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第41話 明隆視点 夢から醒めても
陽野麻幌さん。
この部活に入って、一番にその人の名前を覚えた。
一つ年上で、いつも誰かが隣にいる。
いつも笑っていて、賑やかで、華やかな人。
サッカーをやっているっていう二年生とは特に仲が良くて、いつも一緒にいる。
口下手で、たいして面白いことが言えない僕に、麻幌先輩と話すタイミングを掴み取ることはできそうにない。
部活で映画鑑賞をする時、麻幌先輩はいつも、視聴覚室の中央から横に二つ目の席。そこがなんとなく麻幌先輩の席になってる。僕はその麻幌先輩の斜め後ろの横顔がよく見えるように、廊下側の一番後ろの席を自分の席にしていた。
「あっつ……」
視聴覚室はあまり使われることのない特別教室棟にあるのと、ここは西向きなせいで、放課後のこの時間帯はきついくらいの西日が廊下に降り注いで、熱気がすごいんだ。
人なんてあんまりいないのに、熱気ばっかりが居座っていて、ただ歩いてるだけなのにしかめっ面になってくるくらい。
僕はホームルームが終わると一目散へここに向かう。
映画研究部の活動曜日は水曜日と木曜日のみ。
土曜日と日曜日は、特に活動はない。当たり前だ。何か練習をするわけじゃないのだし。運動部みたいに試合があるわけじゃない。だからこそ、部活動じゃないスポーツ選手の生徒がここの部活に所属している。サッカーで有名な先輩もそうなんだって後でわかった。
サッカーで、プロになるんじゃないかって、よく女子たちが騒いでいるせいで、詳しくなってしまった。
サッカーがとても上手くて、週末はあっちこっちって遠征に出かけてる。
全国大会に出場が決まったって言ってた。夏休みに入ったら、応援に行こうって女子たちが話してた。
そして――。
「エアコン……」
麻幌先輩の、多分、彼氏だ。
視聴覚室に一番乗りで入ると、すぐにエアコンをつける。みんながここに来るまでに教室内を涼しくしておくんだ。
麻幌先輩と一緒に映画を観られたのは、あの一度だけ。
多分、体験で来た新一年生一人では居づらいだろうって思ってくれたんだと思う。
優しい人だ。
綺麗な人だなぁって思う。
笑うとちょっと可愛い感じもする。
全然、女の子っぽいわけじゃないんだけど、クラスメイトの女子よりずっと綺麗で可愛いって思う。
サッカーは詳しくないんだそうだ。昨日、水曜日にオフサイドっていうのを教えてもらっていた。あんまり興味はなさそうだったけど。
好きな教科は英語と音楽。あと、数学も。
苦手な教科は、理科。ダントツ理科って言ってた。
好きな映画はたくさんあるけれど、好きじゃない映画は恋愛映画だけ。
玉子焼きは甘いのが好き。
苦手な食べ物とかあるのかな。
あ、あと、パンが好きなんだって。朝食は絶対にパン派って言ってた。
「ふぅ……」
少し涼しくなってきた。
「あれ?」
「!」
びっくりした。飛び上がっちゃった。
「エアコン、付けてくれたんだ。ありがとー」
いえ、全然。
「あっつ……今日はめちゃ暑い……午後プールだったのに、もう髪乾いたし。しかも、プール入ったせいでパサパサになっちゃったし」
プールだったんだ。お疲れ様です。
「ホームルーム、副担で早く終わったし……まだ、みんな来ないよね……俺、昨日、あんま寝てなくてさ。ちょっと、寝て……い」
疲れたのかな。寝てないのにプールの授業じゃつらかっただろうな。
「……」
その数秒後、麻幌先輩のところから、穏やかで優しい寝息が聞こえてきた。
もう寝ちゃったんだ。
本当に眠かったんだろうな。
あ。
カーテン、閉めてあげたほうがいいかな。
眩しい、よね。
そして、足音すら気を使いながら、窓際に行くと、カーテンレールの音にも細心の注意を払いつつ、そっと、そーっと、麻幌先輩の昼寝の邪魔をしないようにとカーテンで日差しを遮っていく。
きっと後、五分くらいしたらみんなが来てしまう。
僕は、自分の息をするのさえ、小さくしながら、その五分をじっと堪能していた。
誰も、教室に入って来ませんように。
どこかで、先週観た映画のように、空間が捻じ曲がって、どれだけ階段を上っても、ここには辿り着けない迷路になっていますように。
もちろん、そんなことが起こるのは映画の中だけ。
実際にはちゃんと五分くらいから、少しずつ部員たちが来てしまう。
あーあ、せめて、もうあと五分、みんなが遅く来てくれたらよかったのに。次々に集まり始めた部員たちの気配に麻幌先輩が起きてしまった。
「さっきはありがとね。スッキリした」
あ、いえ。別に、僕は何も。
「はい。お礼」
わ。わぁ。
飴をもらってしまった。
メロン、サイダー。
普通、メロンソーダって言わないかな。
けれど、メロンサイダーって。
いただきます。
「……」
鼻先に濃厚なメロンの香りが広がる。
「あれ? 今日って、休みなんですか?」
「あぁ、あいつは、今日はサッカーの特別強化練習って言ってたよー」
「そうなんですね」
それから、シュワシュワと、舌先で弾けるような刺激。
「夏休み、応援とか行くんですか? 先輩」
「んー、どうかなぁ……暑いから応援するの地獄だから来なくていいって言ってたし」
「確かにー、暑そうですよね」
「ねー、あはは」
シュワシュワ。
甘い。
「けど、まぁ、行けたら行こうかなぁ」
いいな。あの人、サッカーの、あの人が今日、いないなら、さりげなくあそこ座れないかな。無理か。
驚くだろうし。
突然、存在感全くない奴が隣に座ったら、ちょっと怖いだろう。
「ですです。絶対に喜びますよー」
「いやいや」
でも、いいな。隣に座って、映画……観てみたいな。
あの人の隣に。
「暑いの苦手だからさぁ」
座りたいな。
大昔の、こと、思い出した。
いつも、この人の隣に座りたい、話したい、笑った顔を横からじゃなく正面から見てみたいって思ってた。
「……ん」
その人を、三十万払って昨夜、抱いた。
嘘みたいって、多分、百回は心の中で呟いたと思う。
だからかな。
「…………」
本当に、昨夜のことは嘘だった、夢だった、みたいに、ホテルから麻幌先輩は消えていた。
「……はぁ」
でも、感触は残ってる。
あの人の、高校生の頃よりも少し掠れて疲れていそうだったけれど、あの時と同じ、声も、笑った顔も、細い指先も、今度は新しい記憶として頭の中に残ってる。
――昨日は、ありがとう。お金はいらないです。このホテル代にしてください。
三十万はそのままデスクに残ってた。
それから麻幌先輩からの手紙も。
嘘みたい。
でも、嘘でも、夢でもなかった。
ちゃんと、俺、麻幌先輩としたんだ。
夢、じゃなく。ちゃんと。
麻幌先輩と――。
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