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第16話

 オレが気絶から目を覚ました頃には、社の中にいてもわかるくらい夜も更けていた。  痛む体を起こせばそこは見覚えのある居間で、傍には遊羅くんと愛司さんがいたが朧とダンくんの姿は見えない。   「お前、あの妖を知っているのか?」    遊羅くんが傍に置いてある水を飲むように指を差すので、ありがたくそれで喉を潤すことにした。  オレが普通に水を飲んでいるのを見て話しても大丈夫と踏んだのか愛司さんに知り合いなのかと聞かれたけど記憶にないと首を振ったが納得いかないって表情だ。   「多分、オレが妖が視えるようになった原因が彼だと思うんですけど。オレ、その時海で溺れたこと以外なにも覚えてないんです」 「一度に大量の瘴気に中てられたせいで記憶がすっぽ抜けてるんだろうよ。覚えてたらオレに術を解いてくれなんて言わねえわ」 「遊羅が言うなら一先ず信じよう。ただ向こうは違うようだがな」    身に覚えもないのにと言いたげだったので説明をしたら、その話は聞いたことがあると遊羅くんが助け舟を出してくれる。  愛司さんはオレの言い分に一先ず納得しつつ、相手は覚えているから追ってきたんだろうと低い声で零した。   「あいつなんじゃねえのぉ? この前のとか」 「察しがいいな遊羅」    愛司さんの言葉になにやら遊羅くんの中で合点がいくことがあったようだが、オレには理解できずに疑問符を浮かべていたら、少し前に愛司さんが通すと言っていた【よくないモノ】の正体があの妖の力によるものだと呆れながら教えてくれた。  そしてあの時が始まりで、それはオレを探していたからだろうということも。   「あいつは【(しん)】という深海に済む種族でな。陸に水っ気がある方が力が増すんだよ」 「だから川を遡って、こんなに雨を降らせているのか」 「そういうことだ。厄介なのはあいつがそこそこの力を持つ海の生き物ってところだな」    話を聞いている内に思い出したけど、そういえば確かあの時愛司さんは「どこからともなく流れてくる黒雲のせいで」って言ってた。  あの時も、天候が関係していた。今回もそうだと腑に落ちていると愛司さんはそんな力を持つ彼を「厄介だ」と評する。  それに何故かと問えば、ある程度の力を持つが故に自らの移動範囲で在れば際限なく雨を降らせ続けることができるから、らしい。  深海に生きる妖だからって力がなければそうもいかないんだということはオレでも理解できる。   「随分詳しいなぁ、お前」 「私の管轄下の妖だからな」 「お前の部下の不始末ならお前がしろ! なんでここへ流したんだよ!」 「遊羅、お前も私の部下だからだよ」    オレ以上に蜃のことを知っている様子の愛司さんを遊羅くんが疑っていたが、彼はあっけらかんと自分の部下だからと言って遊羅くんを怒らせた。  以前、朧が遊羅くんは愛司さんの徒党とは違うと言っていたが恐らくあの蜃は同じ派閥になるんだろう。管轄下って認めてるし。   「それにあいつが厄介なのは、一族から外れているというのもある」 「どういうことです?」    能力も勿論のこと、と零して愛司さんが憤慨する遊羅くんを無視して話を進める。  彼の話を聞くに、妖には種族で徒党を組むものが存在していて、わかりやすい例えだと天狗とかがそうらしい。  蜃という妖も本来ならそうらしいのだが、オレの前に現れた彼はそこに属さない所謂爪弾き者みたいだ。  一族に属さない者というのは、一人でいる楽さとなににも囚われぬという自由を知っていると愛司さんは零す。  他者の目が気にならないってことだもんな、確かにそれは厄介かもしれない。オレも人のこと言えないけど。   「あの個体は卑屈で偏屈なやつでな。