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第17話
蜃、というオレに呪いをかけた妖が来た翌日の朝。
ダンくんが出してくれたおはぎを朝飯代わりに食べていると、突如遊羅くんが横たえていた体を起こした。
「来なすったかぁ。気が短ぇやつだなぁ」
遊羅くんは灰皿に煙管をぶつけて灰を落とすと、そのまま社を出て行った。
オレに一瞥をくれることもなかったのでどうしたらいいのかとダンくんに視線を向けたら、彼は人差し指を立てそれを口元に当てる。
喋るなという指示に従って黙っていると、次第に社の中に外の声が聞こえるようになった。
「お前だなぁ! ボクと充の繋がりを切ったのはぁ! 社の中に隠してんのはわかってんだよォ! 出せェ! 返せェ! 充うぅぅうぅ!」
扉を何枚か隔てているというのに届く蜃の声は深海のように重たく冷たい。
朧のお陰で凪いでいたはずの心が、高くなっていく波によって不安に襲われる。
「お、オレ……行った方が……」
遊羅くんを責め立てる声に堪え切れず、当事者であるオレが出て行った方がいいんじゃないかと小声でダンくんに問えば、彼は一瞬考えてからオレを真っ直ぐに見た。
「しゆが、どうしたいかだ。まだあいつと逢いたくないって思っているならそうしろ。それを遊羅に責めさせはしねえよ」
「でも、オレが出て行かない限り……何度だって来るよね、ここに」
「そうだな。ここにも、お前のところにも来るだろうな。執念深いやつだってアイキが言ってたろ」
矢面に立ってる遊羅くんのことは気にする必要はないと言うダンくんの言葉は、きっと二人の総意なんだろう。
だからってくり返し訪れるのがわかっているからと社から出られないのも困るし、そうなると三人に迷惑をかけ続けることになるのも嫌だ。
なら今、逢いたくないと言っていたって仕方がない。オレがあいつと逢うのは避けられないだろう。
被害を最小限に抑えるなら、早い方がいい。
「しゆ」
それでも募り続ける嫌な予感に決断を下せずにいると、ダンくんがオレの名を呼んでは朧の方を顎で指す。
視線を向けると朧は円卓に頬杖をついてオレを見ていただけだったが、目が合うと呆れたように笑って肩を竦めた。
「しゆだけに行かせるわけないだろ」
自分がいるからと慰めるというよりは、昨夜も言われた「遊羅くんとダンくんがいてまだ怖いのか」と問うのと同じだと思った。
朧にとってそれはとても心強く、そしてオレにとってもそうなのだと伝えてくれているんだろう。
その上、オレには。朧がいてくれる。
不安の波は、未だ引かない。高く、高く。安堵を飲み込む津波のよう。
けれど意を決して頷けば、ダンくんは「そうか」とだけ零した。
先に遊羅がいるからと言われ、ダンくんと朧の二人に後ろに立ってもらった状態でオレは社の玄関を開ける。
「しゆう!」
思ったより近い距離に蜃がいて、一瞬身構えたがオレが出てきたのを見て遊羅くんが手に持っていた短剣の柄頭のような部分で彼の胸を突き飛ばして強制的に距離を取らせた。
そしてオレの手首を掴んで社の外へ引っ張り出されたけど、すぐに朧たちが出てきて扉を閉めたのを見て中に入らせたくないのだと察する。
「もう出てきちゃったのぉ?」
「だ、だって」
「オレは貸しが増えるだけだからよかったのに」
早くない? と呆れたように遊羅くんは言ったが、慰めてくれているのだとわかる。
それがむず痒くて「ごめん」と告げたら遊羅くんは瞳を吊り上げ「仕様がねえな」と悪戯にオレの耳に息を吹きかけた。
ぞわり、と肌が粟立つ感覚に身震いすると彼は愉快そうに歪な笑みを浮かべる。
「充! 充! 逢いに来た! 逢えた! 逢えたなぁ! ははっ!」
変わらぬ遊羅くんの態度に安堵したのも束の間、遠くへ飛ばされた蜃がむくりと起き上がるとオレを見て表情を綻ばせた。
幼い子供のような無邪気な笑い声に、呼吸を奪われたようにヒュッ、と喉が鳴った。
何故だろう、あの声を知っている。と思った。
「ご、めんなさい。逢いに来てもらっても、オレは。貴方のことを覚えていない」
はっ、と息を吐いて自分の胸元を握り締めながら昨日も伝えた通り覚えていないと首を振れば蜃は笑みを深めていた瞳をゆっくりと細く開いた。
