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第28話 仮面が割れた夜
蝋燭の灯りだけが、部屋を照らしていた。
静けさの中、アキトはひとり鏡の前に座っていた。
深い紺色のローブを羽織り、仮面をつけたまま、己の影と向き合っている。
鏡の奥に映るのは、夜と同じ色の髪、冷たい金属の仮面――
そして、その奥に潜むもの。
彼は、仮面に指をかけた。
ゆっくりと、慎重に。けれど、すぐにその手は止まる。
震えていた。
まるで、仮面の向こうに閉じ込めた“何か”が、今も彼の手を拒んでいるように。
外すことは、簡単だった。
けれど、“見せる”ことは、簡単ではなかった。
それは、過去そのものを曝け出す行為だから。
(まだ……ダメだ)
そっと手を引いたそのとき、扉の前から気配がした。
ノックはない。ただ、静かに、ゆっくりとドアが開かれる。
「……入っても、いい?」
その声に、アキトの背筋がわずかに揺れた。
ルイだった。光を背負い、扉の向こうに立っていた。
彼の瞳が、仮面越しにまっすぐアキトを見つめてくる。
「君の……本当の顔を、見せてほしい」
その言葉は、夜より静かで、それでいて刃のように鋭かった。
アキトは、答えなかった。
ただ、蝋燭の炎が、小さく揺れた。
◆ ◆ ◆
「……どうして、今、見たいなんて言うんだ」
アキトの声は低く、どこか脆かった。
いつものような芝居がかった余裕は、そこにはなかった。
仮面の奥で、何かが崩れかけている――そんな気配。
ルイは数歩、彼に近づいた。
仄かな蝋燭の光が、二人の影を壁に伸ばす。
「僕、ずっと気づかないふりしてた。
君が何を隠してるのか、なんで仮面をつけ続けるのか……
でも、それって結局、“怖かった”からなんだと思う」
「怖かったのは、君のほうじゃない」
静かに返されたその言葉に、ルイは目を見開く。
「君がもし……僕の顔を見て、後悔したらどうする?」
アキトは仮面越しに、ルイを見た。
その声は、仮面の下の震えを隠しきれていなかった。
「綺麗なものだけ見ていればよかった。
幻想として、優しく“仮面の男”を愛してくれればよかった。
でも……本物を見れば、君は“幻滅”する」
「そんなの、君が決めることじゃないよ」
ルイの声が、はっきりと空気を裂いた。
「選ばせてよ。僕に。君を“知りたい”って思う気持ちは、偽りじゃないから」
アキトの手が、仮面に触れる。
だが、外そうとはしなかった。
代わりに、ぽつりと――まるで自嘲のように囁いた。
「君は……まだ、“見る資格”がないよ」
その言葉は、ルイの心を真っ二つに裂いた。
◆ ◆ ◆
「“資格”って……何?」
ルイは、喉の奥から出た言葉を、静かに吐き出した。
問いというより、祈りに近かった。
アキトは答えない。ただ、蝋燭の炎を見つめたまま、沈黙を守る。
仮面がわずかに揺れるたび、彼の呼吸が不安定になっていくのがわかる。
「君が僕のことをずっと“見てた”って、知ってるよ。
何度も影で助けてくれてたことも。
だからこそ……本当の君の顔を、僕の目でちゃんと、見たい」
ルイは一歩近づいた。
指先が、アキトの頬に触れようとする。
だがその直前で、彼の手は弾かれるように退けられた。
「……ダメだ」
アキトの声が、まるで幼子のように弱々しかった。
「僕の顔は、“見る”ものじゃない。……“晒される”ものなんだ。
そして、晒された瞬間に、人は僕を恐れ、軽蔑し、拒絶する。
それが、ずっと僕の“人生”だった」
言葉が苦く、重く、部屋の空気に沈殿する。
「僕は、支配することでしか“繋がり”を信じられなかった。
君を所有したかったのも……ただ、君だけが僕を“人間”として扱ってくれたからだ」
ルイの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……それを、君は“愛”とは呼ばないかもしれない。
でも、僕にとっては……もうそれ以外の生き方なんて、わからなかったんだ」
仮面の男。仮面の愛。仮面の人生。
それがアキトだった。
けれど、いま目の前にいる彼は、もう仮面を「身につけた怪物」ではなかった。
ただ、“素顔を拒絶された少年”の延長にすぎなかった。
ルイは、そっと言った。
「……だったら、“それ”を壊すよ」
「え?」
「君が信じてた“愛の形”を。
そんなのじゃ、僕は手を取れない。
だから……壊してよ、アキト。
君自身の手で、仮面を――」
そのとき、蝋燭の炎が一瞬だけ揺れ、パチッと音を立てた。
それはまるで、**「決断の音」**だった。
◆ ◆ ◆
蝋燭の灯りが、再び静かに揺れた。
アキトの指先が、仮面に触れる。
今までと同じ動作――けれど、何かが違っていた。
「……壊すよ」
その声は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
ゆっくりと、確かに、仮面の縁に手がかかる。
金属がわずかにきしむ音。
沈黙が濃くなる。息を呑む気配すら、部屋には存在しない。
――そして。
仮面が、落ちた。
音はしなかった。
それはあまりに自然に、ただ“重力に従った”だけのように、床へ滑り落ちた。
蝋燭の灯りが、その素顔を照らす。
白く、やわらかい肌。
だが左目の下には、炎のような傷痕が走っていた。
それはまるで、彼の過去の“罪”が焼き付けられたかのように、痛々しく、そして美しかった。
ルイは、何も言わなかった。
ただ、一歩、近づいていく。
アキトの顔が歪む。
拒絶でも、羞恥でもない。――恐怖だった。
「……見たくなかったろ?」
ようやく絞り出した声。
だが、ルイの答えは静かだった。
「違う。ようやく、“君の顔”を見られたって思った」
その言葉に、アキトの目が震える。
彼の中で、何かが崩れ落ちたようだった。
強がりでも皮肉でもない、ただの肯定。それが、どれほど彼を救ったのか。
ルイはさらに近づき、そっとその頬に触れた。
傷跡をなぞるように。
そして、言った。
「これが“君”なんだろ? だったら、僕は……その君に、ありがとうって言いたい」
アキトの瞳から、ぽたりと涙が落ちた。
それは、彼にとって“初めての涙”だったのかもしれない。
仮面の下に隠していたすべてが、今夜――ようやく、解けた。
床に落ちた仮面は、もう誰にも拾われなかった。
それが、“夜の終わり”だった。
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