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第26話 嘘と、本音の境界線
厨房の空気が静まり返っていた。
冷蔵庫の音さえ遠く、まるで時間が止まったかのようだった。
ルイは、食器棚に映る自分の顔を見つめていた。
仮面も化粧もしていない、ただの「自分」――けれど、その輪郭すら曖昧に感じた。
「……誰かのもの、みたいな顔してるな」
ぽつりと呟いて、苦笑する。
シオンは優しかった。マサキも黙って支えてくれた。
アキトは、あの夜、仮面の奥から「肯定」の声をくれた。
そしてナオトは──僕を潰したその人が、今になって「好きだった」と言った。
まるで誰もが、僕を「奪いたがってる」みたいだ。
でもその中心にいる僕は、ずっと「自分が何者か」すらわからないままだ。
鏡に映る自分が、少し曇って揺れる。
厨房の奥、食洗機の湯気がかすかに立ち昇っていた。
そのときだった。
コンコン……と、控えめなノック音が、扉を叩いた。
心臓がひときわ強く跳ねる。
まさかと思いながら扉を開けると、そこにナオトが立っていた。
黒いコートを着て、目の下には疲労の色が濃く、手には小さな包みを持っていた。
「……今、少しだけ、いいか?」
その声は、いつもの硬さを失っていた。
いや、たぶん……はじめて聞く“素の声”だった。
ルイは一瞬、ためらったあと、小さくうなずく。
その仕草に、ナオトがほっと息をついたのがわかった。
厨房のカウンター越しに、ふたりは向かい合う。
沈黙が、ナイフのように張りつめていた。
ナオトがそっと、手の包みをテーブルに置いた。
中から出てきたのは、昔ルイが好んでいた紅茶の葉だった。
「覚えてたんだ、これ……」
「忘れたくても、忘れられなかった」
その言葉のあとに続くものを、ルイは無意識に身構えながら待っていた。
◆ ◆ ◆
ナオトは紅茶を淹れる手元をじっと見ていた。
ルイの所作は静かで、どこか儀式のようだった。
そして、その沈黙すら「会話」のように思えた。
「……俺さ」
ナオトがぽつりと口を開いた。
「君を見てなかった」って言ったけど──たぶん違うんだ。
ルイは顔を上げず、手を止めなかった。
「“見なかった”んじゃなくて、見ないようにしてたんだよ。
見たら……守りたくなってしまうと思ってた。
でも、守るには……俺は弱すぎた」
カップにお湯が注がれる音だけが、二人の間を満たす。
「そんなの、言い訳にしか聞こえないよ」
ルイは静かに言った。
けれど、その声はどこか少しだけ、震えていた。
ナオトは、首を縦に振った。
「うん。わかってる。……でも言わなきゃいけなかった」
ルイはカップをテーブルに置いた。
湯気が、ふたりの間に薄い壁のように漂う。
「言葉ってさ。言わなきゃ届かないけど──
言っても、取り戻せないことってあるよね」
「ある。……でも、それでも、言わなきゃいけないことがある。
言わなかったことで、君を一度、手放したから」
ナオトの目が、紅茶の湯気越しに揺れていた。
「俺は、“君を好きだった”んじゃない。
……今も、好きなんだ」
その一言に、ルイはわずかに眉をひそめた。
でも、怒りではなかった。
ただ、答えが出せないまま、
気持ちだけが先に届いてしまったことに、
胸がきしんだ。
◆ ◆ ◆
「……だったら、どうしてあのとき、手を伸ばしてくれなかったの?」
ルイの問いは、まるで傷口を指でなぞるように静かだった。
怒鳴らない。泣かない。ただ、まっすぐに。
だからこそ、ナオトの胸を深くえぐった。
「君の手が届いた距離に、僕はいたのに」
ナオトは何も言えなかった。
何千通りもの言い訳が、喉の奥で崩れていく。
この場で吐いてしまえば、ただの汚れた真実にしかならなかった。
「僕は、君に壊されたと思ってた。でも違う」
ルイは自嘲するように、笑った。
紅茶に指先を添えて、冷めかけた香りを吸い込む。
「壊れたのは、自分で期待したからだ。
君に何かを“見てほしい”って、願ったのは……僕の方だったんだよ」
ナオトが顔を上げた。
そこには、責めるでもなく、許すでもなく──ただ“受け止める”ルイの瞳があった。
「でもね……」
ルイはふっと目を伏せた。
「もう、その頃の“僕”はいない。
君に何も期待しないって決めたから。
この手で、自分の人生を組み直すって決めたから」
ナオトの胸に、ぽっかりと穴が開く。
ルイは、もう前を向いていた。
でもそれは、「ナオトのいない世界」を歩いていく覚悟だった。
「今さら“好きだ”なんて言われても、どうすればいいの?」
その問いは、答えを求めてなどいなかった。
「……ごめん」
ようやく絞り出されたその言葉に、ルイはうっすらと目を細めた。
「ごめんで、すべて戻るなら、誰もこんなに壊れたりしないよ」
◆ ◆ ◆
ナオトが帰ったあと、ルイは一人でカウンターに座った。
紅茶の香りはすっかり消えて、カップの底には冷めた時間だけが残っていた。
手のひらでその余熱を確かめながら、ルイは目を閉じた。
思い出したのは、昔のナオトの笑顔。
あの庭で一緒に薔薇を育てていたとき、泥だらけで笑っていた少年の横顔だった。
「好きだったんだよ、きっと……ずっと」
小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。
でもその“好き”は、もはや過去形にしかできなかった。
今のナオトに抱く感情は、懐かしさでも、痛みでも、あるいは哀れみかもしれない。
ただひとつ確かなのは、あの頃に戻ることはもうできないということ。
──それでも、言葉にしてくれたのは、本音だった。
そして、その本音が“遅すぎた”こともまた、事実だった。
「……本音って、いつも遅れてくるんだな」
ルイは笑った。悲しくも、少しだけ優しい笑みだった。
そのとき、ふと扉が開く音がした。
「……アキト?」
仮面の男が、静かに厨房に入ってきた。
仮面の下の表情は読めない。けれど、その気配はわずかに張り詰めていた。
「さっき、すれ違ったよ。……ナオトと」
その言葉だけで、アキトが何を感じたか、ルイには想像がついた。
「嫉妬、してるの?」
アキトは笑わなかった。ただ一歩、近づいてこう言った。
「“君の過去”と“今の君”は、別物だとわかってる。
でも──君の目が、まだあいつのことを“好きだった”と言った」
それは責める声ではなかった。
ただ、事実を静かに告げる声だった。
ルイは、視線を伏せた。
過去は、すでに終わったはずだった。
けれど、想いの余熱はいつまでも胸の奥でくすぶっている。
アキトが、そっと言った。
「だから、“今の君”が誰を見るか、教えて」
その言葉に、ルイはゆっくりと顔を上げる。
仮面越しに目が合った。
それだけで、胸の奥の答えが少しずつ形を持ち始める気がした。
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