執心しやすいから一方的に、しかも自分の目の届かぬところで術を解かれたのが気に入らないんだろうよ」    妖にだって個性というものはあるんだろうが、種族性みたいなのはあるのだろう。  深海の種族がワザワザ陸に上がってまでと言いたげな愛司さんの口振りや、隣で聞いている遊羅くんの不機嫌な表情から彼がそれから遠く外れているのだというのが伝わってくる。  昔のオレは随分と厄介な相手に目を付けられていたらしい。否、現在進行形か。   「【あれ】が術を解いたのが遊羅であること、それがお前がオボロくんに惚れたことがきっかけと知れば怒りの矛先がこの社の者へ向くのは想像に容易いな」 「そ、うですよね……」    状況を理解すればするほど、辿り着くのはそこだった。  またも自分のせいで朧やダンくんに被害が及ぶ、今度は確実に遊羅くんにも。  祓い屋の件以上の迷惑をかけることになって、それはつまり約束を破ることになる。流石に今回はオレの力ではどうにもできない。   「ごめ、ごめんなさい遊羅くん。朧も、ダンくんにも危ない目に遭わせてしまう。いや、もう遭わせてしまった。それにこれ以上は遊羅くんにだって迷惑がかかる」    謝って済む問題ではないのかもしれない。でも謝ることしか出来なくて、床に手を付いて頭を下げると愛司さんのため息が耳に届く。   「本当に人の子というのは浅慮だな。平伏して事態が変わるとでも?」    すべてが手遅れなのだ、と吐き捨てる愛司さんになにも返す言葉がない。  それでも頭を上げることも出来ず、土下座したままでいるとこの居間に続く襖が開く音が聞こえた。  同時に足音が二つあったのがわかったから、そこにいるのは朧とダンくんだろう。   「しゆ、遊羅が報復の可能性を考えてなかったわけないだろ」    朧はオレの腕を掴んで顔を上げさせると、遊羅のことだって少しは知っているだろうと呆れた表情でオレを見下ろしため息を吐く。  疑うわけじゃないが確認するのに遊羅くんとダンくんの顔を見れば、頷かれなかったけど「まだわかってなかったのかよ」と言いたげに肩を竦められた。   「だからもしもの為に遊羅との約束はああいうものだった」    黙ったままのオレに、朧は言葉を続ける。  それを聞いてオレは記憶を辿り、約束を交わした時の遊羅くんの言葉を思い出した。  朧を傷付けたり、朧を諦めることが遊羅くんを失望させることになる。そして遊羅くんを失望させたら、これまでの呪いより強力な呪いをオレにかけると。  だが思い出したところで、オレは朧を傷付けることになるのだから約束を違えるのではと首を傾けたら朧は両手でオレの頬を乱暴に掴んだ。   「今のオレは、しゆが遊羅との約束だからって理由でオレを諦めることが一番傷付くんだよ!」    呆れと、それ故の苛立ちに朧は声を上げたがオレにはまだ彼が言っている言葉の意味がわからない。  だってオレが朧を諦めることが朧にとっての【一番傷付くこと】になるとは思えないからだ。そりゃあ確かに、以前よりは前向きに捉えてくれてはいたようだけど。  ならば二重に傷付けるってことか? なんて思考を巡らせているとダンくんが「だはは!」と大きな声で笑った。   「遊羅、朧としゆの勝ち」    珍しいこともあるものだと目を丸くしているとダンくんはオレと朧を顎で指し、遊羅くんを見て笑みを深める。  絶妙にダンくんから蚊帳の外を喰らってる愛司さんはそれを見て面白くなさそうに表情を歪めていたが、ダンくんも遊羅くんも無視していた。   「しゆ」 「えっ、はい」    今この瞬間なら愛司さんの報復が一番恐ろしいかもしれないと余計なことに気が向いたのを気付かれたように遊羅くんに名を呼ばれ、オレは慌てて顔と体を彼の方へと向ける。  遊羅くんは青い顔に冷や汗をだらだら垂らしているオレの情けない顔を見ては、額を煙管でコツコツッと叩いた。   