ずっと声を上げていた人が突然黙ってこちらを見つめるだけなのに感じる威圧感に、口が勝手に開く。
「オレが、望んで遊羅くんに術を解いてもらったんだ。覚えてないとはいえ一方的で悪いと、申し訳ないって思う。でもオレは今朧を好いているから、だからっ」
喋る度に喉の奥が熱くなり、かひゅ、かひゅ、と声が掠れるが止まらない。
覚えていない以上、どうしたらいいんだと視線を向けて訴えたら蜃は表情を変えていなかった。
長い前髪の向こうで、瞳を細めたままオレを見ていて。吐き出す言葉がなくなったのを見てゆるりとその頭を傾けた。
「だから、ボクは。ボクだけが充の寂しさを知っているんだよ。知っているからボクは、お前の望みを叶えたのに」
静かな声は、忘れてしまったオレを責めるようなものとは程遠く。
ただ、蜃が「だから逢いに来たのだ」というのを伝えようとしているだけのもので。ようやっとオレは、話が通じていないのだと理解した。
「それがなんだってんだよ」
妙な間があって、それを破ったのは遊羅くんだった。
逢いに来たからなんだと吐き捨てた遊羅くんへ蜃の視線が向く。
「ボクはずっと言ってる。充の寂しさを、その深さを知っているのはボクだけだから充を返せって」
話が通じていないのかと怪訝そうに呟く彼に、遊羅くんの表情が苛立ちに歪んだ。その顔には「通じてないのはどっちだよ」と浮かんでいた。
「ボクは充の望む姿で傍にい続けることが出来る。そこにいる狢程度では到底叶えられまい」
蜃が霧を纏う度、その姿を変えた。男から女へとなり、女から子供へなり、そしてまた男の姿へと戻る。
己の変化能力を狢と見抜いた朧や、遊羅くんダンくんに見せつけては誇らしげににんまりと歪めた。
オレが朧を好いているとは言ったが、朧がオレに向けるのは同じ気持ちではない。だとしたら喧嘩を売られるのは筋違いだろう。
矛先が向かってしまい、振り向いたら朧は矢張り意味がわからないといった表情を浮かべていて、盛大なため息を吐き捨てた。
「だとして、その本人がオレを好きだって言ってんだろ」
オレが望んでるのは自分だ、とハッキリと言い切った朧に震えが止まる。楽に呼吸ができる。
だが朧の名前を呼ぼうとした瞬間、蜃の纏っていた雰囲気が変わった。
引きずり込むような深い闇の色をした霧を、足元から拡げている。
「はぁ!? なに言ってんだお前ェ! 充はなァ! 寂しさを埋めてくれりゃあ誰でもよかったんだよ! ボクとのことを忘れたからお前に乗り換えただけェ! いずれお前も忘れられるんだよ!」
かはははっ! と高笑いをすると蜃は矢継ぎ早にそう叫んだ。
その言葉に全身に悪寒が駆け巡り、膝から崩れた体をダンくんが腕を掴んで支えてくれようとしたが立ち上がれない。
「殻に籠ってるような生き物は知らねえんだろうな。人の時間ってのは流れんだよ」
哀れだねえと嘲る朧の声に蜃の怒りは頂点に達したようで、目を見開くとオレとの距離を詰めた。
一瞬の出来事に、遊羅くんとダンくんが身構えたのがわかったけどすることが決まっている蜃の動きの方が速い。
「お前ら如きがァ! こいつの深海みてぇな寂しさを知っても同じこと言えんのか!?」
蜃は両腕でオレを乱暴に掻き抱くと、辺りを巻き込むようにして霧で包み込む。
その中で目の前に浮かんでは揺らめいて消えるそれは、まるで蜃気楼のようだ。
忘れていた、否忘れたくて捨てた気持ちが、記憶が一気に自分の元へ戻ってきて目の前が暗くなっては、涙が溢れて止まらない。
「あがっ、が、っ……あ、あ゛ぁがッ!」
海に溺れたような声を上げて必死にもがいても、逃げられない。
でも覚えている。オレはこの妖を知っている。
あの時も同じように、抱き締められて彼と共に海の深く深くへ沈んでいったんだ。
こいつは、蜃は何一つ嘘は言っていない。
オレは、寂しさ故にそれを埋めるのは誰でもいいって思ってた。
その為に朧との出逢いは都合がよくて、今もその気持ちを埋めるために社に通っている。
もしここで寂しさを埋められなければ今までと同じように、すべてを捨てればいいだけだ。
――だって、誰かと紡いだ縁なんて簡単に切ることが出来るんだから。
「あ゛、あぁああ゛ぁう゛ぅうう゛ぅ゛ぅ!」
「しゆ! しゆ!」
思い出してしまったら、違うだなんて否定できない。
なにより、こんな暗い感情が自分の中にあったことに嫌悪感が募る。
