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カルガモの親子⑧

「フフッ、変な渉。あー! 気持ちいい」  喉の奥で笑いながら正悟が縁側の窓を開けてくれる。窓を開けた瞬間、外の涼しい風が屋敷の中を通り抜けていった。  少しだけ夏の匂いを含んだ風を思いきり吸い込んだ。正悟は大きく伸びをしている。 「ここに来るとさ、なんだか落ち着くんだ。僕はこの屋敷に住んだことなんてないのに、ずっと前から知っているような気がして……大切な思い出があるような気がしてならないんだ」 「大切な思い出?」 「そう。家の家紋は蓮の花がデザインされているんだけど、見ての通りこの屋敷にはたくさんの蓮の花が咲いている。あの蓮の花を見るたびに、ぼんやりと誰かの顔を思い出すんだけど、それが誰かはわからない」 「そっか……」 「誰なんだろう。ここで僕のことを待っていてくれる人は」 「誰、なんだろうな……」  やっぱり、正悟には過去の記憶がないんだ……。その事実を突きつけられたような気がして、心が張り裂けそうに痛かった。  この離れで密会していたことも、花火祭りの夜に、あんなに熱い夜を過ごしたことも……。  そして、屋敷を取り囲む塀の向こう側に広がる池に、二人で身を投げたことも……。  正悟が蓮の花を見て懐かしいと感じるのだから、やっぱり正悟は仁の生まれ変わりなのだろう。しかし、彼は仁としての記憶を全て失ってしまっている。それが刃となって渉の心に突き刺さった。  風鈴の音色に耳を澄ませながらそっと目を閉じる。こうして目を閉じていると、まるで仁と一緒にいるような気がしてくるのだ。 「ここは本当に落ち着くね」 「渉、また眠くなった? 疲れたよな? 遠くまで連れてきちゃってごめんね」 「ううん、大丈夫。ここに連れてきてくれてありがとう。俺、ここに来られてよかった」 「少し寝たら? 僕もまだ寝足りない。くはぁ……」 「うん……」  大きな欠伸をしながら、正悟がそっと渉の体を引き寄せて肩に寄りかからせてくれる。いつもこうやって、仁と二人で蓮の花を眺めていた。沈む夕日を眺めながら、明日もまた会おうと約束して。短い時間ではあったけれど、甘いひと時を過ごしたのだった。 「仁さん、やっぱり会いたい……」  今渉の隣にいるのは仁なのに、仁ではない。その事実が悲しくて仕方がない。渉の頬を一筋の涙が伝った。

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