「オレは白檀と朧夜が傷付くことが一番我慢ならん。だから今回のことは特別に約束の外としてやる。ただしこれはお前がオレに貸してるってことを重々理解しろよ」    朧に免じて、と零す遊羅くんの言葉にオレはまた朧に助けてもらったのだと理解する。  面倒や迷惑をかけてばかりで、そこまでしてもらうような立場じゃないのに。  本当にオレはなにも出来ない。今だって、頷くばかりで誰の顔も見れずに俯くだけで。   「白檀、お前はいいのか」 「オレは大事な弟の気持ちを尊重するよ。遊羅と同じでな」 「あいつは必ず報復に来る。そういうやつだからな。お前も例外じゃない白檀。祓い屋だと気付かれていただろ」    すっかり意気消沈してしまったオレに愛司さんは舌を打つと、ダンくんに意見を求めた。  だが大事に思ってる朧がそう言うなら叶えるだけだと当然のように言い切ったダンくんに、自分も報復の対象だろうと苛立ちにため息を吐き捨てる。  それにオレが顔を上げると、ダンくんはその勢いに驚いてはいたがだからなんだとひらりと片手を振った。   「知られてようがいまいが来るようなやつなんだろ。祓い屋だった過去は消えねえんだからどっちだって変わんねえよ」 「白檀」 「そんなことよりオレはあいつがしゆに『しゆの寂しさを知ってるのは自分だけだ』って言ってた方が気にかかるんだよな」 「白檀!」    その仕草はオレに気にするな、と伝えようとしていたんだろうがそれも含め、自分の危機に頓着を見せないダンくんに愛司さんが珍しく声を荒げた。  上から威圧的に睨み付けられるとダンくんは痛みに耐えるように右目を細める。   「うるっせえな! 奴隷が欲しいなら他所でやれって言ってんだろうが!」    愛司さんの怒鳴り声がダンくんの忌諱に触れたようで、痛みもあるのか右目からぼたぼたと大粒の涙を溢れさせながらさっきの彼よりもずっと荒れた声で怒号を放つ。  なにがどうなっているのか判断が付かぬ内に修羅場と化そうとしているのを収めたのは、遊羅くんだった。  遊羅くんは片腕をダンくんの視界を覆うように顔へと回し、自分の方へと抱き寄せる。   「落ち着けってぇ、白檀。そういう話してんじゃないだろぉ。お前もこいつを好いてんだってんなら煽んなぁ、嫌われるだけだぜ」    フゥーッ、フゥーッ! と威嚇行動する猫のように呼吸を荒げるダンくんにも、怒りに目をかっ開いている愛司さんにも普段と変わらぬ調子で話しかける声に二人とも落ち着きを取り戻す。  この数分の喧嘩はオレには関係ないところで行われたはずなのに、恐怖に背筋に冷や汗が伝い体温が一気に下がっていくのを感じた。   「しゆ」    オレが気を失っている場面じゃないと片隅では理解していても急激に頭の天辺から血の気の引いていく感覚がしたのだが、朧のオレを呼ぶ声が引き留めてくれた。  手探りに朧の手首を掴めば、彼の腕が揺れしっかりとオレの手を握ってくれそこから伝わる温もりに安堵が広がっていく。   「視えるだけの人の子風情が癪に障る。私はこの件には関わるまいよ、勝手にしろ」 「オレたちの勝手にお前が首突っ込んできてるんだろうが! 二度と顔見せんな!」 「びゃくだんんん」    一度は落ち着いたと思ったのだが愛司さんがそう吐き捨てるのを聞いてダンくんの怒りがまた息を吹き返してしまった。  猫を宥めるように遊羅くんが強めに抱き締めるのを愛司さんは至極不愉快そうに見やり、その視線を感じ取った遊羅くんと無言の睨み合いとなる。   「記憶が一部抜けているのは瘴気による衝撃もあるだろうが、白檀の言葉を聞くに蜃が意図的に抜いた可能性も拭えぬかもしれんな」    ダンくんの手前、先に睨み合いを止めたのは遊羅くんで戦意が僅かに喪失したのか愛司さんは居間を出て行く寸でにここにいる全員に聞こえる声量でそう告げて姿を消した。  