長かった冬が終わりを告げ、春がやってきた。桜が一斉に咲き乱れ、温かな風が頬を撫でていく。 「これが高校の制服か……」 　渉は高校三年生になってようやく制服というものに袖を通すことができた。普段着ている礼服とはまるで違って動きやすい。それに、どこか青春の香りがした。真っ新なブレザーを羽織り、赤いチェックのネクタイを締める。 「あ、ちょっと緩めに締めるのがかっこいいのか？」 　新学期が始まる前にSNSでいろいろなことを勉強しておいたのに、緊張してしまって全てが空回りしてしまいそうだ。それほど、渉は高校へ行くことが楽しみだったのだ。 　今日という日を平和に迎えるために、香夏子の買い物にも我慢して付き合ったし、規則正しい生活も心掛けた。そう、全てはこの日の為に……。 「参りましょう、坊ちゃん」 「うん」 　柴崎がそわそわしながら迎えに来る。本当なら電車通学をしてみたかったのだけど、両親がそれを許すはずもなく……柴崎が毎日送迎してくれることになった。 「本当に……大丈夫ですか？　坊ちゃん……」 　柴崎の声が心なしか震えている。 「渉坊ちゃん、どうかご無事にお戻りくださいませ」 「渉坊ちゃん。こちらがお弁当になります。召し上がる頃には冷めてしまっているかもしれませんが……」 「渉坊ちゃん、不良に絡まれたら、すぐに先生に言うのですよ」 「どうか私共に、もう一度その愛らしい笑顔を見せてくださいね」 　見送る家政婦たちは、皆、涙を浮かべながら肩を震わせていた。 　――俺はこれから戦地に向かうわけじゃないんだけど……。 　大袈裟すぎる。皆からの過剰な扱いには慣れている渉でさえ、呆気にとられるほどの盛大な見送りだった。思わず、苦笑いしてしまう。 「大丈夫だから。じゃあ、行ってきます」 　一体何人前の弁当なんだろう？　……そう思うほど大きな弁当箱を抱えて、渉は柴崎の運転する車へと乗り込んだのだった。 　さすがに、馬鹿みたいに大きな高級車が正門前に停まるのは抵抗があった。渉は、不満を爆発させる柴崎をなだめ、少し離れた場所から歩いて学校へ向かった。 「おはよう！」 「あ、おはよう！　一緒に行こうよ」 　高校の周辺からは、元気な生徒たちの声が響く。皆とても活発そうで、キラキラと輝いて見えた。楽しそうな笑い声が辺りに広がり、そのまま仲良く校舎の中へと消えていく。 　――これが高校か……。 　急に怖くなって足が止まる。そこには、渉の知らない世界が広がっていた。あんなに楽しみにしていたのに、突然孤独を感じて俯いてしまう。足が思うように前へ進まない。 　皆はあんなに楽しそうなのに、自分には友達すらいない。一体どうやって、この輪の中に入っていけばいいのだろう。そもそも、自分がここにいること自体が場違いなのではないか……。 　楽しみにしていた高校生活の始まりに、影が落ち始めるのを感じてしまう。 「やっぱり、帰ろうかな」 　こんなにも世間知らずな自分が、この場所で友達を作って、楽しい高校生活を送ることなどできるのだろうか。井の中の蛙、大海を知らず――そんなことわざが、ふと頭をよぎった。 「駄目だ、怖い」 　拳を握り締め、唇をギュッと噛みしめる。諦めて正門に背を向けた瞬間、強い春風が吹き、満開の桜の花びらが一斉に空へと舞い上がった。