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遠い日の約束⑥
「遅いですぞ、坊ちゃん。せっかくの料理が冷めてしまいます」
「はいはい、すみませんでした」
「お返事は一回で結構です」
「はい。以後気を付けます。……クハァ」
なかなか部屋から出てこなかった渉を食堂で待ち構えていた柴崎が、顔を見た瞬間お説教を始める。しかし、そんなことは慣れっこで渉は右から左に聞き流してしまうのだ。
大きな欠伸をしている態度が面白くないのだろう。料理を運びながら柴崎が軽く睨みつけてくる。こんな雰囲気で食事をして、一体何が楽しいのだろうか? 渉は小さく溜息をついた。
「本日のメインは、子牛フィレ肉のグリエ。マスタード風味でございます。よく味わってお召し上がりください」
「はい。いただきます」
長い料理名を理解できたことなんて一度もないけど、渉は静かに両手を合わせて頭を下げる。普段言葉遣いが悪く、礼儀作法も何もあったものではないが、小さい頃からきちんとした教育を受けている渉はテーブルマナーも完璧にマスターしている。
テーブルマナーだけではない。女性のエスコートの仕方やお茶の作法、ヴァイオリンにピアノに英会話……ありとあらゆる英才教育を一通り受けてきた。綺麗に並べられたナイフやフォークを順序良く手に取り、マナーに従い料理を味わっていく。
――全然美味しくない。
一流ホテルから引きぬいたと言われる料理長の腕は勿論格別だが、渉は美味しいと感じたことがない。
それよりも、仁がこっそりと分けてくれた饅頭の方がよっぽど美味しかった記憶がある。
仁は来客から頂いたと、いつも高級そうなお菓子を宗一郎に分けてくれたのだ。半分を自分で食べてから、もう半分を宗一郎の口の中に放り込んでくれる。「ほら、あーん?」などと無邪気に微笑まれると、宗一郎のほうが恥ずかしくなってしまう。
それでも仁が口に放り込んでくれるお菓子はいつも美味しくて……宗一郎は幸せを感じた。
タワーマンションから眺望できる夜景だってとても綺麗だけど、仁と一緒に見た池に咲いた蓮の花のほうが綺麗だった。
誰と話していても楽しくなんかないけど、仁がよく話してくれる外国の話を聞くのは大好きだった。
記憶を取り戻してからというもの、現実の自分を取り巻く何もかもを、いつも仁と比較してしまう。
「ここに仁さんがいてくれたら」……そう思うだけで、心が締め付けられるように寂しくなった。
「今週末、香夏子 様が遊びにいらっしゃいます」
「はぁ? 香夏子が?」
「はい。坊ちゃん、今回はくれぐれも粗相のないようにお願い致しますよ」
「あははは……」
柴崎の細い目が丸眼鏡の奥で光ったのを感じた渉は、思わず頬を引き攣らせた。
香夏子は親が勝手に決めた渉の婚約者だ。二十歳になるのと同時に結婚することが決まっているにもかかわらず、渉は香夏子が苦手だった。
器量はいいのだが、何しろ性格がキツくて我儘だ。いかにもアルファ、という性格をしている。
香夏子の父親は大病院の経営をしている。まさに絵に描いたような政略結婚なのだが、見た目がいい渉を香夏子は気に入っているらしい。だから、時々会いに来るのだ。
前回来た時は香夏子に会いたくなかったから、急遽仮病を使ってしまった。その前はマンションから脱走したし、その前はどうだったろうか……? いつも何かと理由をつけては香夏子を避けている渉だった。
そもそも渉の心の中には、今世ではまだ再会していない仁がいる。そんな相手がいるのに婚約者どころではないのだ。
仁もアルファだったが、香夏子のようなタイプではない。物腰は柔らかいし、いつも穏やかに笑っていた。一緒にいて落ち着くし、「いつかは仁と番いたい」……そう思える人物だったのだ。
逆に香夏子は、いつもキンキンとした声で喚いているイメージしかない。妙に色気を振り巻いて渉を誘惑してくることもある。それが煩わしくて仕方がなかった。
それでも、優秀な子孫を残すためには、優秀なアルファ同士が番うのが最善策だ――なんてことは、わかりきってはいるのだけれど。
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