嵐が去ったとほっと肩を撫で下ろすと、遊羅くんがオレの方へと振り返る。   「意図的にはあり得るかもなぁ」    オレの顔を見てはいたがなにかに納得したように頷いているからオレに向けたわけじゃなくて独り言のようだ。  いや、ダンくんに言ってる可能性もあるけどぐったりしているのを見るにもしかしたら気を失っているのかもしれない。   「流石に一人で帰すわけにゃあいかんから、今晩は泊まってけぇ」    なんにせよオレに向けてではないようだから黙って遊羅くんを見ていたら、少ししてやっとちゃんと目が合ってそう言われたのでオレは従うことにした。    *    その後落ち着いたダンくんに湯浴みをするように言われ、その上食事まで出してもらい申し訳なくて謝ったら「みっともないところ見せたから今夜ばかりは相子」って返されたけど全然相子ではない。  でも違うって言ったら彼の優しさを踏み躙ることになるので謝罪の代わりにありがとうと返したらなにも言わぬまま客間からいなくなった。  持ってきた手土産は蜃という妖とのごたごたでダメにしてしまったから、本当に色々してもらう必要ないのに。  オレもこの社のルールを全部わかっているわけじゃないから、まだ知らぬことがあるだけなのかもしれないけど。  なんにせよ今日はしっかり客間まで用意してもらって、申し訳なさと不甲斐なさとが天井知らずに募っていく。  はああぁぁと長く深いため息を吐いていたらスパンッ! と勢いよく襖が開きそこに朧がいた。   「お、朧っ! どうしたの?」    もう一人で寝るだけだと思っていたから急に朧がやってきて驚く。  ダンくんになにか持ってくように言われたのかと思って布団の上に座ったまま首を傾げたら、朧は無言で部屋に入ってきていそいそとその隣にもう一組布団を敷き始めた。   「え? あ、危ない、から?」 「社にいたら遊羅とダンくんがいるんだから危ないわけないだろ」 「そ、そうだね。ならえっと」 「話がしたくて来た。イヤ? 迷惑?」 「嫌なわけないし、迷惑なんて絶対にない」    オレの身を案じてかと思ったが、他の二人がいて有り得ないだろと返されてしまう。それは前に泊まった時も同じこと言われたし本当にその通りだから納得せざるを得ない。  そうなると他に理由が浮かばずに戸惑っているオレと反対に冷静な声で「話がしたい」と言われてしまい、拒絶なんて出来るわけもなく首を振れば朧は小さく「よかった」と呟いた。  水だけ持ってくるからと言って朧は一度部屋を出たが、すぐに戻ってきて水差しと湯飲みを二つ、傍の小さな座卓に置き再び先ほど敷いた布団の上へと戻る。   「朧、さっきはその……助けてくれてありがとう。蜃って妖のことも、遊羅くんとのことも……」 「いいよ、別に。嘘も言ってないし」 「でも……。オレ、本当は今日謝りに来たのに」 「なにを?」 「この前の焼き芋の時の……」    話しに来たと朧は言ったけれど、それよりも先にお礼と謝罪をするべきだろうと頭を軽く下げたら朧の反応は「ああ」と呟くだけの平然としたものだった。  朧のことだから本当に気にしていないんだろうが、それは最早珍しくもないということでオレからすればそれはそれで申し訳なさが募る。   「前も同じように落ち込んでたよな」 「確かに。そう考えると、本当に情けないな」    傍にいるのに後ろめたさと情けなさから朧の顔を見ることができない。話していてもどうにも落ち着かず首に触れているとやや間を開けてから朧が「ふふ」と可笑しそうに小さく笑った声が聞こえた。  揶揄ったり嘲笑したりするのとは程遠い声に驚いて顔を上げて目が合うと朧はその瞳を細める。   「あの時も今も、オレの為に自分が悪いと言うところがしゆの美徳なんだろうな」 「そんないいものじゃないと思うけど……」 「そうだな、そうやって簡単に卑下して蔑ろにするところオレは好きじゃない」    ハッキリと言い切った朧の言葉に、触れていないのに頬を叩かれたような気分に陥る。  