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第30話 明日を選ぶ、君の手で
朝の光が、カーテンの隙間から床に落ちていた。
ほんのり白んだ空気が、まだ冷たい部屋の空気をゆっくりとかき混ぜていく。
ルイはベッドの端に座り、腕を抱えていた。
眠っていない。眠れなかった。
夜は終わったはずなのに、心はまだ“あの夜”に取り残されていた。
アキトが出ていったときの足音を、何度も反芻する。
最後に見た素顔。
振り向かずに呟かれた「紅茶の味、変わったね」の一言が、胸に焼き付いて離れない。
それは、アキトなりの「さよなら」だったのか。
それとも、「始まり」だったのか。
紅茶の残り香ももうほとんど消えている。
仮面の欠片もどこにもない。
部屋にあるのは、自分の体温だけだった。
静けさが、逆にうるさかった。
何も言わない壁や椅子や窓が、全てを知っているようで、胸を圧迫する。
(……本当に、あの夜を望んだのは、俺の方だったのか?)
問いに答えはない。けれど、ひとつだけ分かることがある。
あの夜を「過ち」と言い切れない限り、今の自分はまだ揺れている。
揺れているのに、進まなきゃいけない。
光の中に、時計の針が反射していた。
朝が、確かに来ている。
昨日に引きずられても、今日という日は、それでも進む。
――だから、選ばなきゃいけない。
誰のために、自分の未来を作るのかを。
◆ ◆ ◆
厨房の扉を開けると、そこにはナオトがいた。
白いシャツに、ジャケットを引っかけたままの姿。
緊張でかすかに震えている手が、ルイの視界に入る。
けれどナオトは、何も隠そうとしなかった。
「……紅茶、いれるよ」
そう言って、ナオトはカップを二つ並べる。
昨夜の残り香とは違う、柑橘のブレンドだった。
湯気が立つ。
その匂いが、ルイの過去と今を分ける境界線のように漂った。
「……あいつが、来たんだな」
唐突だったが、否定する理由もなかった。
ルイは頷く。
「うん。……昨日の夜、一緒にいた」
「そうか……あいつといたのか」
「ああ……全部、受け入れたよ」
ナオトの指が、紅茶の入ったカップに触れ、止まる。
だが彼は怒らなかった。嘲らなかった。
ただ、息を吸い込むようにして言葉を絞り出した。
「……それでも、ここに来てくれたんだな」
ルイは何も返せなかった。
来た理由を、まだ自分でもうまく言語化できていなかったから。
だがその沈黙が、ナオトの中で何かを確信に変えたようだった。
「俺さ……ルイ。
今まで、自分が“傷ついた側”だと思ってた。
でも、本当に痛かったのは、君の方だったんだよな」
それは、ようやく言葉になった“悔い”だった。
その響きに、ルイの心が、わずかに軋んだ。
◆ ◆ ◆
ナオトの言葉に、ルイはゆっくりとカップを置いた。
湯気が、わずかに揺れる。まるでふたりの心の距離のように。
「傷ついたのは……たぶん、どっちもだよ」
ぽつりと、そう返す。
「でも、俺は君を“見なかった”。選ばなかった」
「そうだね。あのとき、君は“見ないほう”を選んだ」
ルイは静かに言う。責める口調ではない。
ただ、“過去を正確に語る”ための言葉だった。
「だけど今、君はここにいる。……それは事実だから」
「……それで許されると思ってるわけじゃない」
「わかってるよ」
そのやりとりは、穏やかで、どこか痛々しかった。
まるで何年も前の喪失を、いまになってゆっくり手当てするような――
そんな、ぎこちない優しさがあった。
ナオトが立ち上がり、ルイの前に回る。
手を差し出す。
「もう一度だけ……君の手を取りたい」
「この前は“好きだった”って言ったけど、違う。
今も……今こそ、好きなんだ。ずっと」
手のひらが、ルイの前にある。
アキトの冷たい仮面とは違う、素肌のままの申し出だった。
――それでも、ルイはその手を取らなかった。
理由はわからなかった。
ただ、今の自分にとって、それは“まだ選べない重さ”だった。
ナオトの手が、わずかに揺れた。
それでも引っ込めない。待っていた。
「……君が選ばないなら、誰かが泣く」
ナオトの声は、かすれていた。
「でも、それでもいい。君が君の意思で選ぶなら」
ルイは答えないまま、ただその言葉を飲み込んだ。
そして胸の奥で、もう一つの声が囁いていた。
(――アキトも、同じことを言った)
“選ばないなら、俺が選ぶ”
“でも、選べるのは君だけだ”
言葉の矛盾。けれどその裏にあるのは、同じ欲望だった。
君を、手に入れたい。
だけど、君自身が望んでいなければ、意味がない。
◆ ◆ ◆
厨房の窓辺に、朝の光が射していた。
その淡い光が、昨日まで蕾だった白い薔薇をゆっくりと照らしている。
──この場所に越してきたとき、ルイが植えたものだった。咲くはずはないと、どこかで思っていた薔薇だった。
彼は静かに椅子を引き、テーブルの上にあった銀のスプーンを手に取った。
その裏面に、ぼやけた自分の顔が映る。あの夜の仮面。まだ、心の奥に食い込んでいる仮面。
でもその曇りは、もう“見えないもの”を怖がっているだけだと、わかっていた。
キッチンに戻り、ガスコンロの火をつける。
青白い炎の輪が、やわらかくゆらめいた。
その火に、小鍋をかけて紅茶を温め直す。
「……味が変わったって、言われたな」
小さく呟いたその声は、熱に揺らめいてすぐに消えた。
だが、それでもルイの手は止まらない。
茶葉を足し、時間をかけて抽出する。冷えた紅茶をただ戻すのではなく、“新しく淹れ直す”ように。
数分後、湯気が立つ。
その湯気は、窓ガラスに小さな曇りを残し──まるで、割れた仮面の断片のようににじんだ。
──彼は、もう選んでしまっていたのかもしれない。
だが、それでも「明日」は、まだ選べる。誰と、どこへ、何を作るか。
ルイはティーカップを手に取り、ひと口だけ含んだ。
舌の上に広がる熱は、昨日とは違う“今の味”だった。
そしてその瞬間、ようやく気づいた。
「味が変わった」のではない。変わったのは、自分のほうだったのだ。
彼はそっとカップを置いた。
窓の外で、風が枝を揺らす音がする。檻のように閉ざされていた自分の世界に、ようやく“隙間”ができた音。
仮面も、王冠も、いまはどこにもなかった。
ただ、風の先に“誰かの歩幅”が揃っている気がした。
ルイは立ち上がり、店の入り口に向かった。
誰が来るのかもわからない扉の前で、一瞬だけ目を閉じて、そして――手を伸ばす。
「ようこそ、今日の店へ」
その声は、昨日という檻の内側から、
“未来の光”をすくうように、ゆっくりと漏れていった。
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