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もう一つの記憶③
柴崎の運転する車がマンションのガレージに到着する。
「はぁ……。ようやく着いた」
渉は大きく息をつく。学校では、正悟に全神経を集中させているせいでひどく疲れる。早くベッドに横になりたい、そう思いながら渉は車から降りた。
心なしか足はフラフラするし、眩暈もする。自分で学校に通いたいと言いだしておいてなんだが、明日は体調不良を理由に欠席しようかと、よからぬことを考えてしまった。
「ん?」
突然ガレージの中が騒がしくなり、渉は思わず足を止める。
普段ガレージが賑やかになることなんて滅多にないものだから、渉はそちらに視線を向けた。
「櫻井様、お疲れ様でした。この後、先日お取引がありました、会社の重役様とのお食事会となっております」
「あぁ、わかった」
「それにしても、さすが櫻井様です。あのような複雑なトラブルも簡単に解決されるなんて。クレームをいただいた時には、本当に肝が冷えました」
「あれくらいのクレーム処理、大したことではないだろう」
数人の中年を引き連れて颯爽とガレージに姿を現したのは、まだ若い男だった。わかりやすいご機嫌取りにも顔色一つ変えず、資料らしきものに目を通している。
櫻井と呼ばれた男がさらっと着こなしているスーツは高級そうだし、見るからに仕事ができそうな面構えをしていた。何より、あの若さで、数人の部下を従えているのだから、きっと有能な男なのだろう。そんな魅力をもつ男だった。
「これから会食に行くお相手も、櫻井様のことを大層気に入っておられる様子です。更にはそのご令嬢が、櫻井様にお会いしたいと楽しみにされているようですよ」
「ご令嬢が?」
「はい。上手くいけば、ご令嬢とお近づきになれるかもしれませんね」
「それは困ったな」
「はい?」
櫻井は部下の言葉を聞いて突然立ち止まる。先程まで目を通していた資料を鞄にしまいながら、大きく息を吐いた。
「僕はずっと昔から好きだった人がいるんです。だから、どんなに名家のご令嬢とも仲良くするつもりはありません」
「し、しかし、ご令嬢に気に入っていただけましたら、我が社の売り上げにも大きく貢献することができます」
「それでも、僕はご令嬢と親しい関係になることはありませんよ」
「櫻井様……」
「そんなことより、早く車を出してもらえますか? ……ん?」
そんなやり取りを「かっこいいな」とぼんやり見とれていた渉の視線に気が付いたのか、櫻井が渉のほうを向いた。
きちんと櫻井の顔を見た渉の心臓が小さく跳ねる。櫻井は渉が思っていた以上に整った顔立ちをしていたのだ。
頬に熱が籠り、視線を逸らそうとしたのに、不思議と櫻井から目を離すことができない。その洗練された男の魅力に、渉は釘付けになってしまう。
正悟にはない色香を、櫻井は持っていた。
その瞬間、櫻井が渉に向かい微笑む。その優しい笑みに渉は心臓が止まる思いがした。
そしてなぜだろうか。ひどく懐かしい感じがして、胸が締め付けられる。この笑顔を自分は知っている……。そう思わずにはいられない。
櫻井は渉に向かい丁寧に一礼してから、颯爽と車に乗り込む。
そんな櫻井に、微笑み返すことも、お辞儀をすることもできないまま渉は呆然と櫻井を見送る。
「櫻井、櫻井……。畜生。もう少しで思い出せそうなのになぁ」
小さく舌打ちをしてから、前髪を掻き上げたのだった。
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