言葉を失って黙りこくっているオレに構わず朧は話を続けた。   「それに、しゆが前に祓い屋のあいつに言った『人形じゃない』ってこういうことじゃないのか」    真っ直ぐに向けられるのは視線だけじゃない。濁りなくオレの胸に届く言葉に喉の奥がビリビリと痛んだ。  上手く声が出ず、はくはくと無意味に口を動かしたが先に溢れたのは涙だった。   「確かにそうだ、そうだな。オレが勝手に謝って頭を下げるのは勝手だ。ごめん」    朧はいつだって「わからない」って言いながらもオレの気持ちを否定したりはしなかった。  なのにオレは迷惑なんじゃないかって、嫌われてもおかしくないって。自分が安心するために朧の気持ちを勝手に決めて頭を下げた。  そこに恋情がなくたって、朧には朧なりのオレを助けた理由があって。その理由をオレが勝手に決めつけるのは、オレが最も嫌うことじゃないか。  でも朧が怒っているのは気持ちを決めたことじゃない、勝手に頭を下げたことじゃない。そもそも怒っているわけではなく、信じたオレの気持ちをオレ自身が勝手に卑下し蔑ろにするのが嫌なんだ。  ぼろぼろと泣きじゃくりながら「ごめん」と謝ると朧は笑顔を浮かべ肩を揺らす。   「諦めずにいたからオレが一番傷付くことはなかったな」 「ははっ、諦め悪くてごめんな。ありがとう、好きだよ」    冗談めかした口振りで遠回しに失望なんてしていないと告げてくれる朧に、謝罪だけでなくいつまでもオレの中に残り、膨れ続ける好意を告白すれば朧は「もういいよ」と言ってまた笑った。  そのまま布団の上に体を倒すともぞもぞと潜っていくのでオレも布団の中へと足を突っ込む。  横になってもまだ落ち着いて眠れそうにないから。   「灯り、行燈にしていい?」 「いいよ」    暗くしていいかと聞かれ、頷くと朧は天井に向かってふっと息を吹きかけた。  すると部屋を照らしていたランプが消え、枕の傍に置いてある行燈に小さな明かりが灯る。  恐らく妖術、ってやつなんだろうな。   「涙、止まった?」 「今止める」 「止めなくていいけど……顔、遠くて見えない。しゆも横になって」 「ん? うん」    部屋が暗くなったのも相俟って気にも留めずにいたらまだ泣いてやしないかと聞かれたので慌てて拭ったが、それよりも横たわるように言われオレはそれに従う。  手探りに頭を枕に乗せ、朧の方へ体ごと向けると顔だけをこちらに向けている朧と薄闇の中目が合った。   「しゆは薄々気付いてたと思うからもう隠さないけど、オレ……オレ昔は本当にただの動物だったんだ」    部屋が暗いのでオレからは朧の表情はよく見えないのだが、ぽつりぽつりと話し始めた声を聞いて何故目が合っているのはハッキリとわかったのかを理解する。  彼の言った通り、動物だからだ。恐らく夜目が利く類の。  だがオレの疑念が解決したことなんて今はどうだっていい。  先を聞くべくうん、と頷くと朧も小さくうんと呟いて続きを話し始めた。    ずっとずっと昔は(ムジナ)というただの動物で、平凡に群れで暮らしていた内の一匹だったと。  だが厳しい自然の中、特に冬の度に群れの数は減り、更に人の手による迫害を受ける内に気付けば自分一匹しか生き残っていなかった。  それでも生きていくしかなく、一匹で厳しい冬を越え人から逃げ回っている時ふと、自分が数え切れぬほどの冬を越えていることに気付いた。  だがその時にはもう、ただの動物、群れの中の平凡な一匹の狢ではなくなっていて、長い寿命と不可思議な妖術を手に入れるのと引き換えに狢としては生きていけぬと悟った。  だが妖となったことで新たに手柄を得る為の祓い屋から命を狙われることとなったと。  