声を荒げて、涙を流して、頭を振り乱して追い払おうとしても、これはオレのモノだ。消えたりしない。
「ッチ! 戯 けが! いらんもんまでくれてやってんじゃねえよ!」
すぐ傍で遊羅くんの声がしたかと思うと、短剣を蜃の喉元へと突き立てていた。
声帯を潰されて蜃は「がっ、ガッ、」と壊れたラジオのような呻き声を上げながらふらふらと後退り、オレたちから距離を取る。
離れたところで刺さった短剣を引き抜くと強く喉を掴み、霧を纏わせた。見る見るうちに傷が塞がっていき、最後にベッと血を吐くとそこは治っていてそれを見た遊羅くんが「ハハッ!」と声を上げて笑う。
「充! 思い出しただろう!? ボクならお前が他者を捨てるたびに姿を変えて出逢って、すべてを許して何度だって傍にいて半永久的にその寂しさを埋めてやることが出来るんだよ!」
悲観することはないと弾んだ声で再びオレに話しかけてくる蜃に、意識と顔が向く。
そうだと頷こうとしたのを、朧に頭を抱えられて阻まれた。
「そしてそれを望んだのはお前だ」
だが朧の行動にも意を介することなく彼は言葉を続け、喜ぶ子供のように「はははっ!」と笑った。
「できたカサブタ剥かれてんのと一緒だな、それじゃあ」
最早オレが彼に返す言葉などない。聞きたくなくても勝手に届く言葉を受け入れているとダンくんが低い声でぽつりと呟く。
慰めるような優しい声に手を伸ばしたいのに、体が思うように動かない。
「充、ボクが愛してやる」
距離があるはずなのに蜃の声は耳元に囁かれたように近くから聞こえるのは、オレから離れぬ霧がそうさせるのだろう。
払うように頭を振ったら朧の腕の力が僅かに緩んだ。
「ッ! 白檀! 朧夜!」
辺りの状況を確認しようと重い瞼を持ち上げた瞬間、遊羅くんの叫び声が聞こえる。
それと同時に雷が落ちたような音と、窓ガラスが割れて崩れるような音がした。
一瞬白んだ視界を瞬きで散らすと、オレの前に遊羅くんと武器を持ったダンくんが身を構えているのが映る。
「愛してやるとはなんと傲慢な。人より優れた存在だと思い込んでいる妖のなんと愚かで無様なことか」
視界が悪いのは、蜃の霧のせいなのか。先程の音や風による砂埃のせいなのかわからないが霞んだ向こうから、知らぬ声が聞こえてくる。
「ったく、次から次に面倒くさいのがぁ……」
オレには姿は見えぬが遊羅くんには誰がそこにいるのかわかるのか彼はそう面倒そうに吐き捨てた。
砂利が擦れるような鈍い音がしたかと思うと、霞が晴れていく。
視界に飛び込んできたのは、知らぬ男に踏みつけられて気絶している蜃の姿だった。
「おい! 手ぇ出さねえっつったろ!」
その人を知っているのかと遊羅くんが視線を向ける方へと顔を向けたら、男の後ろに灯織くんもいて彼は気付かれたのに気付くと、気まずそうに顔を逸らす。
「おれはってだけだ」
そして居心地が悪そうに、けれど申し訳なさそうにようやっとこっちにも聞こえる程度の声で呟いた。
だが当然それはオレたちより距離が近い背が高い茶髪の男にも届き二人のやりとりを聞くなり灯織くんの腹を蹴飛ばし、肩を蹴り上げ、最後には目一杯踏み付ける。
「やはり妖がいると知っていて意図的に見逃していたのか。半妖如きに祓い屋など到底無理な話だったな」
男は冷たい眼差しで痛みに表情を歪める灯織くんを見下ろすと、こちらに目を向けぬままなにかを放り投げオレ以外の三人を拘束し同じ術で、灯織くんも捕える。
蜃が地面に伏せたまま動かないのも同じように捕まっているからで、オレがそうはなっていないのはオレだけは人の子だからだ。
「さて」
彼はこちらを見るなり独り言のように呟くと一直線に近付いて来て、腰を抜かしているオレを抱え上げた。
「祓い屋如きがしゃらくせえなぁ」
遊羅くんは面倒そうに頭をグラグラと揺らすといとも容易く拘束を解いてしまう。
「成程、半妖では手に負えぬわけだ」
それを見ると男は喉を鳴らし、灯織くんと蜃の拘束を乱暴に掴んでなにやら仕掛けた術を発動させながら軽い身のこなしで社を離れていく。
なにが起こっているのか理解が追い付かずオレの意識はキャパオーバーによりここで途切れた。
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