取り、礼を言った。 「今夜も、いっぱい来てくれてるよ」  シオンは笑顔のまま、ルイの隣に腰を下ろした。  衣装の白い羽根が、かすかに触れる。  舞台用の照明が、彼の髪を透かしてきらきらと光っている。  その眩しさが、ルイにはどこか痛かった。 「ルイくんって、すごいよね」  ふいにシオンがつぶやいた。 「痛い目を見たはずなのに、誰かのこと、ちゃんと見ようとする。  私なら、怖くて心を閉じちゃうのに」  ルイはティーカップを揺らした。  表面に映るシオンの瞳が、まっすぐにこちらを見ている。 「……見ようとしないと、失うから」  その答えに、シオンはしばらく黙っていた。  やがて、静かに鏡を見つめる。  ルイの隣に並ぶ二人の姿が、そこに映っていた。  ほんの少しの距離。  けれど、その間にあるものは、軽くなかった。 「……君の隣にいられるだけで、嬉しいと思ってた。  でも、それだけじゃ……足りなくなるね」  その言葉に、ルイはハッとシオンを見た。  けれど彼はもう視線を外し、柔らかく笑っていた。 「ごめんね。いまの忘れて」  軽やかな声。でもその背中に、ほんの一瞬、翳りがあった。  白い羽根が、舞台袖の風にゆれて、ひとつ、床に落ちた。 ◆  ◆  ◆  カウンターの上で、氷の溶ける音がしていた。  アキトは仮面をつけたまま、冷えたグラスの底をくるくると回している。  琥珀色の液体が光を弾き、揺れる炎のように見えた。 「……楽しそうだったね、シオンと」  それは問いではなかった。  ただ観察した事実を言葉にしただけの、無機質な声。  ルイは何も言わず、椅子に腰を下ろす。  アキトは一切こちらを見ないまま、続けた。 「君は、気づいてないんだろうね。誰もが君を欲しがってることを」  氷がひとつ、音を立てて崩れる。 「ただ、欲しいからじゃない。“君を知ってる”から、欲しいんだよ」  仮面越しの視線が、ぴたりとルイに向けられた気がした。  口元は見えない。けれど、その声の温度はいつもと違っていた。 「君が傷ついたこと。壊れかけたこと。  それでもなお、綺麗でいようとすること──全部、見てる」  ルイは、グラスの縁に視線を落とした。  その言葉のどこかに、怖さを感じた。 「見てるって、監視してるってこと?」 「違う」  即答だった。 「……君が他の誰かを見ているときでも、  俺はずっと、君の後ろにいた」  その言葉は静かだったけれど、  ひどく冷たく、そして熱を孕んでいた。 「ナオトに触れられたその肌も、  シオンに向けた微笑みも、全部、俺の記憶の中にある」 「……どうして、そんなふうに覚えていられるの?」  問いには答えず、アキトはゆっくり立ち上がった。  仮面の奥の目が、月明かりにわずかに光る。 「君が“選ぶ”日が来るまで、俺は君の影でいよう。  でも──そのとき、誰かの腕の中に君がいたら……」  彼は一歩、ルイに近づく。  そして囁くように言った。 「……俺は、君ごと、壊すかもしれない」 ◆  ◆  ◆  厨房に戻ったルイは、無言のままコンロの前に立った。  鍋の中ではスープがぐつぐつと音を立てていた。  立ちのぼる湯気に顔を近づけ、鍋の中の世界に逃げ込む。  けれど、ドアが開く音がして、すぐに現実が戻ってくる。 「よォ」  マサキだった。  無骨な顔。だが、手には花束が握られていた。 「……何それ」 「知らん。シオンに持たされた。おまえに、って」  ルイは苦笑する。  マサキはぶっきらぼうにカウンターにそれを置き、スプーンを取り出してスープをひと口すする。 「味、落ちたな」 「は?」 「気が散ってる証拠だ」  その指摘に、ルイは言い返せなかった。  手が震えていた。ナオトの言葉。アキトの視線。シオンの微笑み。  それぞれが全く違う色でルイを包み、引っ張り合っていた。  自分が“選ぶ”ことに追い詰められていたのではない。  “選ばれる”という視線に、もう耐えきれなくなっていた。  マサキはその沈黙を見て、静かに一歩、ルイに近づく。  背後から回り込むように、鍋の火を弱め、トングで麺をすくう。 「……俺はさ、おまえがどういうヤツか、別に知らなくていい。  過去に何があったとか、誰を好きだとか。そんなもんどうでもいい」  トングを置いて、ルイの手の甲に手を重ねた。  無骨で熱い手だった。 「でも今、ここで頑張ってる“おまえ”は──俺には、すげえ綺麗に見える」  ルイは息を飲んだ。  マサキの手はすぐに離れる。触れる以上のことはしない。  けれどその手の温度が、掌の奥に焼きついた。  ドアがまた開く。シオンが息を切らしながら現れる。  白い衣装に羽根をまとったまま、何かを決意した目でルイを見た。 「ごめん、我慢できなかった……」  そのまま駆け寄ってきて、ルイの手を握る。 「私、やっぱり君が好き。  ずっとそばにいたいって思ってたけど……違う。“君の特別”になりたい」  息が詰まる。  目の前に、マサキの視線。横に、シオンの手の温もり。  脳裏に浮かぶのは、アキトの仮面越しの沈黙。  そしてナオトの、吐きそうなほど痛い「好きだった」の記憶。  ──誰もが、君を奪いたい。  愛が怖いのではなかった。  “愛されることを受け入れると、自分が消えてしまう”気がした。  熱い鍋の前で、ルイの手が震える。  このまま、自分が“誰かのもの”になってしまう気がして。  だから、彼は静かに目を閉じた。  その瞬間、ひとすじの風が背後から吹いた。  振り返ると、仮面の男が静かに扉の前に立っていた。  誰にも言葉をかけず、ただ“影”のように、そこにいた。

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