狢の頃にいくつもの罠に引っ掛かって体に残った傷、一匹で生きていく絶望に加え祓い屋に追われ心に折った傷。  心身共に深い傷を負い、すべてのことから命辛々逃げた先に迷い込んだのがこの社だった。  逃げることにも疲れていたのにそこには祓い屋で妖嫌いだったダンくんがいて、人間嫌いだった自分とは散々揉めたがご存じの通り大事に想われ家族のように想う関係になっていること。  捻くれた自分を気に入ってくれた遊羅くんが社で過ごすことを許してくれて今ここにいると。  安寧と退屈は同じ意味を持つが、それでも命が消える感覚を幾度も味わうよりずっとずっとよくて。  雪の積もる冬が訪れてももう、かつてのようには怖くないこと。    ただ過去に起こったことを説明する朧の声は、淡々としている。  それは朧が感情を動かさずとも生きていける生き物だからというのもあるが、それだけここにいる安心と幸福が強いんだろうというのがわかる。  でも何故、今そんな話をしてくれるんだろうと疑問に感じたのが伝わってしまったのか朧はゆっくりと瞳を細めた。  暗闇に目が慣れたおかげで、穏やかな微笑がよく見える。   「オレはずっと疲れてて、感情だって動かさない方が楽だって思ってた。でもしゆが社へ来るようになって、オレを好きだとか言って。理解できないと、呆れたり……腹が立ったりする今を、悪いと思わない」    感情が動かぬように願うのには、相応の辛い時間が必要だ。  オレがそうなるよりも、想像するよりも長い時間朧はそれを願っていたのだからそれが楽で常だと感じてもおかしくはない。  でもそんな感情の揺れを起こす変化を、オレと出逢ったことを。悪くはないと言ってくれたことが嬉しくて、また涙が溢れてくる。  自分の顔を見ながら泣くオレを見て朧は「また泣いてる」とケラケラと笑った。    ――嗚呼、嗚呼。さっきまでの鬱屈とした気持ちも、恐怖もそれだけですべて晴れていく。すべて、すべて。朧が好きだと思う気持ちに塗り替わっていく。   「でもそれ以上にオレの傍でしゆの感情が大きく動いてるのを見ると気分がいいから、遊羅や白檀の元に長くいて性格が悪くなったのかも」    オレと出逢う以前より社に訪れる以前にはなかった感情だからと弾んだ口調で呟く朧に、涙を乱暴に拭いつつ、少し前に灯織くんとそんな話をして自分たちは嫌なやつ同士だから仲良くできるだろうと話したからオレと朧もそうなのかもと言ったらすごく嫌そうな顔を上ハッキリと「それは嫌だな」と言い切られてしまう。  そういう話ではなかったかと、ずれてしまった申し訳なさを感じていると朧は呆れたように肩を竦め顔を天井に向けて瞼を伏せた。   「もう寝る。しゆも寝な」 「うん。おやすみ朧」 「ん、おやすみ」    すっぱりと話を終えられ、おやすみと告げて静かになった朧の横顔をじ、と眺める。  でも元々動物だし、そうでなくたって妖でそういうものの察知能力が高いのだからいつまでも見つめていたら睡眠の邪魔になるかとオレは振り向かぬように背を向けるように寝返りを打ち目を瞑った。  ついさっきまでは不安と、緊張と、罪悪感とに随分と遠くにあったはずの睡魔が緩やかに近付いてくる気配に朧が安らぎをくれたのだと理解する。  その為に、こうして傍にいて、話をしてくれたのだと。  喜びを感じると共に、それがオレを好きだったからだと望んでしまいたくなる気持ちにゆっくりゆっくりと蓋をする。まだ早いから。  それにオレにはまだその資格もない。    朧の傍にいれば、彼を好きでいられる自分をもっと誇らしく思えれば。  いつか、彼の言葉に自惚れる未来が訪れたらいいのになんて考えている内にオレは深い深い眠りに就いていた。

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