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第27話 君を選ぶと、誰かが泣く
朝の厨房は、いつになく静かだった。
包丁の音も、鍋の沸騰も、まだ始まっていない。
ルイはカウンターに肘をつき、しばらく無言で厨房の隅を見つめていた。
湯気の立たないコーヒーポット。洗われたまま伏せてある皿。
何かが、“そこにない”。
マサキのいつもの位置に、エプロンが掛かっていないことに気づく。
小さな違和感が、胸の奥でざらりと鳴る。
「……今日、来てないのか」
言葉にした瞬間、室内の空気がいっそう冷たく感じられた。
冷蔵庫の機械音が、妙に耳につく。
ルイは指先で、残されたマグカップをくるりと回す。
それはマサキのものだ。毎朝、ミルクだけ入れて黙って飲む、彼だけの味。
――そこに、もういない。
胸に、小さな痛みが広がった。
昨夜、誰かと向き合った。言葉を交わした。気持ちを知った。
それでも、“全員を抱きしめた”わけじゃない。
(……誰かを選ぶってことは、誰かに背を向けるってことなんだ)
マサキは何も言わなかった。けれど、その“沈黙”こそが答えだったのかもしれない。
誰も傷つけないなんて、幻想だ。
料理と同じだ。最後に残ったひと皿を、誰かが手に取れば、もう他の人には届かない。
カップの底に沈んだミルクの跡が、うっすらと白く残っていた。
◆ ◆ ◆
ドアのベルが鳴った。
軽やかな音。振り返ると、そこに立っていたのはシオンだった。
白いシャツに、羽根のようにひらめくスカーフ。
けれど、いつものように笑ってはいなかった。
「……来ちゃった」
声は柔らかいのに、どこか張りつめていた。
ルイは思わず口元を引き結ぶ。
「今日、休みだったんじゃ……?」
「うん。でも……なんとなく、来たくなっちゃって」
笑おうとしたシオンの目が、少しだけ赤く見えた。
疲れているような、泣きはらしたような。
ルイはその違和感を、あえて指摘できなかった。
「マサキさん、いないんだね」
シオンが、ぽつりと言う。
「ああ……朝から、連絡もない」
ルイの声も沈む。
カウンターを挟んだ距離に、ふたりの沈黙が降りた。
時計の秒針が、妙に大きく響いている。
「……ねえ、ルイくん」
シオンの声が、ふいに真っ直ぐになる。
「選ぶつもり、ある?」
「……え?」
「誰かを、じゃなくて。“自分”をだよ」
シオンの笑みは、優しさよりも痛みに近かった。
「ルイくんは、たぶん……誰かのために動きすぎてる。
料理も、言葉も、優しさも。
でもさ、本当は──“自分のため”に、何かをしたことってある?」
ルイは言葉を失う。
その問いは、あまりにも核心に近すぎた。
「……今の君は、どこを向いてるか分からない。
マサキさんも、アキトさんも、ナオトさんも。
みんな、ルイくんを“欲しがってる”のに……君は、まだ自分を見てない気がする」
静かに、シオンは目を伏せた。
「……ねえ、選ばれるより、選ぶ方が怖いよね」
それは、まるで自分に言い聞かせるようだった。
◆ ◆ ◆
シオンが帰ったあとの厨房は、再び静まり返った。
扉の閉まる音が、耳の奥で何度も反響していた。
ルイはカウンターに背を預け、天井を見上げる。
選ばれることを、ずっと怖がっていた気がする。
誰かに期待されるたびに、応えようとして、すり減って。
でも今──
“誰かを選ぶこと”のほうが、もっと恐ろしいのだと痛感していた。
(……だれも、傷つけたくなかった)
それはただの甘さだった。
優しさに見せかけた、責任回避。
誰も選ばなければ、誰も失わずに済むと――
そう思い込んでいた。
でも、違った。
マサキは姿を消し、シオンは涙を隠し、アキトは仮面の奥で沈黙し、ナオトは立ち尽くしていた。
みんな、それぞれのかたちで“待っていた”。
それなのに、自分だけが“立ち止まっていた”。
ふと、壁に掛けられたカレンダーに目がいく。
今日の日付に、赤い丸がついていた。
──店を正式にオープンさせた日。
あの日、自分は言ったはずだ。
「この場所で、全部取り返す」って。
料理で勝つ。
過去に打ち勝つ。
誰かのためじゃない、“自分のため”に生きる。
ルイはゆっくりと目を閉じた。
かすかに震える指で、エプロンの裾を握りしめる。
(もう、逃げない)
自分を選ばなきゃ、誰かなんて選べない。
この混沌と痛みの中で、最初に救い上げるべきは、他の誰でもなく──
“ルイ”自身だった。
◆ ◆ ◆
その夜、ルイは閉店作業を終え、厨房の明かりを落とそうとした。
そのときだった。
奥の裏扉がわずかに開いているのに気づく。
風かと思った。けれど違った。
その隙間から、誰かがひっそりと出ていこうとしていた。
「……マサキさん?」
呼びかけると、背中がびくりと動いた。
振り返ったマサキの顔には、いつもの寡黙さとは違う、深い葛藤が滲んでいた。
「……悪い。鍵、置いてく」
ポケットから無言で差し出された鍵束。
ルイの手の中に置かれたそれは、ひどく冷たかった。
「待って。どういうこと? どこに行くの?」
問いかけても、マサキは目を合わせなかった。
肩にかけたバッグは軽く、長くいるつもりの荷物ではない。
「……ここは、もう俺がいる場所じゃない。
誰かに選ばれるために、残るつもりもない」
「誰かにって……それって、僕が──」
「気づいてたろ。料理中のお前、誰の顔を思い浮かべてるか」
静かな声が、鋭く突き刺さる。
ルイは、返す言葉を持たなかった。
黙ったまま、マサキが一歩、扉に近づく。
「……シオンが来た日から、決めてた。
誰かが泣くなら、それが俺でいい。
……お前には、前を向いてほしいから」
「待って、それって違う──」
「違わないよ。お前は、もう“俺の背中”なんて見てない」
それは、優しさの言葉だった。
突き放すのではなく、見送るための覚悟だった。
けれどその優しさは、ルイにとって残酷だった。
もう一度、名前を呼ぼうとした。
けれど唇が動いた瞬間、マサキはもう背を向けていた。
扉が静かに閉まる音がした。
ドアベルは鳴らなかった。
あとに残ったのは、淡く揺れる煙の匂いと、暖かさの残った鍵だけだった。
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