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第72話 ありとあらゆる嫌悪感
久しぶりに感じた。
嫌悪感が足元から這い上がってきて、身体にまとわりつく気持ち悪さを。
あの時も、これを感じた。
大学で、こいつをぶん殴った時。
当時の俺は今以上に売れてて、もしかしたらナオくらいの売れっ子だったかもしれない。
本当にけっこう人気があって、そのおかげで収入はすごかったけど、毎日寝不足。そりゃそうだよね。大学が終わったら、デリバリーの仕事でホテルに直行。いくつかのホテルを転々と移動して、朝方まで接客。課題をやる時間なんてほとんどなかったから、提出もいっつもギリギリで。
あいつはけっこう課題の締め切りルーズだったんだよね。他の講師は締め切り厳守だったけど、あいつだけは、締め切りを一週間遅れてもちゃんと採点してもらってる子がたくさんいた。今、思えば、あれは、引き換え条件があったのかもしれない。やらせてくれたら、締め切り延ばしてあげてもいいよ、みたいなさ。締め切りすぎても評価高かった人、みんな、お気に入りって言われたりしたし。
今思えば、だけど。
そして、あの日、声をかけられた。
その日も、前日びっしり予約が入ってて、あんまり寝ずに大学に行った。眠くて、十分くらいでいいから寝たいなぁなんて思いながら、フィルム室の隅で大きなあくびをいくつもしてた。フィルム室はあんまり人来なくて、昼寝にはもってこいの場所だった。もうスマホで映画なんていくらでも見られるし、フィルムを持ち帰ったところで、自室で見れないし。フィルム室で視聴することはできるけど、二時間とか、そこでじっと映画を観るくらいなら、別のことしながら映画鑑賞した方が効率的でしょ。だから、視聴する人もいなくて。ただのコレクションルームと化してた。
そのフィルム室の、薄暗い中で。
――陽野。
あいつが声をかけてきた。舐めるような視線も、いやらしく歪んだ口元も、全部、吐き気の混ざった嫌悪感と一緒に覚えてる。
あの日も眠くて。
――課題の締め切り今日だぞ?
なんでこんなところに講師がいるんだろうって思った。
――まぁ、優秀な人材には締め切りを延ばしてやらないこともない。忙しいだろ? 考慮しようか? もちろん、採点評価も分け隔てなく行う。
マジで? ラッキー、なんて、どうしてあの頃の俺は思っちゃったんだろうね。バカだなぁ。ろくでもない男になら数え切れないくらい痛い目にあわされてるはずなのに。
――あと、日頃、意欲的な学生には特別、色々配慮してあげるべきだと思ってるんだよ。映画業界で働く、なんてことも勉強の一部だと思う。どう? アシスタント。
自分のことしか考えてない、バカ男にたくさん傷つけられたはずなのに。
飛び上がっちゃた。だって、現場に入らせてもらえるなんてこと、ないもん。
そんな俺の明るくなった表情を見逃さ図、ニヤリと笑った口元はよく覚えてる。
――とは言っても、ただ、で……は、いかないけどな。
吐き気がしたのを覚えてる。
――わかるだろ?
直前までわからなかった。ギラギラした指輪が嫌味なほど光って、まぁるい短足で不格好な指先が俺を捕まえようとした瞬間まで、呑気に相手の話を聞いてた。
――陽野。
不人気だったけど、俺は好きだったフィルム室が一瞬で汚されて、一瞬で嫌いな場所になったのを、覚えてる。
――向こうで。
気持ち悪かった。だから、突き飛ばしたんだ。
あーあ、思い出しちゃったじゃん。
『おい。聞いてるか?』
「…………聞いてる」
気持ち悪いけど、でも、今の俺は動揺はしてなかった。なんか、どこかで、来そうだなって思ってたのかもしれない。
なんかさ、あの時は突き飛ばしてぶん殴ったけど、それでも、こいつはじっと俺のことを見てたから。
『少し話がしたくてね。時間作れないか?』
話? なんの? はい? 俺と、そっち、話とかするほどの仲良しでしたっけ?
「……忙しいんだけど」
『うーん……でも、陽野のためでもあり、撮影照明の……芝、かな?』
さぁ……って、血の気が引いていくのを感じた。
『彼のためでもある、と思うなぁ』
そして、その数秒後には、逆流でもするみたいに、血の気が引いて爪先まで氷みたいに冷えた身体が、内側から煮えたぎるような何かに染まって、熱くなっていく。
「何っ」
『彼のためなら、時間作れるだろう? 今回、映画制作に陽野を参加できるように小川に相談したらしいじゃないか。彼」
「……」
『熱心だなぁ。小川の話じゃ、同じ高校出身なんだって? すごいじゃないか。そこまでしてくれた彼にお礼、したいだろ?』
酸素が部屋から抜けていく。
「お礼、って……?」
『だから、それを会って話したいんだが』
息、しにくい。
「…………じゃあ、明日、早番だから」
喉がカラカラに乾いてく。
『早番? あの仕事って……遅番とかあるんだっけか?』
「……仕事、辞めたんで」
『へぇ……じゃあ、収入減ったんじゃないか?』
何、この人、フツーに話しかけてくんだろ。
ホント、仲良しでしたっけ? 俺と、こいつ。
すみませんけど。
一ミリ足りとも、砂粒ひとつくらいでも、仲良し、になったことないんですけど。
「俺の収入なんて、関係ないでしょ」
『まぁ』
「……で?」
どこに行けばいいわけ? そう訊いた瞬間、電話の向こうで、いやらしく笑ってる顔が想像もしたくないのに、頭に浮かんできて。
「……わかった」
頭が割れそうに痛くなった。
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