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 第29話 抱いて、潰して、愛して

 仮面が割れた夜の静寂が、まだ体の奥に残っていた。  アキトの部屋は静かだった。紅茶の香りも、仮面の重みも、今はもうない。そこにあるのは、微かに湿った空気と、2人の呼吸音だけ。 「……今夜は、帰らないで」  その言葉は、囁きのようで、命令のようだった。  ルイは答えなかった。答えられなかった。ただ、胸の奥がざわついていた。  この男は、いつもそうだ。問いかけの形で、命を下す。  だけど今は、それが嬉しいと、思ってしまった。  復讐。怒り。哀しみ。  全部、ちゃんと心にあるのに――  それ以上に、「この手で抱かれたい」と願ってしまう自分がいた。  アキトは、ルイの頬に触れた。  いつも手袋をしていたその指が、今は素肌のまま、静かに温度を伝えてくる。  ルイは息をのんだ。  この温度が、なぜか「生きている」証のように思えた。  誰かに求められること。それが、こんなにも甘くて、怖い。 「……壊してくれてもいい」  気づけば、そう呟いていた。  アキトの瞳が、わずかに揺れた。だがすぐに微笑む。  そして、ルイの手を取り、そっと唇を寄せた。  シャツのボタンに、ルイの手が触れる。  ――壊されてもいいと思った。……今夜だけは。 ◆  ◆  ◆  ベッドの端に腰かけたまま、ルイは目を伏せていた。  アキトの指が、そっと首筋に触れる。  その動きは優しく、それでいて、支配の意志を隠そうともしない。 「おまえの体は、嘘をつけないんだね」  アキトが囁く。唇が、耳の近くをかすめた。 「……うるさい」  声に力はなかった。拒絶の形を取りながら、その指先を振り払うことはできなかった。  アキトの手が、シャツの裾を引き上げる。  露わになった肌に、熱のような視線が這う。  その一つ一つが、「見る」以上に「所有」しようとする眼差しで――ルイは背筋を震わせた。 「壊すって言ったろ?」  アキトの声が低くなる。  「君が“愛される”ことを望むなら、俺はその愛で、君を殺せる」  その言葉は、ひどく静かで、優しくすらあった。  ――けれど確かに、「狂っていた」。 「怖いんだよ……お前のそういうところが」  そう言ったルイの手を、アキトはそっと握る。 「でも君は、その“怖さ”に触れに来たんじゃないのか?」  何も言えなかった。  部屋の照明が落ちていく。光の輪郭が崩れる中で、ルイはただ、彼の体温に沈んでいった。  この夜のことを、忘れることはないだろう。  たとえ、明日、別の誰かの手を取ったとしても―― ◆  ◆  ◆  しばらくの静寂が続いていた。  アキトの腕の中で、ルイは目を閉じていた。  吐息が触れるたび、火照った肌がかすかに震える。  互いの体温は重なっていたのに、心は、それぞれ別の場所にいた。 「……どうして、こんなことに……」  ルイは、小さな声で呟いた。  それは自問だった。  アキトの腕の中にいながら、なぜ「孤独」を感じるのか。  アキトは返事をしなかった。  代わりに、その指先で、ルイの髪をなぞる。  優しさと支配の境目が、わからない。  ルイの心の中では、過去の残骸がざわめいていた。  ナオトの声。  母の手。  凍える路地裏。  そして、あの“夜風”。  「全部捨てて生きる」と決めたはずだった。  それなのに今、自分は――アキトに抱かれて、どこにも逃げられない場所にいる。  愛されたかったわけじゃない。  ただ、“必要とされる存在”になりたかった。 「……アキト」  名を呼ぶと、彼はそっと目を伏せた。  仮面のない素顔は、あまりにも人間的で、美しかった。  けれどその瞳の奥には、拭えない影があった。 「君は今夜、俺を選んだ」 「……選んでない。ただ、逃げられなかっただけ」  その答えに、アキトはうっすらと笑った。  その笑みが、どこか寂しげだった。 「選んでないなら……選ばせるよ。いつか、必ず」  ルイは、その言葉に言い返せなかった。  仮面を脱いでも、アキトはやはり“アキト”だった。  その男の愛は、やさしさと狂気のあいだにある。  そしてその愛を、ルイは確かに――“欲しがってしまった”。  眠れない夜だった。 ◆  ◆  ◆  朝が来ても、部屋はまだ夜を引きずっていた。  ベッドの隅、皺の残るシーツの上に、ルイは膝を抱えて座っていた。  アキトはもういなかった。  夜明け前に無言で服を着て、静かに出ていった。  玄関のドアが、最後に一度だけ静かに鳴った。  その音のあと、床に仮面の欠片のような光が一瞬だけ反射する。  残された空気には、わずかに紅茶の香りが漂っていた。  去り際、アキトは仮面をつけ直さなかった。  ――あの夜の仮面は、顔ではなく、“心”を隠すためのものだったのかもしれない。  そして、振り向かずに言った。  「紅茶の味、変わったね」  それは、彼なりの告白だったのかもしれない。  温もりは、まだシーツに残っている。  でも、それは少しずつ消えていく“痕跡”でしかなかった。  ルイは腕を見下ろす。  薄く、指の跡のような赤い痕が残っている。  痛みはないのに、やけに重たかった。 「……最低だ、俺」  誰に向けたわけでもない言葉が、部屋に沈んでいく。  心が、はっきりと形を持たずに、ただ軋んでいた。  目の前に置かれたティーカップには、昨夜の紅茶が残っていた。  もう冷めきっている。  アキトがよく言っていた、「紅茶は熱いうちに味わえ」という言葉を思い出す。 (……俺は、冷めてからしか飲めないくせに)  カップを手に取り、口をつける。  ぬるくて、渋くて、飲めたものじゃなかった。  けれど、それすら今の自分に似ている気がして、捨てられなかった。  その時、扉がノックされた。  ルイは肩を震わせ、ゆっくりと立ち上がる。  開けると、そこにいたのは──ナオトだった。  ナオトの手には、昨日ルイが作った試作品のラッピングが握られていた。  包装紙は少しだけ、しわくちゃになっていた。  息を飲む。  昨夜の熱が、まるで罪のように喉に張りついていた。 「……話、してもいい?」  ナオトの声は低く、しかしどこか切実だった。  ルイは答えない。  だが扉を閉めなかった。それがすべてだった。  ナオトが一歩、部屋に入る。  その瞬間、空気が変わった。  閉じ込めていた夜が、ふたたび部屋の中に流れ込む。  アキトの残した温度と、ナオトの言葉が、今この部屋でぶつかろうとしていた。  そしてルイは気づいた。  この部屋の中で揺れているのは、“自分の選択”だった。  抱かれたことも、扉を開いたことも──誰のせいでもない。  自分の手で、選んでしまったこと。

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