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第8話

 僕は移動を諦めるとその場であぐらをかいた。 「クッソ、こんなめちゃくちゃにしよって……」  油を吸って肌に張り付いたシャツが気持ち悪く、僕は脱いだ。油ですっかり重くなってしまったTシャツを、絶望的な眼差しで見つめる。ここまで油を吸ってしまったら、もう捨てるしかないかもしれない。 (あー、このTシャツ気に入ってたのになぁ)  ぼんやりとそんな事を考えていたら、むき出しになった背中を指でなぞられた。油の滑りにぞくっとして肩を小さく揺らした。 「ッ。……なに?」 「別に。君が突然脱いだりするから、ちょっかいかけたくなっただけだよ」  ミカエルのなにか含んだような言い方に少し引っかかる。  違和感はそれだけじゃない。触れたところが熱を帯びていくのがわかる。  まるでそれがスイッチのように皮膚が熱く疼き始めた。 (な……なんや……?)  僕の戸惑いを察したミカエルが、ふっと目を細め、乾いた唇に油を塗った。 「君も気付いたようだね。この油がただの油じゃないって……」 ーーま、まさか……!  その言葉で僕は全てを悟ってしまった。 (こういうの、エロ本で読んだ事がある! この油、皮膚に触れると謎の力で体温を上げて、脳みそのどっかの中枢を刺激して、エッチな気分にさせて、感度がビンビンに上がって乳首触られるだけで『あぁん!』って叫ぶやつや!! 『あぁん!』って!)  ようやくきたエロ展開に興奮が隠しきれない。 「まさかこの油って、媚y……」 「そう、オーガニックの無添加百パーセントの植物油だよ」 「植物油……」  健全で体の良さそうな液体の正体に、僕は呆然としながら反芻した。 「でも、君、赤くなってる。随分と肌が弱いんだね。ニ●゛アを塗ってあげよう」 「ニ●゛ア……」  僕が見下ろすと、天使の手にはどこから取り出したか分からない青缶が光っている。その缶から白いクリームを指に付けて、僕の首筋から二の腕へと塗ってくれた。  ひりひりしていた皮膚が少し和らいだ気がする。 「あ、ありがとう。……って、和んでる場合ちゃうわ! どうすんねん! こんなところ連れてきて!」 「さて、どうしようかな。あいにくほとんどの拷問器具が油でぬるぬるして、気持ち悪くて使えないんだよね」 「台無しやんけ」  なぜそこまでして油を塗った。  確かにミカエルの言う通り部屋全体が油特有の怪しい艶やかさを放っている。 「まあ、でも、ひとつだけ使える器具があるんだ」  ミカエルは僕の腕を取って無理に引こうとしたが、油のせいで手を滑らせた。その腹いせか、油で汚れてしまった己の手を眺めた後、ゴミをみるような目を僕に向けてきた。 「君……、ヌルヌルして気持ち悪いね」 「お前のせいや!」  さっき普通に触っていたくせに、今初めて知ったみたいな反応すんな!  ミカエルはもう一度僕の手首を取った。今度は手を滑らせず、片手で僕の体を引いていく。 「おい、やめろ! 離せ!」  抗議をしながら、踏ん張ろうとするも、床も体も油まみれでどうすることもできず、僕は座ったのまま天使に引きずられていった。  反対側の壁まで来るとそこにあったのは、壁に張り付いている黒い手枷であった。  この手枷にも例に漏れず油が塗りたくられていたが、鉄製のそれは艶やかさを増し、かえって不気味さを引き立てていた。  抵抗しようと腕を振り払おうとするが、びくともしない。  僕の腕だって決して細いわけではない。休日にはジムにも通っているし、一般男性よりも力はある方だ。手首に青筋が浮くほど力を込めているというのに、子供の手相手に全く動かない。天使相手では仕方ないと頭ではわかっていても、不気味な光景あった。  手枷は筒状になっており、その空洞に手を嵌めるようになっていた。ミカエルは手枷を開くと、僕の手を軽々とそのくぼみに押し付けた。 「おい、張り付けられるなんて聞いてへんで」 「言ってないからね。ああ、動かない方がいいよ。これ、鉄製だから、ずれると骨折するよ」  そう言うと、ミカエルはその馬鹿力で思いっきり枷を閉じた。重たい金属同士が激しくぶつかる音に僕は身をすくめた。 「ひぃッ!」  容赦なさすぎやろ!  こんな勢いで腕を挟まれたら、骨折どころか手ごと飛んでいきそうだ。  それだけで僕はすっかり戦意を喪失してしまい、もう片腕は自ら手枷に差し出しだのだった。  こうして僕は無事に拘束され、腕を上げた状態で壁に沿って座るような形となった。  身動きを限定された僕の不安と反比例するようにミカエルは上機嫌だ。その両手で僕の髪に触れた。 「ちゃんと移動できたご褒美だ。頭を撫でてあげよう」 「ええように言いながら、人の髪で手を拭くのはやめろ」  ミカエルの手の動きは完全に、汚れを擦りつける動きであった。  やめろと言ったら喜ぶのがこの変態天使で、そんな相手に怒る元気も抵抗する術もなく、されるがままである。  僕の髪が油で重たく感じるまで入念になすりつけてくるので、たちが悪い。

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